合戦ミニチュア

孫子とパブリックリレーションズ

兵法書「孫子」は平明な文の連続で、法則性ひとつひとつの表現があまりにもシンプルです。日本でも戦国武将武田信玄がこの一文「風林火山」を切り取って旗印として使っていましたが(疾きこと風のごとし、しずかなること林のごとし。攻めること火のごとし。動かざること山のごとし)、文は終始あんな感じで綴られています。これだけでは何がどう?ってなりますよね(笑)。

この法則性、パブリックリレーションズの解説にもあてはまるところが多すぎて、実はまったく知らない人に説明するのに苦労する、という真実があるのを最近気づきました。とくに社長さんに説明するのに苦労する。「新聞記者に取材してもらうことを仕掛ける人たち」程度の認識ばかりで、残念なかぎり。こういう残念な固定観念に加えて、パブリックリレーションズが組織の情報の流れすべてをマネジメントする仕事である、なんていうことは夢にも思わない。世界的には財務につぐナンバー3くらいのポジションなんですが。

孫子とパブリックリレーションズの共通点:平明の集合であること

孫子の兵法を小説家・宮城谷昌光さんは、中国春秋時代の呉越の勃興を描いた小説「湖底の城」の中でこう表現しています。

「平明でありながら難解、難解でありながら平明」

冒頭に書いた「風林火山」のように、たとえがわかりやすいけれどシンプルすぎて、話がすすめづらい。兵法は森羅万象を使い合戦の法則性を見出したものですが(といっても孫子は合戦は最後の手段で本来は外交によって戦わずして勝つことを是としている;合戦の具体策などにスポットライトが当たりがちだが、本来見るべきものは全体論である、という点)、パブリックリレーションズもコミュニケーションの法則性を体系化したものなので、扱うネタがどこにでもあるが実はそれらは「最後の手段」で、本質はコミュニケーションを経営面でデザインしろ、というような解説の流れも、兵法書の解説に類似しています。パブリックリレーションズに法則性がある、ということ自体を知っている日本国内の広報担当者も、ほぼいない状況ではありますが。。

企業戦士は社長を筆頭に、コミュニケーションのありとあらゆる手法を毎日駆使して市場を開拓し、人とのつながりを深め、ステークスホルダーと信頼をつくり、製品・サービスの改善に努めている。。はず。パブリックリレーションズは、その、人と人のつながりのひとつひとつをさらに深く、効率よく、関連的にマネジメントするわけで、歴戦の勇士に改めて『コミュニケーションとは』、という話をして手元のやりかたをちょこっとずつ変えたり加えたりしてもらわなければならない地味な作業の連続なわけで。

つまりは平明な理論、平明なまとめ、平明なつながりの連続なのです。

気が付いていないものをとりあげ、つつき、動かす

「ナポレオンは戦況を確認することはなかった」とは有名なハナシです。なぜかというと、彼の用兵が戦場に新たな状況を作り出すからで、「状況を作るのは余である」と言わしめています。パブリックリレーションズも同じで、いいネタを発掘し、動いてもらいたいところに働きかけ、動かす。そのくりかえしです。火をつける役目、とも言えます。

やっていることは、大したことではありません。

課題になりそうなことを調べてみつけだし、その対策を取る。多くが情報を再まとめして発信する。必要なインプットを整えることのくりかえし。誰もがやれることをやっているだけです。

しかし、パブリックリレーションズはそれを独自の視点と技術で組み立てるので、一般社員や職員がやるよりも数倍の成果を上げる差が生まれます。何をしているのかを聴けば、単に人の話を聞いて、それらをまとめなおして適切な人に提供しているだけなのです。

社長にもできるし、いまいる社員にもできることばかり。それなのになぜ新しく雇うのか。そんな思いを持つ「よくわかってない人」は、これまた組織の中にわんさといるでしょう。

