女に焦がれる純情と、noteと、田山花袋『蒲団』のアツい関係
「私はやっぱり女が好きなのだ」
こんなことが書かれている男性作家のエッセイは、高確率で面白い。そのエピソードはたいてい微笑ましくちょっとカワイかったりもする。
noteの記事にもその傾向はあるようだ。
「女が好きだ」と謳っていなくても、女エピソードを綴る記事を続々発見。
例えば部下に恋する話し、過去の恋人への想い、理想の女性像や手を握ることへの憧れなど、記事に溢れる未練、憧れ、傷心。私はどれも愉しく読む。
普段は露出されない男の純情が垣間見え、いわゆるギャップ萌えというやつだろう。
なにもエッセイだけではない。
私小説に綴られる恋もオツなもの。
私小説とは作者の体験に基づく話しではあるけれど、そこにフィクション性が加わって小説の体を成している。もちろん恋愛エピソードだけに留まらない。
内面の深掘りが特徴で、エッセイよりもズシンと重い。重苦しい。
いや、いい意味で言っている。
『苦役列車』など西村賢太作品や大江健三郎の『個人的な体験』が思い浮かぶけれど、元祖・私小説はゴリゴリの恋愛悶絶ものだった。
この私小説という文学スタイル、実は意外と歴史が浅い。
とにかく最初に書かれた小説が凄かった。
ここまで暴露するのかというものだった。
その元祖とは、田山花袋の『蒲団』である。
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オレ、自分のエグい心を書いてみるわ
田山花袋はこんなことを果敢に思った。
当時、新時代の文学を求めていた花袋は苦悩していた。
明治40年、花袋はこんなふうに思った。おそらくだが。
その勢いで書いたのが、赤裸々な暴露小説『蒲団』である。
花袋と女弟子・岡田美知代との実話をモデルに、嫉妬や内面的な性欲さえありのままに描こうとした。これが私小説と言われる所以だ。
さて、『蒲団』はこんな物語──
早い話し、
妻子持ち中年作家の時雄が若い女弟子の芳子に恋をし、
それでも不倫できずに募る性欲と葛藤し、
芳子の恋人に嫉妬して妨害工作を妄想し、
やることなすこと裏目に出て、
図らずも芳子を破門して故郷に帰し、
寂しさのあまり、芳子の寝間着と蒲団の匂いを嗅いで嗚咽する。
こんな顛末なのだ。
なんたる滑稽。なんたる悲哀。
蒲団と寝間着の匂いを嗅いで泣くなんて。
逞しい想像力と未練、歪な恋慕にどうしようもない純情が溢れている。
新スタイルに、絶賛と批判の嵐
『蒲団』が発表されるや否や、文壇はその徹底した作者内面の暴露というスタイルに度肝を抜かれた。今でこそ珍しくもなんともないが、この時代に露悪系小説などは存在していなかったからだ。
『蒲団』は前年度発表の島崎藤村『破戒』を凌ぐ注目と賞賛を浴び、また赤裸々なざんげ録として批判の対象にもなった。
要は、良くも悪くも注目の的だったのである。
『蒲団』は芳子への抑えられない思慕や性欲を悶々と綴っただけの、狭い狭い世界観の小説である。
作品の背後にある社会の閉鎖的状況にも、妻の様子にも殆ど触れていない。
だからこの作品は薄っぺらいとも批判されたが、私はそうとも思えない。
これは芳子に夢中で他のことが目に入らない男の物語だ。三人称で書かれてはいるが、男の心の世界からはみ出さない。男の無関心事は追わないという潔さ。
身勝手で俗物な心をひたすらさらけ出しているだけの私小説なのである。
だから視野は狭くていい、と私は思う。
だからこそ滑稽なのだ、と私は思う。
花袋の『蒲団』があったから、後の作家たちの「私小説」に継承され、純文学にも繋がり、「情けない自分暴露系」作品の太宰治、三島由紀夫の『仮面の告白』などにも系統していく。
『蒲団』はこんなエポックメイキングな作品なのだ。
時を経て味わえる物語
私の『蒲団』初読みは高校2年のときだった。当時の筆頭バイブルはサリンジャーや橋本治。同世代主人公たちの瑞々しく毒々しい感性や反発心に心がときめく。
反して『蒲団』の気持ち悪さよ。中年男の妄想恋愛など受け入れがたい。谷崎の『陰影礼賛』に傾倒しても『鍵』に嫌悪する年頃だ。乙女と近代文学の溝はまだまだ深い。
そして今─。私は自分が歳を重ねることを苦々しく思っているけれど、文学を味わえる程度に酸いも甘いも蓄えた。
おかげでnoterさんたちの「女の話し」も愉しめて、その元祖たる『蒲団』読書に浸るしあわせも噛みしめている。
若くない自分もそれなりに、いい。
*余談*
本作品収録の〈解題〉によると、
花袋は晩年、
あまりに本作が話題であることに
「今さら『蒲団』でもあるまい」と、
自作の『田舎教師』推しだったとか。
*私小説の出発点は田山花袋と記したが、他の説を唱える論もある。
*イラストACよりぷくりゃすずめさんのイラストをお借りしました
*イラストACよりななさんのイラストをお借りしました