ゲーム制作のための文学(3) 常識とは何か?
文学理論を勉強したことがある人なら、理論と対になる概念として常識という言葉があることを知っていると思います。あるいは逆に、理論とは常識を破壊することだと認識しているでしょう。
現在、5月29日の文学フリマ東京に向けて、『ゲーム制作のための文学』を制作中です。
この記事では、制作中の同人誌の内容を少しずつ公開していこうと思っています。
昨日は、第一章の『ライオンと魔女』を公開しました。
今日は、第二章の『日本書紀』を公開します。
『ゲーム制作のための文学』「
第二章 日本書紀
私たちは学校に行き、就職して仕事に行き、そして結婚して子どもが生まれて今度は家庭のために生きていきます。常に何かすることがあり、まるで社会から支配されて命令されているようです。
あなたは自分の人生を振り返ります。
デートで自分の服装が気になっていたこと、ブランド鞄やカードゲームに夢中になって散財したこと、そして就職を終えて社会人になった今では欠片も甦ることがない、第一志望の企業で働くことの情熱に突き動かされて奴隷願望でもあるかのように就職活動を始めて、家畜に憧れがあるかのように会社と仕事に尽くしたこと。
怪しい宗教の勧誘を追い返し、政治活動を馬鹿にして、淡々と、本当に淡々と冒険なく生きてきた人生。さまざまなことが甦ります。しかし、どれもが記憶の向こう側に消えていくような気になります。色あせていきます。
何もなかったような気がします。すべてが必然で、そして私は私になるべくして私になってしまったように感じます。
そして、あなたは思います。
どうして私は私になったのだろう?
誰が、そして何が私を私にしたのだろう。私の人生は、そもそも私たちの人生とはどこから来たのだろう?
答えがないような気がします。迷路に迷い込んだような。
しかし、答えはきわめてシンプルです。
遺憾なことに、あなたは日本人です。そして、社会的圧力に屈服して本当に日本人になってしまったのです。
さて、ここで私は日本人であり、日本人は私のことなのだと循環しているなら文学は必要ありません。この世界には哲学があれば十分です。また、日本人であることの一般論などなく統計的な多数派がいる、ということが真実であれば文学は生まれなかったでしょう。日本人というのが実際に存在している日本民族であるなら議論は必要なく、日本人という存在が妄想であれば問題はすべて解決です。
しかし、日本人とは何かという問いには正解があります。日本人は何であるのか、日本人はどこから来たのかについて明快に書かれた本があり、そしてその書物には日本神話という誤読の方法がない物語が書かれています。
この書物は『日本書紀』です。
さて、最強のティターン神族が美しきオリンポス神族に滅ぼされ、暴力は美に敵わないというギリシャ神話が西洋にあるように、日本書紀には日本の物語が書かれています。
それは、イザナギとイザナミが世界(日本)を創造して、それから四柱の神々を生みだして日本を支配させる物語です。
長男は醜いので海に流されて(恵比寿)、次男は怠け者なので(月読尊)、日本神話は長女である天照大神と末の弟の素戔嗚尊を軸に展開されます。
さて、日本神話の物語は姉の機嫌を損ねた罪により高天原から追放された素戔嗚尊を主人公に始まります。
彼は困っている日本列島で暮らす土着の人々を助けて、そして彼の子孫達はとても豊かな出雲国を誕生させます。
しかし、オリンポス神がティターン神族を滅ぼすように、高天原の神々は出雲国を侵略して滅ぼしてしまいます。弟が姉より優れていることは許されないのです。そして、姉の子孫が天皇となって日本民族を生み出します。
日本神話はただの空想物語ではありません。日本神話は、天皇の起源が書かれている日本書紀全体の見事な要約になっています。
日本書紀の全体、神武天皇から始まる天皇の歴史は、神道である物部氏を仏教である蘇我氏が滅ぼして、そして仏教である蘇我氏を儒教である天皇家が倒して、聖徳太子の十七条憲法に基づく文明国を建国する物語です。
天皇とは中国神話の三皇たる伏羲、女媧、炎帝神農の伏羲のことで、まさに中国思想を引き継ぐ人物であることを象徴しています。
同時に、天照大神は儒教そのものであり、日本書紀そのものが中国思想至上主義を宣言するためのものであるのは、日本書紀の冒頭の陰陽の記述から明らかです。日本書紀は神道と仏教を陰陽五行で統合する書物なのです。
さて、神話とは何でしょうか?
