まいど周回遅れな天皇カルト。

より

上記文抜粋
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023.07.13XML
ウクライナで米国/NATOが露国に負けている現実を前にNATOは腰がひけている

 NATO(北大西洋条約機構)はリトアニアのビリニュスで7月11日から12日まで首脳会議を開催したが、団結とは程遠く、ウクライナが厄介者になっている現状が明らかになった。ロシアと核戦争したくない加盟国が少なくないのだ。そこでウォロディミル・ゼレンスキー大統領はNATO加盟国を激しく非難した。

 ドイツのアンナレーナ・ベアボック外相は2022年8月31日に「フォーラム2000」で「ドイツの有権者がどのように考えようとも、私はウクライナの人びとを支援する」と発言、23年1月24日に「われわれはロシアと戦争している」とPACE(欧州評議会議会)で口にしているが、こうした好戦的な主張をできる状況ではなくなっている。

 このベアボックは「緑の党」に所属している政治家。名前から受ける印象は平和的なのだが、同党のヨシュカ・フィッシャーが外務大臣を務めていた当時の外務省は「コソボにおいても、アルバニア民族への帰属に結びついた明白な政治的迫害が存在する確証はない。」と認めているのだが、フィッシャーはユーゴスラビアへの空爆を支持している。(ジャン・ブリクモン著、菊地昌実訳『人道的帝国主義』新評論、2011年)

 ジョー・バイデン米大統領は側近からロシアに楽勝できると吹き込まれたのか、大統領に就任した直後からロシアを挑発、「ルビコン」を渡った。その結果、無残なことになっている。

 アメリカ/NATOは昨年春にドンバスを攻撃、住民を大量虐殺してロシアを要塞線の内側へ誘い込み、そのすきにクリミアを攻撃しようとしていた可能性があるが、ドンバス攻撃の直前にロシア軍がミサイル攻撃を開始、出鼻をくじかれた。しかもロシア軍部隊がドンバスへ入ってこない。しかもウクライナ軍の動きを封じるため、キエフへ部隊を向かわせている。そこでイスラエルやトルコを仲介とする停戦交渉が行われ、ほぼ合意したのだ。

 それを壊したのはアメリカ政府とイギリス政府にほかならないが、その背後にはジョージ・ソロスを含むネオコン、つまりセシル・ローズ人脈がいるはずだ。

 この人脈はシティ(金融資本)と関係が深く、20世紀初頭からドイツとロシア/ソ連を戦わせようとしてきた。ロシアの有力貴族だったユスポフ家に対する数十年にわたる工作があったように見える。

 ロシアとの戦争に積極的だったユスポフ家にはイギリス人の家庭教師がいた。その家庭教師の子どもがサンクトペテルブルクにあったユスポフ家の宮殿で生まれている。スティーブン・アリーだ。その11年後にフェリックス・ユスポフが誕生、後にイギリスのオックスフォード大学へ留学し、ブリンドン・クラブへ入っている。留学先で親密な関係になったオズワルド・レイナーは流暢なロシア語を話した。アリーとレイナーは大学を卒業した後、イギリスの対外情報機関で金融資本と緊密な関係にあるMI6のエージェントになっている。(Joseph T. Fuhrmann, “Rasputin,” John Wiley & Son, 2013)

 ヨーロッパでは1914年7月28日にオーストリア-ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して大戦が勃発、帝政ロシアではドイツとの戦争に積極的な産業資本家と消極的な大地主が対立した。

 産業資本家側には有力貴族のフェリックス・ユスポフが、また大地主側には修道士のグレゴリー・ラスプーチンがついていた。ラスプーチンの背後には皇帝アレキサンドロビッチ・ニコライ2世と皇后アレクサンドラがいる。ドイツとロシアを戦わせようとしていたイギリスにとってラスプーチンは邪魔な存在だ。

 戦争を望んでいなかった皇后は7月13日にラスプーチンへ電報を打って相談、ラスプーチンは戦争が国の崩壊を招くと警告しているが、その内容を盗み見た治安当局は議会などにリーク、ラスプーチンは腹部を女性に刺されて入院することになった。

 入院中にロシアは総動員を命令、ドイツは動員を解除するよう要求。それをロシアが断ったため、ドイツは8月1日に宣戦布告している。ラスプーチンが退院したのは8月17日のことだ。

 すでにドイツと戦争を始めていたロシアだが、ラスプーチンが復帰したことでいつ戦争から離脱するかわからない状況。それを懸念したイギリス外務省は1916年にサミュエル・ホーアー中佐を責任者とする情報機関のチームをペトログラードへ派遣。チームにはアリーとレイナーが含まれていた。(前掲書)

