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「note」癒える日本


敵が味方で、味方が敵で──


相手が自分を敵視していたとしても、自分が、例えば、勘違いなどで感謝の意を向けていたら、自身の認識としては味方であり、応酬性の原理により、ひょっとしたら、相手の敵意も好意に変わりがちなのかもしれない。

これに反し、幾ら、自身に好意を向けてくれている人でも、その人のことをぞんざいに扱ったりしたら、いつか、手痛いしっぺ返しを受ける可能性も高そうだ。

望んでない環境で生きて行く境遇に陥っても、腐らず、人々に感謝して、日々、楽しく、真剣に活動していたら、目上の人に可愛がられたり、同輩からも愛されがちであろうことは想像に難くない。

自身には過分に恵まれた夢のような世界で活動する機会に恵まれても、いつも尊大に振る舞っていたりしたら、一緒に遊んでくれる友人も出来るのは難しいだろう。

哲学の世界では昔から、「決定論と自由意志」問題の議論がある。

確か、同輩のお龍さんがそれについての卒論を記したと記憶している。

自分としては、自由意志の方に軍配を挙げたいとハナからずっと感じていたが、最近の論調を見ていると、どうやら、「決定論」の方がこの世界では妥当している可能性が極めて高そうだ。

すべてが決まっていたら、生きている意味が損なわれそうで、自分は嫌なのだ。

もし、決定論が正しくても、アドリブという自由意志で、大勢の観客を大爆笑させられるアクターでありたい。

死ぬまで、いや、死んでも、あくまでも、決定論に抗ったジョーカーでありたい。

それが自分の由って立つ意志である。

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