あらゆる小説やエッセイが文学である訳ではないように、あらゆる昔話が神話であるわけではありません。
そして、たいてい日本書紀から日本神話を考えるように、そして多くの場合ホメロスの『イリアス』と『オデッセイア』からギリシャ神話を考えるように、神話として機能している物語は伝承ではなく、成功者により書かれた捏造された過去です。
実際のところ、日本書紀に書いてあるように、神道や仏教を信じる人たちは馬鹿すぎるので無神論者(儒教)により滅ぼされるべき非国民というのは良識でもなければ歴史的事実ですらなく、もちろん真理ではありません。
また、外国から思想を輸入する意識が高い人は、偉大なる天智天皇のように、国内で発展した地域限定の思想を滅ぼす義務があるというのも極論です。国際常識は常に正しく、現地消費型の思想は排他的で歪んでいるというのは必ずしも真理ではありません。竹取物語のように月は常に正しい訳ではないのです。
日本書紀を神話と呼ぶことには議論があるようですが、私は日本書紀で描かれている物語は神話と呼ぶべきだと思います。なぜならば、日本書紀を神話と呼ぶことには文学的な意味があるからです。
神話とは常識の源泉です。
もし、自然哲学から発展した自然科学が、物理学や情報科学が、人工知能やインターネットや宇宙開発が私たちの人生の脅威でないなら、ギリシャ神話はただの昔話で神話として認識する必要すらありません。日本でホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』が出版されているのは私たちが科学文明に生きていて、そして科学文明の常識はギリシャ哲学、ギリシャ神話から来ているからです。
また、日本人は自由主義や民主主義文明に生きています。そして、自由主義と民主主義はキリスト教文明から生まれました。また、日本は中東のイスラム教圏からエネルギー資源を輸入しています。一神教は重要です。そして、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教のモーセがエジプトから脱出しなければ、そしてエジプトが数学を発展させてギリシャを支配した偉大な国でなければ、エジプト神話は出版しても売れないでしょう。少なくとも、人々の興味を惹くことがあるとは思えません。
そして、もし現代の天皇陛下の権威が圧倒的であり、そして標準日本語があらゆる方言を駆除し続けている現実がなければ、そして日本の経済力が今ほど高くなければ日本神話を意識する必要すらありません。
あらゆる神の物語が神話ではなく、神話とは偉大な国家の起源です。
現代の私たちが生きている世界。その世界の起源になっている物語こそを、私たちは神話と呼ぶべきなのです。
神話とは昔話ではなく、成功者の思想です。あるいは、私たちの常識を生みだした一番初めの人々の世界観です。
天智天皇が、宗教とか血族とかを大切にする俗物が差別と貧困と争いを生みだして民衆を苦しめるから皆殺しにするしかないと断言して、そしてそれを実行に移して成功してしまい日本を始めたときに、同時に、現代を生きている私たちの人生が始まりました。
それを儒教と呼ぶのは捏造ですが、とにかく外国の思想を積極的に取り入れようとする天皇一族が、大和や出雲や熊襲にはそれぞれ良さがあり素晴らしい文化があるという地元大好き思想を皆殺しにして、外国の思想は常に正しいとする日本民族を生み出しました。それが明治維新や戦後民主主義に繋がりさらなる成功に結びついたことで、日本神話に起源を持つ日本人が生まれたのです。
そして、遺憾なことに、私たちはその一員に生まれてしまいました。
吐血という言葉が大好きで、うつ病になるほど勉強して、社畜になるほど働いて、宗教や愛国心に夢中になる人たちを軽蔑して、利己的な指導者を排除して、日本の軽薄な小説家よりもよりもフランス文学を高く評価して、科学技術を尊重して外国ブランドに憧れ、アメリカやフランスから帰ってきた勝ち誇った顔をした友人に嫉妬を感じるのは、あなたが天智天皇に連なる日本人だからです。
なお悪いことに、日本という国はそれで成功してきました。日本の経済力が世界三位であることは見逃せない事実です。
普通に生きているだけでは、私たちは神話に逆らう理由がありません。それはこれまで機能してきた伝統に関係するからです。そして、そのときに私たちは神話に起源を持つ価値観を常識として認識します。
そして、たいていの場合は常識は日本人の重要な美徳であり資質です。私たちは過激な宗教の救いやイデオロギーに嫌悪感を抱きますが、それは日本の経済発展に少なくない影響を及ぼしました。宗教とか芸術とかに夢中になるよりも、科学や工学に夢中になろうという常識は日本人の強みです。
また、この強みが自国の文化を大切にするあまり科学文明に遅れた中国やインドよりも日本を経済的に早く成功させました。そして、これらの事実があるからこそ、日本神話を文学的に神話と呼ぶべきなのです。
神話とは偉大なる者の物語であり、偉大な国家の起源です。
天智天皇の戦略は、私たちの常識として今でも生きています。それを認識することから日本文学は始まります。
しかし、文学は神話に服従することを目的とする訳ではありません。
神話は文学の敵であり、文学の起源です。文学が神話を問題にするのは、日本人の抱える悩みの多くが日本神話と天皇に起源を持つからです。
私たちは常識を一般人の偏見や多数派の意見だと誤解します。しかし、実際は「常識」とは多数派の意見ではなく、また本当はありふれていることですらなく神話が私たちに強制する実現不可能な理想です。
成功者の体験談を押しつけられることは迷惑です。
そのため、文学は常識を問題にするのです。
」『ゲーム制作のための文学』
日本文学の議論をするときに、日本書紀を扱うことは滅多にありません。しかし、それは初心者に不親切だと思われます。
たとえば、池澤夏樹先生の日本文学全集では古事記から始まります。
しかし、なぜ古事記なのでしょう。もちろん、それは日本文学は反正統、反天皇運動であり、大和よりも出雲、天照大神よりも素戔嗚尊を重視するべきだというポストモダニズムがあるかに他なりません。
現代日本文学は、正統でないことはすべて素晴らしいことなのです。芥川賞で方言が重視されるのはそのためです。
そして、中野重治も方言で小説を書きました。
標準語は悪、方言は善。白人は悪、有色人種は善。男子は悪、女子は善。それが今の日本文学です。
しかし、ゲーム制作者にとって重要なのは先端文学を学び、まさに文学の研究者になることではないと私は信じます。よって、文学者なら誰でも知っている常識から始めようと思いました。
文学は常識と戦いますが、そもそも文学が戦っている常識とは何であるのかは明確にしておくべきです。
それは普通の人が考えている常識とは少し異なります。
文学が前提としている常識とは、観念論と神話、そして宗教です。だからこそ現代文学ではキリスト教やマルクス主義は虐められがちで、フェミニズムは常に絶対正義なのです。
今日は以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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