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【デザイン思考で感じる日常】五感がもたらす本来の価値って何?

小学生の時分は様々な問いが思い浮かぶ時期。「もし~が~だったらどうする?」みたいな質問を友達と問いかけあっては「自分ならどうするだろう?」と思いを巡らす。そんな中に「目が見えなくなるのと耳が聴こえなくなるの、絶対どっちか選ばなくちゃならないとしたらどっち?」という問いがあった。これは結構悩みます。普通に考えるなら五感の中でも2トップの感覚だからどちらも失うのはなかなか厳しい。日常生活に支障が少ないのはどっちか?と小学生の頃は考えていた。でも今は少し違う。そもそも五感の価値って何だろうと。

■眩い光に満ちた日常の世界

眼底検査というのを受けたことがある。目薬一滴で麻酔をかけ瞳孔を開きっぱなしにして眼底を観察する。検査自体はアッという間、結果も問題無く良かったのですが、大変だったのが家までの帰り道!麻酔で瞳孔が暫く閉じないため、その日は曇り空でしたがそれでも光が眩し過ぎて全く歩けない…。大袈裟でなく通常の“眩しい”というレベルでは無く、瞼を閉じても光が透けて眼に刺し込んで来るほど。これを体験して初めて実際の日常がどれほど光に満ち溢れているかを知った。

信じ難いほど眩い光に満ちた日常の世界がそこにはあった。瞳孔はその光量を日中は抑制することで夜間暗闇にも対応できる鋭敏な視覚センサーを守っている。そういえば一説に犬や猫には紫外線が見えているという。或いはイカやタコの高精細な眼は脳の視覚野が処理できないほどの情報量を取り込めているらしい。我々が見ている日常の風景も実は瞳孔や脳の処理によって極めて限定された、本来の情報量のほんのごく一部でしか見えていないのかもしれません。

■片方だけでもブルーになった…

聴覚に纏わる経験。10年以上前、太平洋の島パラオでダイビング中にナポレオンフィッシュの群れに興奮し過ぎてw耳抜きを忘れた結果、左耳が「バチン!」と鳴ったかと思えば海面に浮上すると音が半分くらいしか聴こえなくなっていた。まぁ放っときゃそのうち治るだろうと放置したまま帰国。しかし数日しても一向に改善せず、むしろどんどん聴こえなくなっていき、さすがに心配になって耳鼻科に行ったら突発性難聴ということで即入院!2日間ステロイドの点滴を受け続けることでなんとか聴覚を取り戻せました。

左耳だけだったとはいえ、日に日にどんどん聴こえなくなる体験は精神的にかなり堪えるもので「もうステレオで音楽を聴くことも無いか…」とステレオのスピーカーやヘッドフォンを見つめては毎晩ブルーになったのを憶えている。それ以上に、空間の捉え方に影響するせいか毎日気持ちが安定せず不安になった。小さい頃から音楽こそ命!であった自分にとっては視覚を奪われるよりもタフな経験に思われたけれど、聴覚には「音を聞く」以上の役割があるようにこの経験を通じ、強く感じました。

■未来にも過去にも有効な証跡

香水の調香師は、ワインのソムリエ以上に自分に向いた職業だと勝手に思っていた時期がある。生来匂いに敏感なのと、匂いと記憶の関係に幼少の頃から興味があった。ある匂いを嗅いだ瞬間に特定の記憶がふと呼び覚まされる経験は誰でもある。個人的には視聴覚よりも強いダイレクト感がある。場所や空間、花や草木に風、そして空気。小さい頃に嗅いだ匂い。季節の移ろいと共に匂いは今でもそんな幼少期の記憶を鮮明に呼び起こしてくれる。それもとてもリアルに。一方で匂いには危機管理の役割もあると聞く。

動物なら自分と同種であるか異種であるか、食物が腐っていないか、特定の細菌を避けるために嗅覚が機能するという説もある。そういえばフェロモンなんていうパートナーの判別方法もある。もはやここまで行けば嗅覚も単に「匂いを嗅ぐ」という機能を超えた、生存本能そのもの。最近のリモートワークに現実感が不足するのは視聴覚しか再現されていないせいかもしれない。かつて映画の世界では匂いを再現するブームが一時期あったのも頷ける。あくまで私見ですが「匂い」は「未来に対して」重要な判断材料になるからこそ「過去に対して」も鮮明な記憶を残すのかもしれません。言い換えれば、匂いとは未来にも過去にも有効な証跡なのでしょう。

■感覚の品質より重要なのは経験の記憶

触覚は工業デザイナーである自分にとって極めて重要。幼少期に慣れ親しんだブロック玩具や昆虫採集、様々な楽器など、手指に感じるフォルムや構造、音や振動のフィードバックが脳内に再構築されるのを感じた記憶がある。或いは昔飼っていた動物の温かな感触、柔らかな母親の手、生まれたての赤ん坊の頬の感触。匂いと同様に感触もまたリアルな記憶としていつでも再現し得る。そういえば無くしたはずの腕に痛みを感じる「幻肢痛」というものもある。それほど感覚的記憶の再現性は高い。

ここまで五感に関して考察してきて思うことは、結局、五感というツールの品質が重要なのではなく、そのツールを通じてどんな経験が記憶されたかが重要なのだということ。目が良いか悪いか、耳が良いか悪いかではなく、目も耳も多少悪かろうが(私の視力は高校くらいから両目とも0.3のまんま…でも特に支障はないw)、それを通じてどんな経験が蓄積されたか。どれだけ素晴らしい旅を経験できたか。どれほど自然の美しさや厳しさに触れてきたか、どんなに親から愛されたか。どれほど友人や家族と掛け替えのない体験を共有できたか。五感を通じて蓄積された経験の記憶だけが死んだ後さえも最も大切な価値として残るのではないか。大袈裟に言えばそんな連鎖が人類の歴史を価値あるものにしていくのだと思います。

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