 ペトログラードにおけるイギリスのお抱え運転手だったウィリアム・コンプトンの日記によると、彼はレイナーをユスポフの宮殿へ1916年の10月後半から11月半ばにかけて6度運んだという。ユスポフは1916年12月19日にレイナーと会ったと書き残している。(前掲書)

 ラスプーチンは1916年12月30日に暗殺された。殺したのはユスポフだと言われているが、暗殺に使用された455ウェブリー弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたもので、殺害現場にいた人の中でその銃弾を発射できる銃をもっていたのはレイナーだけだったという。

 ユスポフは上流社会の堕落に憤り、犯行に至ったとされているが、世界の上流社会は堕落している。そのようなことで憤る人物が上流社会で生きることはできない。

 ラスプーチンが暗殺された後、1917年3月に「二月革命」で帝政ロシアは崩壊、産業資本家を後ろ盾とする臨時革命政府が成立した。この政権は戦争を継続する。そこでドイツは即時停戦を主張していたボルシェビキに目をつけた。

 しかし、ボルシェビキの指導者は国外に亡命しているか刑務所に入れられていた。そこでドイツはボルシェビキの幹部32名を「封印列車」でロシアへ運ぶ。ウラジミル・レーニンは1917年4月に帰国、7月にボルシェビキは武装デモを行うものの、鎮圧されてしまう。レーニンはフィンランドへの亡命を余儀なくされた。

 この時、臨時革命政府軍の最高総司令官になったのがラーブル・コルニーロフ将軍。労働者や兵士を味方につける必要性を感じたのか、臨時政府は7月にエス・エルのアレキサンドル・ケレンスキーを首相に就任させた。

 ところが、コルニーロフが8月にクーデターを企てる。この武装蜂起にケレンスキー政府は対応できず、ボルシェビキに頼ることになった。そして十月革命につながり、革命政権はドイツの思惑通りに即時停戦を宣言、無併合無賠償、民族自決、秘密外交の廃止も打ち出した。

 レーニンの命令でボルシェビキ政権はドイツとの戦争を停止。アメリカが参戦、兵員を送り込んだほか、イギリスやフランスに物資を供給してたこともあり、ドイツは戦争に負けた。

 しかし、そうした経緯があるため、大戦後、ドイツとソ連の関係は良好だった。両国の関係が悪化するのはドイツでナチスが実権を握ってからだ。ナチスはイギリスやアメリカの金融資本から資金的な支援を受けていたことがわかっている。

 第2次世界大戦でドイツはソ連に負けた。アメリカやイギリスがヨーロッパで戦争に参加するのはスターリングラードでの戦闘でドイツ軍が敗北、1943年1月に降伏してからだ。ウィンストン・チャーチルが大戦を勝利に導いたという主張は戯言にすぎない。

 チャーチルの側近で、NATOの初代事務総長になるヘイスティング・ライオネル・イスメイはドイツ軍が「バルバロッサ作戦」を始めて間もない1941年10月の段階で、モスクワは3週間以内に陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)その推測通りに進まないことを見てイギリスやアメリカは動き始めたのだ。

 ナチスがソ連/ロシアを征服してくれることを米英の支配層は期待していたのだろう。ただ、アメリカの大統領だったフランクリン・ルーズベルトは反ファシズムで、植民地に反対だ。帝国主義者のウィンストン・チャーチルとは立場が違うため、両者の関係は悪かった。チャーチルはセシル・ローズの直系で、「最初のネオコン」とも呼ばれている。

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抜粋終わり

面白いのはラスプーチンは「自分が庶民に殺されたら、ロシアって国は安泰。でも貴族にころさたら、帝国は崩壊し、ロシアも滅びる」って言ってたところ。

まあ「帝政」って奴は、元来「貴族」とかが跋扈しやすい制度なので、ラスプーチンは、貴族に殺され、ロシアは帝国も国家も崩壊した。

貴族~セレブにとって、帝政ほどありがたいものはない。権威は皇帝なり天皇に由来し、失政は、皇帝なり天皇制では庶民に押し付けれる。言い換えたら、天皇制とは、天皇も貴族で、一緒に庶民に寄生する下種の道である。

中華帝国では貴族ってのは発達しなかった。貴族こそが皇帝の敵対者で同時に帝国を食い散らかす寄生虫だからだ。
それはまともなことと思う。

まあ、NATOが、ウクライナ戦に及び腰なのに、日本は前の戦争で、ナチの衰亡し始めたころにナチと組んでソ連や米英にケンカを売る売国戦争をおっぱじめた。
まあそもそも「天皇とその閨閥」が、日本人と日本の利権を最大限に売り払うのが、彼らが栄光王からの職務なので、それに熱心に奉公したわけで。

今回も、周回遅れで、負け戦で「バチカン教をいたぶりまくった日本人」を殺すための戦争を仕掛ける準備に怠りない。って訳だ。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように


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