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何者にもなれないのかもしれない

 今のご時世、時代は変わっても、肩書きというものが非常に重宝されます。高学歴で、資格を持ち、優良企業に就職をする。留学経験や外国語などのスキルがあれば尚良しです。それらは全て自分を表す肩書きとなって精神に安定を齎します。肩書きは他人が客観的判断を下すにはもってこいの材料で、彼は語学が堪能だとか、弁が立つとか、肩書きに応じてそういった類の選分までなされるわけです。

 だから、誰もが肩書きを求めるのは当然のことかもしれません。格付けされるために優位となる所属を望むわけです。肩書きがあることは生きていく上で非常に有利なんだいう教育を施されるのが現在の日本そのものでしょう。

 僕もこれまで、学歴だったり、資格だったり、職歴だったり、ある程度の経験をしてきました。決して自慢できるほどのことではありませんが、実際に学歴で得をしていると感じることは数多ありました。そして、人生のそれぞれの段階に従って、学校だったり、会社だったり、いろんな場所に所属をしてきました。

 でもなぜか、どれも腑に落ちませんでした。どこへ行ってもここは僕の最終着地地点ではない。ここに骨を埋めるのは何かが違う。そう感じて、自分の全てをそこに注ぎ込むことなく、いつも一歩引いた場所にいるような感覚で、各々のコミュニティに上手く馴染むことができませんでした。

 その一方で、コミュニティに深く埋もれること、何らかの肩書きを持つことへの憧れは強くありました。特に数学者やエンジニア、職人など、ある分野に特化した所謂プロフェッショナルに堪らなく憧れがあったのです。そういった人たちを真横で見ながら、何者にもなれないかもしれない自分を憂虞することが多々ありました。

 しかし、フリーランスになった今、どこにも属さなくてもいいということがこれほど心地の良いものなのかと知り、吃驚したような気持ちなのです。僕は一歩引いたポジションから、目の前にある興味の対象を、粛々と形にしていくことしかできない性分なのだということを改めて感じているのです。

 この文章に何か結論があるわけではないし、要旨としては至る所で語り尽くされているような話かもしれません。ただ。誰もが必ずしも何者かにならなくていいんじゃないかということだけは、みんなが心の片隅に憶えておくべきだと思ったし、誰もが人生のとある地点でこれに気付くような気がしていて、僕自身がそんなタイミングだったこともあって、兎に角書き留めておいた次第です。

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