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【デザイン思考で生きる】人生のトランジションで得る大切な気付き

朝は4本足、昼は2本足、夜には3本足で歩く者とは?ギリシャ神話でスフィンクスがオイディプスに問うた有名なクイズですが人生のトランジションを象徴的に捉えています。最近よく取り沙汰されるLinda Gratton著の本「Life Shift2」が示す人生100年時代に於いてはそんなトランジションも大きく変化していくかもしれない。確かに今は皆、60代、70代でも若々しい人が多い。自分自身、フルマラソンのタイムは50代になった今が最も速いという事実もそれを部分的に証明しているかもしれません。とは言え人生が何年になってもそこから学ぶべきことは大きく変わらないような気もします。今日はそんな人生のトランジションとそこから気付けることについて自分自身の経験から少し考えてみます。

■子供の誕生と育児が教えてくれたこと

かつて妻が長女を身籠り、初めての出産を迎えた我々は当初、無痛分娩など出来るだけ母体に掛かる負荷や不安が少ない出産方法を模索していました。が、しばらくして妻が出した答えはなんと自宅での自然分娩出産!ある意味真逆で最もチャレンジングな方法にも見えるこれを選択したのは、生まれてくる子供の健康と未来を一番に考えた結果だった。それから妻は肉や魚の動物性たんぱく質、砂糖類や油類を一切摂らない厳格な食事管理を行った(私も一定に付き合い、そしてそれは今でも続けています)。その結果どうなったか。長女も長男も出産時に全く出血が無く、私は自ら子供たちの臍の緒を切り、そして二人とも風邪一つ曳かない健康な身体を手に入れた。

このnoteで何度か触れているように人間は“You are what you eat”です。食べる物、身体に入れる物はその人に多大な影響を与える。私も妻も若い頃は到底褒められたような食生活はしていませんでした。特に私自身は杉/ハウスダスト/犬/猫など11種類のアレルギーを持っていましたが、食事を変えてからゼロに!我々夫婦も子供達もかれこれ20年近く病院や薬のお世話になることは皆無で過ごしている。一説に子供は親を選んで生まれてくると言いますから、もしかするとそんな荒れた食生活の我々の身を案じた子供たちが救いの手を差し伸べに来てくれたのかもしれない。若かった我々夫婦の、それまでの自分達中心のエゴイスティックな価値観を180度転換し子供の健康と未来を見据えて生きること、その比類ない喜びを教えてくれたのが誰あろう子供達自身でした。

■与えるよりも遥かに多く与えられる子育て

当たり前ですが赤ちゃんを育てるのは誰でも最初は初めての経験。食事をさせたり、オムツを替えたり、夜泣きに応じたりは勿論、泣き方で赤ちゃんが何を望んでいるのか推測したり、それまでの人生では全く必要の無かったスキルや能力を求められつつ、日々それが身に付いていく。育児もまた親が子供に教えることよりも親が子供から教わることの方が遥かに多いというのを初めて知りました。そもそも私も妻も自分たちが実際に子供を持つまで「子供」というものが好きな訳では無かった。自分が子供だった頃を思い返せば、赤ん坊はひたすら泣き喚き、成長すれば生意気になり、食費も学費も掛かり、そしていつしか家を出ていく。そんなステレオタイプなイメージしか無かった。しかし今、自分がかつてそんな風に考えていた事が思い出せない程、子供の未来を最優先に考える自分がいる。

まだ子供たちが小さかった頃、彼らに何かを教えたいと思ったらまず自分が率先してそれを習得しました。例えば一輪車。娘に一輪車を教えるために、それまで乗ったことの無かった一輪車を懸命に練習したのを憶えています。そのお陰でドラムやバスケと随分色んなことにチャレンジさせて貰えた。そんな時期も過ぎ、15歳の息子は既に米国生活が人生の半分を超え、今や身長も175センチ!私より流暢に英語を話す。たったの15年で赤ちゃん ⇒ 子供 ⇒ 仲間 ⇒ そして頼れる同士へと見事にトランスフォームした。二人の子供達は私がいわゆるアラフォーの辺りで生まれ、結構遅めでしたが幸い自分が老け込む前に彼らの成人を祝えそうです。こればかりは人生100年時代に感謝です!

■両親の死に際に教わったこと

対する死について。母は10年ほど前、突如入院したかと思えばそこからたった一ヶ月というスピードで80歳の時に、そして父は大腿骨骨折を契機に介護施設で半年ほど過ごした後90歳で、それぞれ他界しました。二人とも生前から健康と活力に満ちた人達だったので死の間際、日に日に窶れ衰えていく姿を見るのは辛かった。父は昭和一桁生まれで予科練時代に何キロでも泳いだ屈強の偉丈夫。自分の死に際は自分で決めたいと晩年一人で生活していた伊豆の山の上で一人ひっそりと消えていくことを切に願っていたと思います。ところが現実は父が絶対に望まなかったであろう介護施設で思いのほか長い時間を過ごしました。

暑い夏の日だって大好きなビールさえ飲めずに車イスで過ごす父を見ていると正直少しでも早くBetter Worldに行かせてやりたくなった。しかし父は最後までそんな日々を受け入れ、見事に“老衰”という汚れ無き二文字の称号を得て亡くなった。そんな姿を見ていて「そうか!」と解ったこと。それはそんな最後の日々を父は父自身の為に過ごしたのでは無いということ。天命を受け入れた自然な死に際の姿を子供たちや孫たち、家族全員に見せるために過ごしたんだと解った時に激しく胸を打たれました。人生の時間が全て自分のためにあるとは限らない。最後まで人のために役立てる時間もある。そんなことを無言で示してくれたのだと思います。

■常識の真逆にこそ真理がある

そんな経験を通じて気付くのは、結局自分の人生というのは実は自分の為にあるのではなく常に他者の為にあるということでしょうか。人は他人の為に、親は子の為に、子は親の為に、先人は現代を生きる人の為に、今を生きる我々は先祖や未来の子孫の為に。そして常識と真理は常に真逆であると。

最近も息子に日本語を教えていて良く気付かされるのが「教える」よりも「教わっている」ということ。正しく理解させるには多くの工夫が必要になります。色々試して「なるほど、こうやると理解し易いんだな~」と解った瞬間、実は一番“教わっている”のが自分であることに気が付きます。

常識は「自分の為の人生」とか「年長者は年少者に教えるものだ」とか安易に説く。けれど少しでも注意深く見つめれば実は全て、その真逆にこそ真理があることに気付く。それが私の発する「常識を疑え」「逆説的に思考せよ」というメッセージの理由。そしてそれは人生が80年だろうが100年になろうが変わらぬ真理なのだと思います。

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