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翻訳家の生活

 この note というプラットフォームに自分のページを立ち上げてから、ほぼ二カ月と半分の日々がたちました。フォロワーの方が五名、❤️マークを送ってくださる方も毎回数名いたりと、ありがたいかぎりです。
 今日は少し趣向を変えて、私の翻訳家としての日常生活の一端をご紹介することにしましょう。暴露趣味とか自惚れのようなものは一切ありません。自分の書いているものはそこから生まれるということを示してみたいのです。その意味では前々回に「翻訳という哲学」と題して書いた記事の続編ということになります。

 朝は六時に起きます。スマフォの目覚ましはこの時間にセットしてあります。らじる*らじるを立ち上げ、ラジオR1を聴きながら、顔を洗ったり髭を剃ったり、軽く床にモップをかけたりします。六時半からはラジオ体操をします。第一も第二も手を抜かずにみっちりと、深く息を吸い、息を吐き出しながら十分間集中します。関節はぴんと張って、腕や足の筋肉や靭帯、腹筋、背筋にできるだけ負荷をかけてストレッチ効果が出るようにします。
 ときに目覚めてからのこの朝の時間が、精神的にも肉体的にもつらく感じられることがあります。それが健康管理の目安になります。つらいときは無理をしないように心がけますが、自分の心も体も思い通りになったためしはありません。
 それから朝ごはんを作って食べます。ご飯に味噌汁、納豆、鮭、浅漬け、長芋など、おかずは判で押したように変わりません。薬缶にお湯を沸かしてから食器を洗い終わるまで、一時間弱です。それからカメラをぶらさげ、自転車に乗って川辺まで写真撮影散歩に出かけます。写真は撮れたり撮れなかったり、季節によっても変わります。裏庭の雑草が伸びてくると、草刈りをします。
 それで九時とか九時半くらいになります。またらじる*らじるでNHK FMなど聴きながら(今度はオーディオから出力します)、お昼十二時まで翻訳作業に没頭します。
 昼飯も自宅で食べます。スパゲッティ(クリーム系、トマト系の二種)、焼きそば(マルちゃん)、うどん(讃岐の乾麺)、親子丼、焼き飯、その他。
 食べたら昼寝をします(三十分弱)。少し仕事をして(伝票、レシート、書類などの整理)、二時を回ったら、買い物に行ったり、老人ホームの母親を訪れたりします。三時過ぎには帰ってきて、また翻訳です。この時間帯がじつはいちばんつらい。朝六時から一所懸命働いているので、もう仕事をしたくないモードになっているからです。で、騙し騙し六時まで翻訳です。
 さて、夕食です。これも自分で作ります。でも、毎日精魂尽き果ててます。缶ビールのプルリングをシュポと持ち上げ、一口飲んで数分ボーッとしています。少し生き返った感じが体内に満ちてくると、ポテサラを作り、キャベツを千切りにし、フライパンで豚肉の生姜焼きをジュージューやったりします。クソ高い秋刀魚を焼いたりもします。麻婆茄子でも食べようかと思うこともあります。ハンバーグをこねることもあります。カレー(昼に仕込む)とかシチューのときもあります。その日の気分でいろいろですが、ほとんどやけっぱちで作ってます。ビールとワインがなければやってられません。キッチンドランカーみたいなものです。
 晩御飯を食べたあとは仕事はいっさいしません。したくてもできません。どうしてもしなければならないときは、朝の四時とか五時に起きます。でも、睡眠を削るとよくありません。そのせいで不整脈になりました。
 ご飯を食べたあと、発作的に街まで出かけることがあります。行きつけのバーが一軒だけあって、そこでジンやらカクテルやら三杯ほど飲んで帰ってきます。帯広の飲み屋(とくにスナック)は店主も客もやたらに話しかけてくるので行きません。カラオケは暴力です。行きつけのバーは帯広には珍しい、静かなオーセンティック・バーなので、バーテンダーはあえて向こうからは話しかけてきません。二人きりになるとぽつぽつ話して、十一時を回るとタクシーに乗って帰ってくる。十一時を過ぎると酔っ払いの客がやってくるから。
 で、風呂に入って寝ます。
 次の日、スマホが六時に鳴ります。同じことの繰り返しです。

 こういう生活は東京にいたときから始まっています。妻が生きていたときは、食事は彼女が作ってくれました。一人になってからは自分で作るようになりました。帯広に帰ってきてからは朝は母が作ってくれましたが、昼と夜は自分が作って母と一緒に食べていました。今年の五月に母が施設に入ってからは、一切合切自分一人でやっています。
 三十代の後半にフリーの翻訳者になったときは、昼夜かまわず仕事をしていました。めちゃくちゃなリズムで生活していたので、目をやられ腰をやられました。朝目覚めても目が開かない。目やにがまつ毛にこびりついて瞼が開かないのです。寝ぼけた頭で失明したかと思いました。強度なぎっくり腰みたいなものに襲われ、立ち上がることもできず、代用の頭痛薬でなんとか痛みを散らし、朝イチで整形外科医のもとを訪れたりもしました。
 それ以来、この仕事を続けるには規則正しい生活をしなければならぬと思い定めました。徹夜などもってのほかです。机、椅子、パソコン(昔はワープロ)などに金を惜しんではいけない。目と腰を痛めるからです。
 こうしてストイックな生活が始まりました。そのころから朝は早くから起きていました。ラジオ体操をするようになったのは帯広に帰ってきてからですが、東京では近所に奇跡的に残っていた里山で三十分から一時間近くウォーキングしたり、午後からはプールに通ったりしていました。
『めぐり逢う朝』や『フランスの女』のノヴェライズをやったのは、こういうストイックな生活が定着してからのことです。エロスの生まれ変わりのようなジャンヌの描写はその生活に支えられていたとも言えるし、規則正しい窮屈な生活への反発、あるいはフラストレーションの解消だったのかもしれません。
「翻訳という哲学」のなかで、認識とエロスはひとつのものだと書きましたが、エネルギーはスタティックなところからは生まれない。二つのベクトルが引き合い、あるいは反発しあうときにエロスも認識も生まれる。核融合や核分裂のようなものかもしれません。
 じつはこの相反する矛盾した状態は、前回アップした「坂本龍一」に関する投稿の内容とも関係するのですが、でも、それは次の回にまわしましょう。

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