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神話のファブリケーション

今年(2022年)の1月3日に書き終えた文章です。詩のようなものというか。

見えているのに遠い場所

ロマンとは遠さのことかもしれない。そこはただ遠くにあるだけではなく、見えているのに、遠すぎて辿り着くことができない場所のことだ。たとえば宇宙。宇宙は見えている。満天の星々として。銀河として。けれども、遠すぎて到達できない。神話も同じだ。知っていても体験できないから、それは物語られるしかないのだ。自分で体験できない神話は模倣されていくしかなく、そこから促される自覚はニセモノという意識を生みだすだろう。ここから、従来は触れられなかった事柄にまで手が伸ばせるという逸脱が可能になるのだ。

空の星々に名前を付けることは、星の一つひとつが固有の存在だという認識を生みだす。星座は神話のなかで世界を構成するけれど、それはまた、星々に名前を付けている自分たち一人ひとりが固有の存在だという発見にもつながる。自分が固有な存在であるということは、他とは交換できない永遠に一回限りの生を有しているということだから、この一回性がホンモノとニセモノの垣根を飛び越えるとき、物語は無化されるといえるのかもしれない。それを目撃した者は、新しい神話を語り始めるのかもしれない。

「ローヌ川の星月夜」ゴッホ

体験のイデア

神話を語るという行為は、世界の「はじまり」を語るということだ。体験は世界を創造するけれど、出来事は語られることによって、こことは別の時間のなかで起こる神話となる。そこには中心があって、円周が引かれて境界ができる。世界は境界線によって内と外に分けられるけれども、外部からさまざまに異質な諸相が混入し、矛盾した諸要素が混沌とひしめき合っている。秩序は絶えず揺れ動きながら、複数の体験がせめぎあっている場所が、神話の世界なのだ。体験はイデアとなって、永遠に到達できない時間のなかに閉ざされる。閉ざされた小宇宙には、常に、未知の、未形成の領域が残るだろう。その欠如が無限なものを生起させる。

この宇宙は固有の宇宙であり、星々の一つひとつは固有の星々であり、星座は固有の名前を持っていて、神話のなかで起こる出来事もまた、固有の出来事である。固有の存在とは、有限な存在のことだ。有限な存在は、無限を孕んだ全体とイコールで結びつくことはできないため、未知の、未形成の欠如ができることになる。この欠如は全体を確定できない過剰な欠如として全体を生起させる。生起された全体もまた、固有の全体であり、それが固有の全体であるから、円周によって閉ざされた内側の世界は全体とは等しくない固有の世界なのだ。

「体験のイデア」を体験することはできないから、神話は模倣されていくしかなく、模倣された神話はさらに模倣されていくという繰り返しが、現実を動かしてゆく。気がつけば、この現実は物語のなかにあって、登場人物たちは悲喜劇を演じていたのかもしれない。登場人物たちが体験するとき、彼らは自分以外の、ほかの誰かの現実へと繋がっていこうとするから、自分の現実とは違った現実を感受して、かえって夢のような非現実性を感じることになるかもしれない。それを模倣に満ちた「作りごと」によるためだと誤解しながら、彼は体験の固有性のなかへと逸脱する。

「グルーミー・シチュエーション」カンディンスキー

模倣の果て、人工的神話

媒環世(Mediumweltocene)は、近代という時代の途上にある今日、これまでの人類史的な枠組がいずれ大きく変貌するだろうという予感に満ちた、「つぎに来るもの」を暗示した言葉である。それは数千年単位で語られてきたこれまでの人類史を根底から組み替える潜在力を持った、宇宙的な規模に及んで世界観を変貌させることになるかもしれない前代未聞なものなのだ。そこでは、人の観念や価値観が変わるというだけではなく、機械工学の進歩や技術的な革新、未知の発見等により、既存の物理的な限界が突破され現実が変わるという事態を伴っている。近代の終わりであり、つぎの時代の始まり。モダン(Modern)そのものの終焉。「つぎに来るもの」は、時間や空間といった物理的な現実まで刷新するため、過去と未来は新しい世界の出現と共に書き換えられ、まだ想像不可能なものの到来として将来訪れることになるはずだ。

『小さなLove, Craftからの報告書』より

未知の他者

未知の他者と出会うことで、これまで存在しなかった概念を得た新しい人は、未曾有の能力を獲得することになる。この経験世界のあらゆるすべてが一回限りの物理法則のように生起していくなかで、彼は、未来の姿を予見する。未来がまだ決められていない不確定なものではなく、現在と関係した世界であるのだとしたら、現在の因果性とはどのようなもので、現在から未来への関係は変えることができるのか。SF的なタイムトラベル? いや、「サイエンス・フィクション」はすでにファンタジーではなくなって、現実の問題として立ち現れている。

知性は出来事を動かし、他者と出来事との関係は人の精神を変えていく。過去の意識は現在と同じではなく、未来の意識は現在と関係しているかもしれないが、たとえ意識が未来に起こる出来事にまで届いていても、その出来事はまだやってきてはいない。仮に、未来を観測できる装置が発明されて、レーダーのように事象が予測できたとしても、そこで得られたデータは不完全で、限られた側面だけを写し出しているだけかもしれない。どんでん返しの余地は残るということだ。

「パースペクティヴ」イヴ・タンギー

機械の知性

因果関係には機械の知性が絡んでくる。そのすべを得た人工知能は考える主体である人よりも速く的確に判断し、人間たちが作り出した関係性の内側に入り込む。機械の知性は人の知性を模倣していくために、個人の脳のなかに収まっていた意識は、どこにでもある知性、汎心論的な意識へと向かっていく。命のないメカニズムが事物の因果関係を計測する。出来事は機械の判断によっても動かされ、その結果、人の意識も変化していく。機械によって動かされた経験がデータ化されたあとで、さらに因果関係を動かすということが繰り返されていくなかで、機械と人との営みはますます不可分になっていく。機械を媒介として意識は世界と通じ合っていくために、意識と出来事の関係は、おそらく三次元ではないと感じられてくる。新しい宇宙理論の萌芽のように。

「コンサート」シャガール

ホログラムの歌手

宇宙から見た地球は青く、黒い背景の中央で静止している。その姿が迫ってきて細部が明確になり、海や、大陸などが拡大され、視野いっぱいに広がると、平面に描かれた地図のような地表が見えている。その地表の、あるポイントに降り立って、彼は周囲を眺める。建物や、木々、山や川といった景色のなかで、白くて薄い雲が流れている。遠方から聞こえるあのざわめきは、生活や、人の営みを感じさせる。ここには固有の世界があって、それは彼が経験する世界。ずっと昔から、この限定された場所で生きてきたのだと彼は感じる。日常のなかで、彼は、まるで演奏するように誰かと過ごしながら、かつて覚えていた記憶を忘れていった。年月は過ぎ去って、知性は「遠く」を見るように、地球から離れた場所にいるものに向かう。その距離はまだ遠くにあって、いつか訪れるように思われる。

ある日、偶然のように《その出来事》が起きてから、人々はもう歌わなくなった。登場人物は退場し、舞台はカラで、観客もいない。代わりにつくられたのが、ホログラムによる歌手だった。二次元の立体として暗闇に投影された彼女は、鈍く発光する透き通った衣装を着て、狭く閉ざされた空間の真ん中に立っている。静寂のなかで、永遠の宇宙を歌い続ける。

(了)

「月の光」フェリックス・ヴァロットン

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