「学校」で「いじめ」が無くなると、「天皇」が終わるのでな。


より

上記文抜粋
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「いじめ」が生まれる「深刻な構造」の正体…多くの人が意外と知らない「学校」とはなにか

なぜ日本の学校から「いじめ」がなくならないのか? なかなか変わらないその構造とは?

「なぜ日本の学校から『いじめ』がなくならないのか…たった2つの『シンプルかつ納得の理由』」につづき、いじめ問題の第一人者・内藤朝雄氏がさらなる分析を展開する。

(※本稿は現代ビジネス編『日本の死角』を一部再編集の上、紹介しています)

「学校とはなにか」──それが問題だ

最も根幹的な問題は、「学校とはなにか」ということであり、そこからいじめの蔓延とエスカレートも生じる。

わたしたちが「あたりまえ」に受け入れてきた学校とはなんだろうか。いじめは、学校という独特の生活環境のなかで、どこまでも、どこまでもエスカレートする。

先ほど例にあげた横浜のいじめが、数年間も「あたりまえ」に続いたのも、学校が外の市民社会とは別の特別な場所だからだ。社会であたりまえでないことが学校で「あたりまえ」になる。

学校の学校たる「学校らしさ」

学校とはどのようなところか。最後にその概略をしめそう。

日本の学校は、あらゆる生活(人が生きることすべて)を囲いこんで学校のものにしようとする。学校は水も漏らさぬ細かさで集団生活を押しつけて、人間という素材から「生徒らしい生徒」をつくりだそうとする。

これは、常軌を逸したといってもよいほど、しつこい。生徒が「生徒らしく」なければ、「学校らしい」学校がこわれてしまうからだ。

たとえば、生徒の髪が長い、スカートが短い、化粧をしている、色のついた靴下をはいているといったありさまを目にすると、センセイたちは被害感でいっぱいになる。

「わたしたちの学校らしい学校がこわされる」

「おまえが思いどおりにならないおかげで、わたしたちの世界がこわれてしまうではないか。どうしてくれるんだ」

というわけだ。

そして、生徒を立たせて頭のてっぺんからつま先までジロジロ監視し、スカートを引っ張ってものさしで測り、いやがらせで相手を意のままに「生徒らしく」するといった、激烈な指導反応が引き起こされる。

この「わたしたちの世界」を守ることにくらべて、一人ひとりの人間は重要ではない。人間は日々「生徒らしい」生徒にされることで、「学校らしい」学校を明らかにする素材にすぎない。

多くのセンセイたちは、身だしなみ指導や挨拶運動、学校行事や部活動など、人を「生徒」に変えて「学校らしさ」を明徴するためであれば、長時間労働をいとわない。

その同じ熱心なセンセイたちが、いじめ(センセイが加害者の場合も含む)で生徒が苦しんでいても面倒くさがり、しぶしぶ応対し、ときに見て見ぬふりをする。私たちはそれをよく目にする。

ある中学校では、目の前で生徒がいじめられているのを見て見ぬふりしていたセンセイたちが、学校の廊下に小さな飴の包み紙が落ちているのを発見したら、大事件発生とばかりに学年集会を開いたという(見て見ぬふりをされた本人〈現在大学生〉の回想より)。こういったことが、典型的に日本の学校らしいできごとだ。

こういった集団生活のなかで起きていることを深く、深く、どこまでも深く掘りさげる必要がある。

さらにそれが日本社会に及ぼす影響を考える必要がある。学校の分析を手がかりにして、人類がある条件のもとでそうなってしまう、群れたバッタのようなありかたについて考える必要がある。

学校で集団生活をしていると、まるで群れたバッタが、別の色、体のかたちになって飛び回るように、生きている根本気分が変わる。何があたりまえであるかも変わる。こうして若い市民が兵隊のように「生徒らしく」なり、学習支援サービスを提供する営業所が「学校らしい」特別の場所になる。

この「生徒らしさ」「学校らしさ」は、私たちにとって、あまりにもあたりまえのことになっている。だから、人をがらりと変えながら、社会の中に別の残酷な小社会をつくりだすしくみに、私たちはなかなか気づくことができない。

しかし学校を、外の広い社会と比較して考えてみると、数え切れないほどの「おかしい」、「よく考えてみたらひどいことではないか?」という箇所が見えてくる。

社会にはない学校の「異質さ」

市民の社会では自由なことが、学校では許されないことが多い。

たとえば、どんな服を着るかの自由がない。制服を着なければならないだけでなく、靴下や下着やアクセサリー、鞄、スカートの長さや髪のかたちまで、細かく強制される。どこでだれと何を、どのようなしぐさで食べるかということも、細かく強制される(給食指導)。社会であたりまえに許されることが、学校ではあたりまえに許されない。

