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非日常の神社を日常へ

6月30日に夏越の大祓があり、茅の輪という大きな輪をくぐる神事がありました。清々しい青空のもと、半年間のつもりに積もった悪いものが祓われ、令和3年残り半年間を健やかに過ごせそうです。

さて、こちらの神事では、いつも神社には足を運ばれない方も、ご参列いただいたようで、神社との接点をつくるきっかけというのは本当に大事だと改めて身に染みた思いです。

さて、神社という空間ですが、どうしても非日常性が強調されるのはなぜでしょうか?初詣、人生儀礼(お宮参り、七五三、厄除け)、お祭り。特定の時節においてのみ、神社との接点が生まれます。だからこそ、なんとなくイベントごとと関連するイメージがあるのかもしれません。特に「お祝い」という表現がよくつかわれますよね。

これらは日本人の慣習として根付いているので、時代が変遷しても、廃れることがないといわれています。

ただ、非日常的な役割だけであれば、社会にとって神社は必要とされていくのでしょうか?これから人口減少していく日本において、より長く関わっていけるようなトランスフォーメーションが求められていくと予想しています。

「あの神社お宮参りで行ったことある。」「厄除けでお世話になった。」人生における単発的な節目のみのかかわりあいのみの限界。つまり、長い人生において一過性の関係性でしかない状態だと、今後の神社の未来は開かれないのではないでしょうか。

この非日常性を想起させているのは、神社という空間の特性ではなく、そういった習慣や慣習を現代の生活に合わせてデザインができていないように思います。

神社には宗教性と公共性の両軸があり、開かれた空間として、地域の人々が集う場所として役割を発揮できるポテンシャルがあると思います。

非日常から日常へ

では、年1回などの非日常ではなく、日常的に神社が人々の生活に関わっていき、人生をより良い方向へ導いていけるのでしょうか?

日常的なかかわりが生まれるように、いかに環境整備するのかということが今後の神社のポイントになってくるかと思います。

前回の投稿でもありましたが、神社のストーリー(成り立ち)の情報を整理して、地域の人々との交わりや接点ができるように、開かれた空間、公共性を構築していくことが求められます。

服部天神宮であれば、「足」のストーリーをベースに、どう人々の日常に神社を意味づけしていくのか?

「下駄」「ランニング、マラソン」「サッカー」

色んな角度から構想を練っている最中です!


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