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【掌編】九月の朝

 音のない朝、耳鳴りの響きが頭部の周りを埋め尽くしている。いつからか目覚めていた。部屋を見ているのが自分だと理解するのに少し時間がかかった。遠くでカラスが鳴いている。それから、重たいボディを運ぶ四輪の、空気を這うような摩擦音。耳を澄ませていると、微かな振動音が聞こえてくる。どこかで何かが駆動している。人知れず、絶え間なく。

 つけっぱなしの照明。いつのまにか寝入っていたらしい。そして再び眠気がやってくる。九月もまだ上旬だというのに、この頃はひどく涼しい。朝の睡眠欲はその引力を高めている。やさしくて、非情。瞼の裏が乾いたようにひりひりと痛み、自然、意識が虚になっていく。頭蓋の内側で、ぼこん、と大きな水の泡が浮かぶ。

 微睡。消えいく意識の中、ベランダで揺れている洗濯物が見える。風が吹いている。風。風はどこからやってきたのだろうか。どこで生まれ、どの空を渡り、いまここに来て私の洗濯物を揺らしているのだろうか。曇り空。そう言えばこの朝は、雨が降るんだっけ。

 私は泥のような身体をどうにか起こして、掃き出し窓のロックを解除し、指紋とか何やらで汚れたガラスの壁をスライドさせる。強い風が吹き寄せる。伸びた髪が揺れ、LEDのシーリングライトが煌々と輝く、小さな部屋の中に波打つ。夏の終わりの匂い。新しい季節の微かな兆し。

 室外機の固定器具にぶら下がった物干しハンガーのフックを取り外す。ガタガタと窓の揺れる音。曇り空。青白い街。地表を埋め尽くすアスファルトから、コンクリートの無数の柱が突き出している。ビル、電柱、公園の彫像。石の街。物語の終わり。朝の訪れとともにレゾン・デートルを失っていく街灯の明かり。風。

 下界を歩く年老いた男の姿が見えた。朝早くから散歩をしているのだ。どこかで生まれ、暮らし、いまもこの空の下、生きている男。私は窓を閉め、施錠し、カーテンレールにハンガーを掛けた。

 部屋の照明を消す。レースカーテンをすり抜けてわずかな光が注ぎ、部屋を薄い藍色に染める。倒した座椅子のクッションに体を預け、毛布の中に足を突っ込んで胸元まで引き寄せる。目を閉じる。遠くで電車の車輪がレールを擦っている。キイイイ……。

 近づいてくる朝に、止め処なく流れすぎて行く時間に、私は口元に小さな笑みを浮かべ、無為な抵抗を試みる。この瞬間。

 また新しい物語の始まる、その一歩手前。

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