逆に社会では名誉毀損、侮辱、暴行、傷害、脅迫、強要、軟禁監禁、軍隊のまねごととされることが、学校ではあたりまえに通用する。センセイや学校組織が行う場合、それらは教育である、指導であるとして正当化される。

正当化するのがちょっと苦しい場合は、「教育熱心」のあまりの「いきすぎた指導」として責任からのがれることができる。生徒が加害者の場合、犯罪であっても「いじめ」という名前をつけて教育の問題にする。

こうして、社会であたりまえに許されないことが、学校ではあたりまえに許されるようになる。

(つづく)

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抜粋終わり

学校の教育と称されているモノは、調教と飼育でしかない。

しかもそれを「国家の方針」としてされている。


隷属のための教育=調教


より

上記文抜粋
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天皇制=帝政とは、天皇を中心とする同心円状の権力構造による統治・支配を指す。
権力構造の頂点には天皇がおり、天皇に直属する権力者が天皇の権威を借りて統治権を行使し、天皇に対して責任を負うが、天皇は無答責であるため、実質的に責任を負うことがない。
そして、天皇に近いところにあるものほど、強い権威と権力を有する建前になっている。
日本に右翼、極右が多いのは、円の中心部に一歩でも近づきたいと願う弱者が多いことに起因する。
その円の中心部に近いものは円の外側にあるものを差別することで、自らの優位性を確認し、自己満足に浸れるからだ。
この点は戦後帝政の密教部と言えよう。

つまり、差別構造とは帝政の原理であり、差別の否定は本質的に帝政の否定であり、自民党の権力基盤を瓦解させるものでしかない。
自民党が「差別は許されない」に反対するのは、ソ連共産党が複数政党制に反対するのと同じくらい自明の理なのである。

・・・・・・・・・・中略・・・・・

この問題のやっかいなところは、皇族の個々人の中には良識的な人もいるのでしょうし、今の帝もそうなのだろうと思うのですが、これが天皇制というシステムになると、突然邪悪なものになるわけです。

システムとしての帝政が邪悪であるだけに、象徴たる天皇や皇族はできるだけ「きれいに見せておく」(無垢でなければならない)という意識があり、これが大衆をして帝政を支持させる根拠になっています。

スターリン下の共産主義体制が邪悪なものであった一方で、人民はスターリン個人に熱狂していたことと、本質的には同一なのです。
Posted by ケン at 2023年05月20日 13:22

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抜粋終わり


より

上記文抜粋
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 第2の理由は日本人の奴隷教育です。

 奴隷教育とは日本では当たり前の次のような教育です。

・良い大学に入り良い会社に入るために勉強する
・成績が良いと褒められ悪いと叱られる

 これは成績が良いと価値があり、悪いと価値がないという価値観で、実は奴隷に対する教育なのです。

 本来の価値観は「存在だけで価値がある」です。

 日本人は「絆」は良いと思っていますが、元の意味は奴隷や動物を拘束する足かせ手かせで、マスクももともとは奴隷に着用させて個性を殺すためのものです。

 マインドコントロールされると情報が更新されにくくなります。

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抜粋終わり

これも大事だ・・・

先の続きより

上記文抜粋
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 複数あるマインドコントロールの解除方法の中で一番大切なことは正しい情報と正しい自己認識、「自分は存在だけで価値がある」です。

 反対に無価値観は「自分には価値がない」という価値観のため基盤が弱いことからコントロールされやすくなります。無価値観は唯物的思考が原点であり、学問、思考、イデオロギーの根底に存在します。

 エリートほど唯物的思考に陥りやすいので、権威までコントロールされてしまう原因になります。

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抜粋終わり

天皇崇拝など

天皇制=帝政とは、天皇を中心とする同心円状の権力構造による統治・支配を指す。
権力構造の頂点には天皇がおり、天皇に直属する権力者が天皇の権威を借りて統治権を行使し、天皇に対して責任を負うが、天皇は無答責であるため、実質的に責任を負うことがない。

その円の中心部に近いものは円の外側にあるものを差別することで、自らの優位性を確認し、自己満足に浸れるからだ。

だから、猶更ね。

イジメこそ、天皇を形成する近現代の最大の理由なのですは。

逆に言うと「いじめ」と非道なモノが、根拠な「天皇」を、象徴とか元首とかいう社会には、消滅しか行く道が無いのは、明白である。

天皇の無い  蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように


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