少し不調ですが。

かなりメンタルも不安定です。まあ食事を自己流に制限して、咀嚼を、20~50回するようにしてますが、どうなることか。

まあそんなのもあって、今はメンタルは不調なので、あまり載せれませんが。


より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:常に両建に気を付けるべし。二元論・実体論にとらわれない思考法の考察。

〇惑批判が盛り上がってきた今だからこそ益々「両建」に気を付けるべき。惑批判者・惑被害者に纏わりつき(憑依型戦術)、主導権を握り誤誘導・(裏権力にとっての)無害化・ダメージコントロールする工作など、裏権力及びその走狗にとっては朝飯前の事である。常に両建を念頭に置くのが陰謀追及の基本。

〇惑関連の思考は大きく次の3種類に分けられると見る。➀惑を疑わない(惑いに沈む=惑沈)。政府・御用“専門家”・メディアの言う事は絶対だと信じる。➁惑の有害性・惑政策の異常性に気付き惑批判を行う。➂②を行いつつ「両建」にも注意する。追及者としては③の思考をもつ事が出来れば万全であろう。

〇「両建」を念頭に置いておくだけで格段に騙されにくくなるはずである。例えば世の中で人為的な大きなムーブメントが起きても冷静な思考を失わずに済む。物事を考える際には一点だけにとらわれないようにする事が重要だと考えている。「惑批判に注力しつつ両建にも注意する」は分かり易い具体例である。

〇単純思考の人は「惑批判か両建批判か」という二元論に陥りがちである。また「惑批判と両建批判の止揚」などという弁証法的思考にも陥ってはならない。惑批判と両建批判は二者択一でもなく、弁証法的「止揚」でもない。「今」という情勢・状況下で事実と道理に沿って自分なりに思考・判断する事である。

〇「反ワク」というメディアが作った揶揄表現に対抗する意味で「親ワク」という表現を使う事があるが、あくまで便宜的表現に過ぎない。「反ワクVS親ワク」という二元論的枠組みに固定化されると両建に嵌り易くなるので注意。惑批判者は人○しに反対するという人として当たり前の事をしているに過ぎない。

〇人〇しに反対するのは人として当たり前の事である。「反・親」というイデオロギー的な二元対立ではない。人〇しを阻止せんとする者が、人〇しに加担する者を批判・糾弾しているというのが惑批判の本質である。二元論も弁証法もない。自分で調べ物を考えた上で、「悪い事は悪い」と言っているのである。

〇「親ワク」という表現は「反ワク」という揶揄表現と対消滅させる言葉として使用するとよい。「親ワクVS反ワク」二元論枠組みを固定化させるのではなく、「反ワク」という揶揄表現と「対消滅」させる。二元論にとらわれない地平に立脚すれば、戦略的に二元相対的表現を便宜的に用いる事も可能であろう。

〇裏権力派閥は末端走狗まで含めると、無数に存在すると思われるが、その基本はあくまでも二元相対的な両建である。多元も二元(二つに分ける事)が基本だからである。「二つに分ける」から「三つ」にも「四つ」にも分けられる。「二元論にとらわれない地平」は一元にも多元にもとらわれない視点である。

〇「二つに分ける」とは言葉や概念で物事を分節化する事を指す。だとすると、一元も多元も二元と性質は同じである。「一元」も「多元」も言葉・概念で認識される故に。「世界は一つ」「ワンワールド」という一元論を掲げる連中が固有の国・文化を敵視し二元相対的争いを無限に繰り返すのはその為である。

〇「両建」というのは、あくまで原理的な意味合いであって、文字通り「両=二つ(しかない)」という意味ではない。「多元」は物事を二つに分ける「二元」の延長と捉える事が出来る。二元が無ければ多元は無く、多元が無ければ二元も無いという関係。物事を二つに分けて、それぞれの要素を独存視するのが二元論である以上、二元論は実体論であるとも言える。即ち二元論の根底には実体論的思考がある。実体論的思考にとらわれると、物事の関係性・構造が見えなくなる。例えば、「反ワク」という概念を実体視してとらわれると、そこで思考がストップし、惑を取り巻く具体的な関係性や構造が見えなくなる。

