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本読み(その3)——「影響」について。

 前回の記事をここにアップしてもらうために、編集担当の娘にテクストを送ったところ、本好きの知り合いから、こんなメッセージをいただきましたという報告があった。
 お父さんのnote いいですね! こういう深い、こだわりを書き抜くと言うか、しっかり息を吐くような文章を久しぶりに読んだような、ほんとに書き続けてほしいと思いました!
 とっさに、知り合いって誰なのときくと、近所の人という答え。出版関係の人かと思っていたので、少し虚を突かれる感じがあった。もちろん、こんな願ってもないお褒めの言葉をいただいて、ありがたいかぎりだし、励みにもなるのだが、同時に背筋を正さねばと思うところもあった。
 「しっかり息を吐くような文章」という表現である。
 こういうことを意識して書いているわけではないが、急いで粗忽な文章にならないようにしていることだけは確かである。できるだけ砕けた調子で、でも、軽々しくはならないように。
 じつは、この「しっかりと息を吐くような文章」という表現で、思い出したのはパスカル・キニャールのことなのである。
 彼の文章を初めて目にしたのは、Tous les matins du monde と題された短い小説である。アラン・コルノーの映画の原作として書かれたものである。日本では『めぐり逢う朝』という邦題で封切りになったので、原作小説の邦題もそれを踏襲することになった(早川書房、1992年)。
 フランス語の原題を素直に訳すと、『世界のすべての朝は』となる(2017年に熊本の「伽鹿社」という出版社から改訳・復刊した)。
 一読して、魂を奪われた。
 フランスでは百万部を超えるベストセラーになった本である。
 日本ではそうはならなかった。
 自分の思い入れが深すぎたせいかと思い詰め、文字どおり長く尾を引くトラウマとなった。
 逆に言うと、このトラウマのせいで、私は翻訳家になったとも言える。
 出世作に対する後悔が、その作家を大きく育てるという例はいくらでもある。あえて例を挙げれば、藤沢周平と直木賞受賞作の『暗殺の年輪』、村上春樹と群像新人賞受賞作の『風の歌を聴け』。本人たちがそう述懐しているのだから間違いない。
 もちろん、こんな国民的大作家と私のような一介の翻訳者では比べ物にならない。
 ただし、自分のなした仕事に傷つき、そこから立ち去ってしまう人と、その痛みに耐え、その痛みをエネルギーに変えて生き延びる人もいる。
 たぶんそのとき、その人の「才能」が試されている。
 その試練に耐えることができれば、その人には「才能」があったということになるし、その試練に耐えることができなければ、あるいは耐えようとしなければ、その人には、そこで生きる「才能」がなかったということになる。
 身も蓋もない結果論のようでもあるけれど、少なくとも今の自分には、「才能」というものは、生まれたときからその人を見守っている守護神のようには思えないのである。
 ちょっと遠回りになったが、この『めぐり逢う朝』をきっかけにして、私とパスカル・キニャール作品との取っ組み合いが始まった。
 あるとき、彼は私にこう言った。
 おれの書く文は密(dense)だろう、と。
 そう、彼の書く文は濃密で、深く沈降するのである。
 一個一個の単語の選択が厳しく、取り替えがきかない。
 そこに魅せられると、手が止まってしまう。翻訳が進まなくなる。
 「取っ組み合い」とは、そういう意味である。
 私は日本の戦後に盛り上がった「綴り方運動」と呼ばれる、話し言葉の延長のような書き方をよしとする機運のなかで教育を受けた。
 パスカル・キニャールの文章は、それとは真逆なのである。
 彼から学んだことは、話し言葉と書き言葉は起源が違うということである。それについてはここでは詳しく書かない。
 私は翻訳を通じて、彼の書き方(écriture)から途方もない「影響」を受けた。
 影響という言葉をカッコでくくっているのは、よく使われるこの言葉は、適切でもないし、正確でもないから。
 パスカル・キニャール自身が、この言葉(influence)という言葉を嫌っている。あるインタビューで、彼の文学活動の影響関係を問われて、とっさに彼はそういう「天体的」(astral)な表現を使うのはよそうよ、と冗談混じりに答えていたのを今でもよく憶えている。
 influence という言葉は、天体同士の影響関係、すなわち重力による支配と被支配の関係を連想させるからだろう。
 逃れられない影響関係。その生涯にわたって、自由な文章形式を追い求めてきたパスカル・キニャールにしてみれば、この言葉はもっとも忌むべき言葉なのかもしれない。
 私もできれば「影響」という言葉は使いたくない。
 なぜなら、彼の文学作品の強力な磁場に引き寄せられては、そこから逃れようとあらがって・・・・・きたのだから。
 「新十勝日誌」と題したブログの試みもそうだったし、あれこれ雑多な翻訳に手を出し続けてきたのもそのせいだった。
 でも、力尽きた。
 あらがうのはもうよそうと。
 星は自分の意志で動いているのではない。
 様々な影響関係に縛られて、あの夜空に浮かぶ星座を形作っているのだと。

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