愛に寄せて
「愛はひとりでに起こる。あなたは何をする必要もない、それは自発的な開花だ。」
と、Oshoは言葉を残している。
瞑想という風土の中で、人は愛の状態を体験することができるということである。
僕自身、瞑想を続けていく過程で、これまで自分自身に起こったあらゆる出来事、直視したくない自分の中にあった感情、これだけは赦してはならないだろうと思っていたことなどを、それらもまた体験だったとして包み込むことができた。
愛に触れるとそのような体験をするのだろう。
「愛」と聞くだけで、反射的に恥ずかしさが湧いてくる人もいるかもしれない。
僕自身が以前そうだった。
しかし僕が自分としっかり向き合っていく過程で、愛を開いていくことは避けられないことだった。
今日からオフィシャルサイトで、水と絵具の新しい実験観察シリーズ『Love』の販売を開始した。
タイトルだけ見ると、僕が愛を表現した作品という印象を得るかもしれない。
しかしながらこれらの作品は、僕が愛を見つめていく過程で自然と生まれていった作品たちという方が正しいだろう。
水の中に、水に溶かした絵具を流して、重力や時間という地球的な要素に作品を完成していただく。
僕は専ら、絵具を水に流し込んだ後、写真や動画で流れを観察、記録することを目的としている。
このように、僕自身はただ作品が完成していく過程に立ち会うという形で存在し、時間が経って、水が乾いた時にもたらされるものをただ受け取る。
作るというよりは与えられる作品ということから『Love(愛)』と名づけている。
そしてまるでそこに咲く花のように、生まれてきてくれた作品は完璧さそのもの。
「もっとこうであってほしい」というようなエゴの声が、この制作過程からは自然と聞こえてこない。
自分の中に在る愛を見つめていきながら、自分自身にもっとこうあってほしいというエゴの声がさらっと溶けていったからかもしれない。
自分自身がこのようなタイミングだからこそ、愛を見つめながら時間を過ごす意味があるような気がしている。
もっと愛を感じ、語る。
そんな柔らかな時間。
そんな自分になれたことが素直にありがたい。
本当はみんな愛に触れたいのだ。
だから日々の苦しみや社会の問題を見続けようとする習慣を止め、自分を愛に触れさせてあげる。
そういう自分への労りが結局何かしら具現化されたり、表現されることで、結果的に他にやさしさを届けることとなる。
深い所ではみんなそのことが本当はわかっている。
忘れているだけ。
愛を知るために、愛の感覚を忘れたりするのかもしれない。
きっとみんな愛というものに対して自信がないのだ。
思考の世界で生きてきたからこそ、正解だけを選んでいきたいと思っている。
エゴはわからないものを嫌う。
間違いたくないのだ。
しかし愛は、赦せない自分や出来事を受け入れ包み込んであげられれば自然とただ湧いてくるもの。
私に赦された私を感じることがれば、言葉であれ、行為であれ、その人から出てくるものはただ愛なのだと思う。
そして愛の波が結晶化したものを「アート」と呼んだりもするのだろう。
太陽