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ゲーム制作のための文学(18) 文学の未来について考える。

5月29日に開催される文学フリマに向けて、ゲーム制作者、特にゲームシナリオライター向けに文学について解説した同人誌、『ゲーム制作のための文学』を制作しています。

『ゲーム制作のための文学』は全部で二十章、気持ちは十六章の小説の誕生で完了して、残りの四章はおまけです。

今日からは、そのおまけの四章のはじめの一章を掲載します。

テーマは文学は役に立つのか? そして、もし役に立つのであればどうして今まで役に立たないと思われてきたのか、について書こうと思います。


文学を道楽だと思っている人は多いと思いますが、科学史を勉強すれば文学よりも物理学や情報学のほうが道楽だと思われていた時代があります。ダーウィンの進化論など共産党員の妄想で、アメリカでは今でも学校で教えることに否定的な人がいるほどです。

にもかかわらず、今は物理学や生物学、ITなどは産業において重要な役割を果たすと信じられています。なぜでしょう? そして、なぜ文学は科学のようではないのでしょう?

今日は、それについて書きます。


『ゲーム制作のための文学』『

第十七章 ゲーム制作と文学Ⅰ

 文学はゲーム制作に役に立つのでしょうか?
 芸術家であることの唯一の条件は芸術家に見えないことということはよく聞く話ですが、それは文学においても真理のように頻繁に言われます。既存の文学を踏襲するだけの人を文学者とは呼びません。
 とはいえ、こういう伝統的な文学への考え方、あるいは認識は何か問題を含んでいると思うのが最近の私の感想です。
 過去の文学を乗り越えた、文学を隔絶したものを文学と呼ぶことで生まれた最先端文学を文学として学んだときに、論破が好きな志高き教養人さんは別として、そのような文学はどれほど多くの人の役に立つのでしょう。
 ゲーム制作と文学に関するとりとめのない話をします。

文学は学問というよりは芸術だと思われがちです。実際、インターネット小説のジャンルとして純文学が説明されるときは、芸術を目的とした作品と書かれているようです。確かに文学は言語芸術のことだと言えますが、同時に、物理学や医学のように言葉に関する学問であるという理解もできます。
 そして、文学は学問という考え方をあまりにも軽視すると、物理学の知識が発電所やロボット製造に利用できるように、文学の知識がゲーム制作やビジネスに貢献する機会を奪ってしまうと考えてしまいます。
 なるほど、相対性理論や量子力学を勉強していなくても、私たちは家を建てることもできますし薬の調合もできます。H2O、この化学における水分子という概念がなくても昔から水は利用されてきました。
 SNSのシステムを開発したエンジニア達の全員が、最先端の人工知能や認知心理学を学んでいたわけではありません。技術は科学に先行して進むことはあります。だからこそIBMは大学に先駆けて強いチェスロボットを開発できたのです。
 私たちはどのようにして自分が伝えたいことや世界観を、私たちの目に見える世界に実現できるのでしょうか? 労働とは、何かを生み出すことの正体とは何でしょう? 資本主義とはどのような社会なのでしょうか?
 これまで、表現や労働に関する学問を必要とせずに、多くの小説家やイラストレーターが活躍できたのは理解できます。むしろ、彼らに文学は邪魔になったほどです。
 なるほど、最新の純文学小説(ノーベル文学賞など)をすべてのクリエイターは必読であると断言することは難しいと思います。
 文学を学ばなくても仕事に困ることはないように見えます。

 とはいえ、文学が抱えている問題は文学だけではありません。実は同じ問題を物理学や生物学も抱えています。
 アインシュタインにしろダーウィンにしろ、有名な科学者は全員が既存の科学を否定した芸術家のような人々です。そして、大学においても科学者とは既存の常識に捕らわれずに、自分で見て自分で考える人が理想とされます。
 これは科学者とは科学という専門性を否定する人を意味しています。科学者の条件とは科学に詳しい人ではなくて、科学を変えた人です。そのため、科学者の地位は知識ではなくて論文により決まります。
 それは労働現場における技術者においても同様です。職人と技術者の違いは、職人とは古い技術と価値観を守る人で、技術者とは新しい目的に合わせて新しい技術を生み出すことをためらわない人だとされます。
 そのため、科学者とは科学を否定する者であり、そして技術者も同様に自分達が学んできた技術を否定する者であるべきです。
 古い科学者の科学理論、古い技術者の技術を守り、常識を大切にする「保守」は科学者でも技術者でもありません。
 芸術の世界で時代遅れの表現や価値観が否定されるように、科学の世界でも古い科学理論や古い技術は否定されます。

