過去を記録する─。それは、大切なことを見つける心の旅
なんという単純。自分のやりたいこと、大事にしたいことなんて、意外と簡単に見つかるものだった。
年明けからの自分のnote記事を見直すと、面白いくらい郷愁感が漂っている。人生半分をとおに過ぎ、過ぎ去りし時代の賑わい、興奮、熱狂を記しておきたかったらしい、私は。
過去─。もう戻れない場所と時間。寂寥と憧憬と切なさが渦巻いている。
それは郷愁にほかならないけれど、「昔は良かったなぁ」では収まらない気持ちがあるのも確かだ。
過去は消失するけれど、消滅するものではない。その時代を歩いた私の記憶として生き続けるものだから。
記憶を証明しようと書き記しているけれど、記録に残すためだけなのか。
いや、違う。
過去を記すというのは、大切な何かを見つける旅ではないか。
それは郷愁の姿をしているけれど、きっと、現在進行形の旅なのである。
ここからは、旅のように彷徨った過去記事をふり返り、見つけたことをまとめていこうと思う。
今年の年明け、私は【『アデン アラビア』の冒頭文と、恋から逃走した20歳の私】という記事を書いた。自分の恋の思い出を、ポール・ニザンの本と共に恥ずかしげもなく記したのだ。
私にとって20歳はひどく意味ありげな時代だった。本の面白さ、映画もジャズも当時の恋人からたくさん教わり、一緒に愉しみ、興奮覚めやらぬ時間を泳ぐように過ごした。
その恋に破れ、独り静かに沈思することを覚えたのもこの時期である。
その頃、高校時代に所属していた文芸サークル仲間の父上に街で会い、初めて大人が集う本物のバー「サンボア」に連れて行かれた。煙草の煙ただよう店内で訊いた「ホンモノ」を見抜けという言葉、お酒の飲み方。大人と交わり、さまざま学んだ貴重な時代でもあった。
その様子を記事にしたのが、【夕刻のバーにて。とある父親、とある親娘の奇妙な風景】である。
思い出の京都サンボアは、もう閉店している。だがつい数週間前、文学繋がりの友人と銀座サンボアを訪れる機会を得た。
京都に比べて立派すぎる店構えだが、スタンディングスタイルのカウンターが懐かしい。悪戯心であの頃と同じカクテルを頼んでみる。濃いめのジンリッキーが喉に弾けて清涼感が広がると、突如、過去の風景が、人々の囁きや温度が、肩越しに蘇った。
幻惑のひとときに感極まり、私は思い出を口にしながら友人を過ぎし時代へと誘う。友人は私と同時代を生きた人ではないが、サンボアという場で私の過去時間への参加を果たしてくれた。
2023年の銀座でもまた、唯一無二の思い出が刻まれた。友人との時間は、過去の忘れがたい物語と地続きで存在している。
高校文芸サークルの思い出は、それこそ色褪せることのないキラキラの欠片である。現実は猥雑で欲望全開で滑稽だけれど、だからこそ愉しくて愛おしい。
若い頃は前しか見ない。前に向かって突進しすぎて、卒業するとサークルの友に連絡もとらなくなった。
あんなに大好きだったのに。若者は本当にアホである。若者は、というより私がアホなのだ。
そんな後悔と懺悔の気持ちで涙ながら、いや笑いながら綴っているのが、【文芸サークル青春白書〜モテ父の異常な1日】まで続いている<文芸サークル青春白書>シリーズだ。
高校時代は携帯電話どころかPCもなかった。私たちは走り回って我が身を粉にして情報収集し、アナログ的に脳にたたき込み、全身全霊で行動した。ヘトヘトで汗まみれの青春だ。そんな時代を経て今の私がある。
SNSが人との繋がりの主軸になると、人や社会との距離感が近かった昭和の家庭劇を見たくなる。それこそ郷愁だけれど、温かな何かを取り戻したい思いに嘘はつけない。
そう思って記事にしたのが、
【唯一無二の心地よさとは? 小津安二郎監督『東京物語』の魅力】と、
【傑作! NHKドラマ版『阿修羅のごとく』。向田邦子脚本は、和田勉演出で完成する】だ。
いずれの作品にも封建的な風習、男尊女卑の風潮が端々に見られるが、それ以上に失われた上下関係やマナーと建前の美しき部分に心惹かれる。
古き悪しき習慣がなくなるのは歓迎だが、日本人特有の奥ゆかしさや美意識、温もりまでもが捨て去られたようだ。
「昭和」というキーワードは、今や悪口で使われることが多い。もちろん悪い部分もあるが、それほど簡単に一刀両断されてはたまらない。
だったら私は、置き去りにされた美しき良きこと、熱情の証を記すまでだ。
書評にも時代の空気感や郷愁の思いを記している。
今の生活や環境に息苦しくなったとき、処方箋になるような小説がある。それを紹介したのが、【郷愁感とジャック・フィニイ。そして自分の過去へ疑似タイムスリップ】だ。
過去礼賛と懐古主義のフィニイの短篇は、失われてしまった大切な何かに気づかされる作品である。
また70〜80年代初頭は、雑誌が熱い想いで生き方を牽引していた時代だった。
【女だって……。開高健に、『風に訊け』に爆笑している。】の紹介記事では、その空気感も記しておきたい裏心があった。
ここ数年、雑誌やマンガなどは読者ターゲットを細かくセグメント化してその世界観からはみ出さないものが好まれている。「子供が読むマンガは子供が主人公」のような。それがたとえ魔女であっても大人ではなく子供の設定。
80年代ごろまでは、そのようなセグメント化はなかった。
むしろ雑誌はそれを許さなかった。
『風に訊け』は、週刊プレイボーイに連載されていた悩み相談コラムがまとめられている。女性のヌードグラビアなど男性の欲望を満たすお助け本だ。そんな雑誌に、芥川賞作家・開高健による悩み相談コラムがある。
エロの中に純文学を持ち込む編集センス。そんな気概が当時の雑誌にはあった。そういう生き方を雑誌が牽引していた。
雑誌は決して、今のようなカタログ的でオマケ中心ではなかったのだ。
とは言えさすがに、私、この雑誌を現役で読んではいない。存在さえ知らない乙女な時代だったのだから。
こんなふうに過去を眺めて郷愁を感じることで、自分が継承したい大事な思いや所有したいものが見えてきた。
自分の価値感に正直に生きればいいと素直に思う。
私にとってカタチある本やお気に入りの品々は、すべて自分の歴史を物語る一員である。それらは思い出の品などではなく、今も一緒に時を刻むパートナーとなり得る「生き物」だ。
時間も同じ。コロナでリモートになってから、丁寧な食事作りの快感に目覚めた。海辺散歩の気持ちよさも堪能している。
これらを大事に思うのは、自分を培ってきた価値感、アイデンティティによるものだ。価値感なんて人それぞれだし千差万別。責めることでも責められることでもない。
でもほんの少しでも価値感を共有できる家族や友人がいれば、すごく幸せ。それこそ大切にすべきではないだろうか。
だから私はこれからも、今に繋がる、未来へ繋げたい過去を見つけ、noteに綴っていきたいと思う。