ロマン主義を考える(10) 文学とは世界という一冊の書物 【『ゲーム制作のための文学』】
前回、ジャンジャック・ルソーが神の御心を教会や聖書ではなくて自然や人間の良心に求めたという話をしました。神は世界の創造主であり、山岳や森林は神そのものである。
そして、最終的に、政教分離の自由主義を生み出しました。
もちろん、あらゆる革命勢力の背後には、彼等を教育したより強大な革命勢力が存在するものです。
ルソーはすべてのはじまりではありません。
今日は、十六世紀、宗教改革の時代に戻り、偉大なる近代科学の父であるガリレオ・ガリレイを紹介します。
ガリレオ・ガリレイは1564年に生まれたイタリアの科学者です。
物理学を専門に勉強したことがある人なら、すぐに慣性の法則を思い浮かべるでしょうし、そうでない人は太陽の周りを地球が回っていることを証明してカトリック教会に捕まった人として思い出すでしょう。
また、ピサの斜塔から重い球と軽い球を落として(重罪!)、空気抵抗がなければ重い球も軽い球も同じ早さで起きることを実験により証明したと人として思い出す人もいるかもしれません。
実際は、そもそもガリレオ・ガリレイは太陽の周りを惑星が回っているモデルの方がモデルがシンプルであることを主張したに過ぎず、地動説の証明には失敗しています。
また、あらゆる物体が空気抵抗がなければ同じ早さで落ちることは思考実験による証明で、ピサの斜塔から実際に玉を落としたという逸話はまず間違いなく嘘だと思われているようです。
ガリレオ・ガリレイ。
多くの人は、昔のカトリック教会がいかに科学者を弾圧していたのかを思い出すために彼の名前を思い出します。日本の元総理大臣が学術会議に敵意を燃やして攻撃していたときに、彼の名前を思いだした人は多かったのではないでしょうか?
さて、ガリレオ・ガリレイの話になると、可哀想な科学者と独裁的な宗教家という印象で語られます。
政治が宗教に汚染されると、数年前の日本のように科学者に対する攻撃が行われると思った人も多いと思います。
科学者は無垢であり、宗教家は邪悪である。
ガリレオ・ガリレイは真摯に真理を探究していたのに、イデオロギーに染まって新しいことを受け入れないカトリック教会が彼を捕まえて真実をねじ曲げようとしたのだと。
科学は民主主義であり、宗教は権威主義である。
とはいえ、歴史を学んだ人は、この科学と宗教の問題がそれほど単純な善悪の問題ではないことを知っていると思います。
文学において、本日(2022年6月2日)、グーグル検索でも見つかりませんでしたし、Wikipediaにもありませんでしたが、ガリレオ・ガリレイは読書には二つの種類があることを提唱したことで有名です。
第二読書は、普通の読書です。すなわち、文字が書いてあり、文字を読むことによる読書です。
これには聖書の読解が含まれます。
また、究極的には、司祭の話を聞くのは、言葉によるので、この第二読書の延長に存在します。
この第二読書とは別に、ガリレオ・ガリレイは第一読書という考え方を提唱したようです。
これは、自然という書物を、数学の言葉で読むことです。
キリスト教徒達は聖書は聖霊により書かれたと信じていますが、それでも人間の手が入っていることには変わりありません。聖書はやはり人間の手で書かれているのです。
この点において、実は、プロテスタントといえども、純粋に聖書の解釈者から逃れているわけではありません。
つまり、第二読書にて聖書を読むことは、どれほど純粋に読んでも必ず神と個人のあいだに何かが入っているのです。
では、神の御心を直接知ることはできないのでしょうか?
しかし、神は世界を創造しました。つまり、世界は神が直接自分の手で書いている一冊の書物です。
そして、この書物は数学により読むことできます。
自然という書物は、数学の言葉で書かれている。
こうして、ガリレオ・ガリレイは数学により世界を理解するということを始めて今の自然科学の土台を作りました。
人間の言葉で汚されないように、数学という神の言葉を使うのです。
ところが、どうやらガリレオ・ガリレイはこれで話を終えなかったと書いてある本を昔に読んだことがあります(題名を忘れました)。
彼は思ったそうです。
カトリック教会は聖書と伝統により、神を理解する。プロテスタントも聖書から神を理解する。
彼等は言語に汚染されているので、純粋に神を理解しているわけではない。
しかし、物理学者は万人が理解する普遍的言語である数学を利用して、直接神の書かれた書物を読んでいる。
よって、真の神の使徒は物理学者のみであり、カトリック教会もプロテスタントも偽物のキリスト教である。
プロテスタントを生んだルターの宗教改革が有名すぎるので、ガリレオ・ガリレイが自然科学という新しい異端を生み出したことは、それほど歴史で語られることはありません。
デカルトやニュートンの時代にも、物理学が政治権力を奪うことがなかったことも科学が世界史に登場しない理由でしょう。
しかし、ロマン主義のテキストを読むと、明らかに教会や聖書に基づかない新プラトン主義的な世界観を感じます。
ヘルダーリーンの『帰郷』では、日の出の描写から精神が天上に昇る姿が描かれています。
教会や聖書ではなく、大自然を見ることで神に至るのです。
リベラルの起源が、ここにあります。キリスト教徒に、明らかに聖書とは対立するLGBTQを肯定する人がいるのは、神を聖書や教会ではなく自然と良心に求めるからです。
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