 とはいえ、科学という分野は歴史が長く成熟しているので、古い科学理論、間違った科学理論を大切にしています。
 EPR相関に関するアスペの実験により、一般相対性理論は科学的に間違っていることが決定しました。しかも、その後も様々な実験により検証されて、相対論は完全に死んで古典力学と呼ばれるほどです。
 そして、相対論の近似として意味を持っていたニュートン力学などもすべて間違えで、今では量子力学のみが正しいとされています(もしかしたら、私の知識が古いだけで量子力学も死んでいるかもしれません)。
 十九世紀の物理学者ファインマンが何度も述べていますが、相対論と量子論は二つの理論があるのではなくて、完全に間違った理論と正しいかもしれない理論があるのです。相対性理論は真理としての価値はありません。
 しかし、GPSの計算は普通に一般相対性理論を使いますし、橋を建てるのにはニュートン力学を使います。間違っているとかどうでもよくて、使用できる適応範囲内で活躍させるのが科学者や技術者なのです。
 科学理論が正しいかどうかは宇宙の真の姿を知りたいという科学者にとってはとても重要で大切なことですが、技術者にとって大切なのは、むしろ理論がどこで破綻するかが分かっていることです。
 相対論は破綻する場所が完璧に分かっているので、意外かもしれませんが、正直、もっとも信頼できる科学理論です。むしろ、正しいとされる量子論のほうが危険です。想定外の何かが起きる可能性があかもしれないからです。そして、量子論を超える真理の理論にもっとも近いとされる超弦理論は社会貢献能力が絶無です。
 文学も物理学のような科学と同じように捉えたい、というのが今回の『ゲーム制作のための文学』の立場です。
 私自身は、芥川賞作家たちが、より最先端の文学を切り開くために創作活動を続けていると信じています。ノーベル文学賞は抑えておくべき文学です。
 しかし、芥川賞作家たちの文学やノーベル文学賞の作家たちだけを文学と考えることは、物理学の超弦理論だけを科学だと考えて相対性理論や量子力学を科学とは認めず、また学ぶことを禁止するようなものです。
 意地悪な表現をすると、世間で文学と呼ばれているのは、文学として役に立たないほどレベルが高いのです。

 ゲーム制作に必要とされる文学は存在します。具体的に、もっとも直接的に役に立つのはフェミニズムとLGBTQの理論です。
 女の子に武器を持たせるなんて野蛮とか考えている保守にゲーム制作は絶対に無理だとは断言しませんが、限りなく難しそうですし、制作チームに参加させないことを勧めます。ゲーム制作でLGBTQを認めない人は仕事に政治を持ち込む人です。
 また、セックス(生物的性差)とジェンダー(社会的性差)の違いが分からなければ、新しいキャラクターを創造するのも難しくなります。そもそも、キャラクター創作というのは新しいジェンダー(社会での役割)の創造とも言えます。
 これまで見たことのない男女の関係、これまで見たことのない男らしさや女らしさを創造することが創作だと断言しても過言ではないでしょう。同時に、LGBTQとは新しい社会を考える営みだとも言えます。
 フェミニズムやLGBTQは、もはや文学をわざわざ勉強する必要もないほど小説家やクリエイター、デザイナーには基礎教養となっています。しかし、このような便利な知識は文学にはたくさんあるのです。


』『ゲーム制作のための文学』


文学が社会貢献できなかった理由に関する、私の結論は政治です。

つまり、中世ヨーロッパでは天文学や錬金術、これらに関心を抱く人は新プラトン主義者、キリストの敵としていじめられていたので、大学でも神学と法学が中心になっていました。

その結果、自然哲学は発展しませんでした。我慢できなかった人はガリレオ・ガリレイのように捕まりました。


同じように、今は文学者が資本主義や科学技術論を研究した瞬間に、共産党の手先として非難され攻撃されるので、文学は資本主義や科学技術論とは距離を取るようになっています(どのような社会にすれば技術者が能力を発揮できるのかを研究するのはマルクス主義の伝統的な分野です)。

ときには、資本主義や科学(物理学)と社会の発展について書かれた本を読むだけで「反日勢力」とレッテルを貼られたので、よほど覚悟がある人でないと近づきません。

しかし、資本主義と科学技術に無知な文学者など、存在している価値はあるのでしょうか?(中野重治の時代までは、資本主義と科学技術に関しては文学者はプロでした)


また、フェミニストは社会学的な視点から持続可能な家庭について設計する技術者ではなくて、思想家だと思われています。そして、左翼として雑な攻撃を受けています。結果、思想の勉強よりも、自分達の立場を守るための運動に必死になって本来の能力を発揮できません。

さらに残念なことに、先人達の悲劇を見て、巻き込まれないように若い文学部の皆さんは自粛しています。

結果、小説ばかり読んでいる、本当に社会の役に立たない文学愛好者たちが溢れています。彼らに待っているのは失業です。


文学には可能性があります。

たとえば、科学の創始者と言われる中世のフランシス・ベーコンは、金を硫酸と硝酸の混合液に溶かして飲むと永遠の命を得ることできると強く主張しましたが(錬金薬、エリクサー)、もちろん飲んだ瞬間に即死するので昔の科学者は本当に無能です。

しかし、ベーコンの後継者は有能で社会を変革しました。だから、今社会に役に立たないことを馬鹿にしてはいけません。彼らがいたから、ヨーロッパやアメリカは発展したのです。


今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。よろしければスキ、フォローをお願いします。

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