この国の残念な広報担当者たちが積み上げたライターに毛の生えた程度のイメージを払拭し、日々発生するコミュニケーションの交通整理の重要性の一旦を理解してもらい、法則性に則って組織全体の情報デザインとディレクションを、偏見と無知の中推し進める苦労のほとんどがどうでもいいことだったりするな、というのが実務者としてこの国で活動していて思うことです。

「たちどころに驚嘆する」ことはほぼない

宮城谷さんは、初期の孫子の浸透について、呉王・闔閭(こうりょ)と孫子の著者・孫武との出会いを現実的視点をふまえ、表現してくれてます。

「呉王の闔閭は将軍職を務め、実戦で大功を樹てただけあって、軍事に精通している。その知識と経験の耳で、孫武の兵法を聴けば、たちどころに驚嘆すると想いたいが、実際にはそうならないであろう。上古、周の文王は渭水の陽(きた)で太公望という稀代の軍師を拾ったが、その図をいまの呉王と孫武にあてはめるにはむりがある」

コミュニケーションを駆使して日々奮闘している会社の人たちに、パブリックリレーションズの体系を示せばたちどころに驚き、感動し、涙を流して「これだ、これだよ!」と感動されることは、、、まずありません。

パブリックリレーションズも情報発信の使い方、会社の戦い方を示した体系です。アメリカではそれらを体系化し、テキストにまとめ、学部があります。兵法と同じくパブリックリレーションズも「法」なのです。ところが、日本のパブリックリレーションズはいまだにまともな学部がないため、その実践者たちのいる「広報」は報道対応やマーケティングなど、現場に根差した体験をもとに理論構築がなされているものばかり。本来の体系にはほどとおい局地的理論。つまり、パブリックリレーションズのそもそもの誤解がさらに高い壁として理解を阻んでいるので、太公望のようなことにはならないでしょう。

パブリックリレーションズにおける情報発信は、日々の業務をしていればすべての人たちが何らかの形で行っているものです。電話対応から社員同士の意思疎通、方針の決定から発表と、コミュニケーションが生まれればすべてがパブリックリレーションズなのです。

「この情報発信ひとつひとつを自覚しよう!」

というのがパブリックリレーションズの神髄であるわけですが、百戦錬磨の社長でさえ、これに気づくのは至難。それを有名でもない人から指摘されて気づけ、というほうに無理があります。誰もが周の文王であってほしいと思いますが、現実は体験に根差した、「体験の範囲を越えない」判断によるのが真実です。社長の経歴がとくに百戦錬磨であればあるほど、自分流を優先するのは当然のこと。ふわふわとしたことを言ってて、それで何になる?というほうが圧倒的に多いものです。

しかし、それでも、パブリックリレーションズの重要性を伝え続ける意味はあります。

平明である分だけ、ひとつとして同じ事例はない

平明である分だけ、企業や個人事業主ひとりひとりに語るパブリックリレーションズはまったく違います。過去の事例を示すことができても、その多くがフィットしないものばかりで、実際に話をして何を求めているのかを引っ張り出さないと形になりづらい。

さらに、「これは広報」と思っていたことが「実はマーケティングじゃねえか!」というような、用語の定義や理解がまったく間違っている中でコミュニケーションを組み立てようとしている会社が圧倒的多数。

ゆえに、それぞれのまちがいを修正しながら、本来やるべきコミュニケーションをPR課題としてくくる作業は、外部の人間にとって至難の業です。それの成否はひとえに、会社側の人たちがオープンな気持ちでいろいろな課題感をもって積極的に私に説明してくれるかどうかにかかっています。広報担当者を生かせるかどうかは、広報担当者のスキルもさることながら、会社側の人間たち、とくに社長がどのくらい真剣に自分の分身を社会に作っていくかにかかっているかもしれないのです。

周の文王ほどでないけれど呉王闔閭くらいの社長さんは、たくさんいます。その誰かにこの声が届くといいな、と思ってます(あんまり思ってないかもw)。

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