〇「反ワク」という実体論的概念が一度刷り込まれると、この言葉を貼り付けた途端、それ以上は思考しなくなるように調教される。この言葉を貼って「安心」してしまい、何ら自分で思考したり、調べたりせず、只々「自分は常識人であり、マジョリティーである」という卑俗で虚妄なぬるま湯の中に安住する。

〇それに対して、自分で思考する人は、実体論的概念にはとらわれない。イデオロギーではなく、事理に即して思考する。例えば、「反ワク」なるイデオロギー的な裁断・レッテル貼りに惑わされず、具体的な事実や事実間の関係性(因果関係など)を調べ、事理に即して自分なりに判断する。これぞ独立的思考。

〇「「自分は常識人であり、マジョリティーである」という卑俗で虚妄なぬるま湯」は、実は「安住」出来る場所ではなく、常に加熱されている「ぬるま湯」である。そのままでいると、「ぬるま湯」はやがて「熱湯」となり、茹で上がったカエルの如くになる。惑問題では、この事がより一層顕著に現れている。

〇「反ワクがまた馬鹿な事を言ってら」とニヤニヤ笑いながら「卑俗で虚妄なぬるま湯」に浸かりながら、政府やメディアを盲信して何度も何度も遺伝子惑を打つ。そんな事を繰り返したら、いずれニヤニヤ笑いが消える瞬間が来る。そうなる前に、もっと自分事として真剣に考えるべきである。自分を守る為に。

〇惑信者が「反ワク」と罵る惑批判者(カルトや紐付きは除く)は、「反ワク・親ワク」という二元論・実体論的思考ではなく、イデオロギー的な思考分別が働く以前の、素朴な感情や思考、道義心に立脚している(と個人的には思う)。イデオロギー的裁断しかしない者と事理に即して自分で考える者の違い。

〇中長期的影響が未知、“感染予防効果”が認められない人類初投与遺伝子製剤を2年弱の間に複数回接種、戦後最大の超過死亡数、「感染者数」世界一を記録。普通は「ヤバいよね」となる。反・親だのという思考分別ではなく、本能的な危機察知であり、まっとうな道義心がある人なら怒って当然の状況である。

〇「反ワク」と笑って(嗤って)いる人には、あなたが今いる場所は思っているほど安全圏ではないと申したい。むしろ、非常に危険な場所である。もし本当に惑を信じ、何度も打っているのだとしたら。自分は打たずに他人に強いる腐れ外道工作員は確信犯。純粋に騙されているだけの人はそろそろ気付くべし。

〇思考は単独では働かず、思考には必ず枠組みや前提が存在する。枠組みや前提を自覚し吟味するという発想がないと、誰かが与えた枠組みの中で思考し続ける事になる。「政府やメディアは嘘を付かない」「国際組織は人の命を奪う事などしない」という前提に立つと、疑いもせず平然と何度も毒を打つだろう。

〇思考が「AはBである」という「判断」の形式をもっているとすると、AやBに相当する言葉・概念をよくよく吟味すべきである。誰かの都合で作られた言葉・概念(「反ワク」「陰謀論」など)を疑う事なく当たり前のように使用すると、その言葉・概念を要素とする思考も誰かに都合のよいものになるであろう。

〇思考が「AはBである」という「判断」の形式をもつとして、「判断」が「思考の分子レベル」だとすると、AやBに相当する「概念」は「思考の原子レベル」だと言える。「反ワク」「陰謀論」という概念を疑わずに使用する事は、思考に原子レベルで介入される事を意味する。思考を根源から操られている状態。

〇ただし、言葉を吟味した上で自覚的に用いるなら思考誘導を防げる。例えば、陰謀追及者が「反ワク」「陰謀論」を自覚的に使う場合もあるであろう。しかし、大半の場合はメディアが与えた蔑視のニュアンスで用いられる。無自覚にこうした言葉遣いをする限り、誰かが与えた思考の枠を超えられない仕組み。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/1599320037068017666

(了)

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抜粋終わり

二元論思考や、決めつけに嵌ってはいけない。

まあ、私の現状もそれだが、世の中のこともそれです。

天皇の無い 蒼い空を取り戻す

慈悲と憐みに富む社会になりますように。

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