見出し画像

「自分がされてイヤなことは、人にもしない」ことのメリットと弊害

どうもこんにちは。崇(崇)です。

はるか昔、幼稚園に通っている頃でしょうか。

「自分がされてイヤなことは、人にもしない」という行動原則を教わりました。


特に先生や親の言うことにことさらに従うタイプの子どもではなかった気はするのですが、この行動原則はどういうわけかぼくの心の中に深く刻まれたようです。

自分がされてイヤなことは人にしない。

悪口を言われるのはイヤだから、人にも言わない。

いじめられるのはイヤだから、自分もいじめない。


非常に単純な話なのですが、ぼくは子供心に「それはそうだよな」と感じたのだと思います。

大人になった今でもこの価値観はぼくの中に大きな位置を占めているように感じます。

自分のnoteを見てみても、「自分がされたらイヤなことを平気でしている人たち」に対しての憤りを書いた記事などがあり、改めてこの幼き頃の価値観が自分の中に根付いているのを感じます。

この思考回路を持っていることで一番得しているなと思っているのは、脳内にネガティブなエネルギーが溜まらないことです。

人に対して瞬間的にイラついたり批判したりしたいと思ったとしても、「自分がそれをされたらどう思う?」と考えると、その気持ちが収まる。

結果、余計なネガティブイメージを抱え続けなくて済むため、フラットな気持ちを持ち続けることができます。

ぼくは人から「穏やか」と評されることが多いのですが、その要因の一つはこうした思考回路にあるように思います。



ですが同時に「されてイヤなことは人にもしない」ことには弊害もあるように思います。

ぼくが明確に感じるのは、「勝負事に弱くなる」ことです。


スポーツでもゲームでも、およそ誰かと行う「勝負事」というものにおいては、勝つために「相手がイヤがることをする」ことが重要です。

野球のピッチャーに例えるなら、一定のレベル以上になると「いいボールを投げる」だけではなく、「相手に自分のスイングをさせない」ことが重要になるそうです。

そのために間やリズムを使ったり、あえて相手のペースを乱すためのボールを投げたり。

あの手この手で「相手のイヤがることをする」ことが必要になります。


これがぼくは圧倒的に苦手です。「どうしたら相手がイヤがるか」という思考回路が乏しいのだと思います。

それもあって、ぼくは小さい頃から「勝負事」が嫌いです。

サッカーや野球もそうですし、チェスやオセロなどのボードゲームなどもそう。
テレビゲームは好きですが、対戦型の格闘ゲームやFPSは嫌いで、一人で進めるゲームばかりプレイしています。


「自分がされてイヤなことは人にもするな」とぼくに教えた先生がそこまで考えていたかはわかりません。

ですが結果的にぼくは勝負師の人生は歩みませんでした。

「誰かに勝つ」ことから逃げ続けても、なんとかやっていけています。

なので幼い頃に植え付けられたこの価値観に、ぼくは総合的には満足しているように思います。

今日は以上です。
ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?