白アメ表紙Ep01

【一気読み版】白磁のアイアンメイデン 第1話 #白アメ

こちらは拙作「白磁のアイアンメイデン」第1話のおまとめ版です。未読の方は是非どうぞ。第1話は約15,000字です。

目次

 ハンク王国の王都クストルを出て、南西へ馬で十数日、眼前に広がる大河を越えたところに広がる広大な平原は、地図の上では「ラシュ平原」と名付けられている。

 しかしながら、そこを知るものたちは決してその土地をラシュ平原とは呼ばない。代わりに、畏れと忌避の感情を込めつつ、こう呼んだ。

 ”忌み野”。

 かつては肥沃な土地であったという。そこに住まう者、訪れる者も少なくなかった。

 ある日、竜が墜ちてくるまでは。

 後に”忌み野の竜”と呼ばれるそれが、何故ラシュ平原に至り、何故眠りについたのか。それを知るものは誰もいない。わかっていることは、”忌み野”の何処かで竜が眠りについたときより、彼の者の撒き散らす魔的な穢れが、ラシュ平原を”忌み野”へと変え始めたということだけだ。

 今、”忌み野”を訪れたものが目にするのは、ただ一面の汚れ爛れた土。来訪者を拒むがごとくそびえ立つ、峻険たる岩石群は、果たして自然の産物か、それとも口にできぬ儀式のための遺構か。見るものに嫌悪感を抱かせる捻れた木々がまばらに生え、その間を闊歩するは魔獣、亜人、忌むべき者達。それらは眠る竜を護るがごとく、”忌み野”を訪れる者を次々と容赦なく、竜への供物としていった。

 ラシュ平原を訪れ、命からがら逃げおおせた者は、ある者は自己弁護のためか、自らの体験を尾ひれをつけつつ大声で触れ回った。またある者はそこで何があったのか、黙して語らぬまま生涯を終えていった。

 それら様々の出来事が吟遊詩人の歌に乗り、または酒場の喧騒の中で出所もしれぬ噂話として語られ、聞く人々に恐怖を刻み込んでいった。

 そしてその恐怖は、王都から差し向けられた調査隊兼討伐隊が二度と戻らなかった時点で最高潮に達した。

 かくして、ラシュ平原は”忌み野”へと成り果てたのであった。

◇ ◇ ◇ ◇

 故に、そのような土地を二週間ほどさまよった魔術師ヘリヤが、目の前の出来事を疲労の上の幻覚か、あるいは知らぬ間にかけられた幻術のたぐいと錯覚したのも、無理からぬ事であったと言えよう。

 ヘリヤの眼前に広がる光景は、確かに見るものの正気を疑わせるものであった。なにせ、「執事とメイドに見守られながらリザードマンの群れに飛び後ろ回し蹴りを叩き込む若い女性」の姿だったのだから。

 しなやかな体のラインを強調する、真紅の衣装に身を包んだその女性は、肩まで伸びた髪を揺らしながら、舞うが如き足技で重武装のリザードマン達を文字通り「蹴散らして」いく。

 六体のうち五体までに致命の蹴りが叩き込まれると、最後のリザードマンは不利を察して逃げを図った。だが、身を翻したリザードマンが駆け出すより一瞬早く、その後頭部に天高く振り上げられた女の踵が叩き込まれる。

 「ぐ」と「げ」の中間のような断末魔の鳴き声を放ち、頭を砕かれたリザードマンは地に倒れる。それを合図にしたかのように、”忌み野”は束の間の静寂を取り戻した。

 呆然と見ていたヘリヤの前で、女の体を包んでいた衣装がするりと解け、真紅のドレスへと姿を変えた。いつの間にか腰まで伸びた髪を揺らしながら、彼女はヘリヤに微笑みかける。

「さあ、お茶にいたしましょうか。そちらの方もご一緒にいかが?」

◇ ◇ ◇ ◇

「――どうしてこうなった」

 リザードマンの濃厚な血の匂いがいまだ残る中、いつの間にか準備されたテーブルセットに腰を掛け、いつの間にか準備された紅茶を振る舞われながら、魔術師へリヤは思わずつぶやく。

 『幻術解呪』は密かに二度唱えていた。反応なし。幻術に囚われたわけではない。ならば、これが現実だということをそろそろ受け入れねば。冷静さを失うなど、魔術師として恥ずべきことだ。

「あら、どうなさいました?」
 そう微笑みかけてくる眼の前の女性(彼女は「ベアトリス」と名乗った)を、改めてヘリヤは注視する。観察は実践魔術の第一歩だ。

 長い黒髪。白磁の肌。アイス・ブルーの瞳。ほのかに紅い唇。真紅のドレスに身を包み、上等そうなカップを優雅に口元へ運ぶ動作は、身についた確かな気品を感じさせる。

 裕福な貴族のご令嬢――誰もがそう受け取るだろう。しかしここは王都ではない。”忌み野”たるラシュ平原のど真ん中だ。魑魅魍魎が跋扈し、一瞬の油断が死に、もしくは死ぬより酷い事態につながる地である。

 そんな場所に、なぜこんな綺麗で可憐な人が――そこまで思いを巡らせたヘリヤは、あわててベアトリスから目をそらす。

 じ、自分は、魔術の習熟と知識の探究に一生を捧げると誓った者、女性の美貌に気を取られるなどありえない。あってはならない。さては何かの術か。『魅了解呪』を密かに唱えてみる。反応なし。そんな。

『お口に、合いませんでしたか』
 混乱しかけていたヘリヤを救ったのは、執事の一言である。

 だが、ベアトリス同様、お付きの執事とメイドも別の意味で彼を混乱させていた。

「まあ、アルフレッド。あなたのお茶はいつも完璧ですわ。満足しない方などいません。」
『無論です。しかしながら書に曰く、ヒトの好みは千差万別なり、と。例えばこの方が、こう、ドワーフの一番絞り汁的な、個性的なお味を好まれているとしたら……!』
 おい。

「そんなわけ無いでしょうアルフレッド、口が過ぎましてよ」
【チチチチ】
「ほらご覧なさい。フローレンスも呆れてますわ」

 ベアトリスに付き従う、執事とメイド。信じられないことに、彼らはおそらく自動人形(オートマタ)だ。

 アルフレッドと呼ばれたそれは、黒の執事服に鈍く輝く金属の身体を包み、微かな駆動音をさせながら表情一つ変えず――当たり前だ、彼(?)の顔には目鼻らしき凹凸が刻まれているだけなのだから――主人の世話をしている。

 メイドの方は製作者が途中で飽きて放り出しでもしたのか、カチューシャの下、顔には目鼻は無く、紅く光る光点が六つ規則的に並んでいるだけだ。彼女(?)は口を利かない。チチチチと微かな音を立てながら光点を明滅させ、それをもってコミュニケーションを取っているらしい。

 ――人の姿を模しながら、魔導の力と機械仕掛けで動く自動人形(オートマタ)は、本来神話や伝説の登場人物でしかなかった。

 それらに触れて育った錬金術師たちが、神話の再現を試み始めたのが50年ほど前。ドワーフたちの協力も得て、ようやくそれらしきものが組み上がってから3年ほどである。

 ただし、荷運びや床掃除程度の単純作業しか任せられない程度の代物であり、王都の裕福な貴族や商人が、自らの財力を誇るための嗜好品という扱いであった。それでも、その知らせはヘリヤの知的好奇心を大いに刺激したものであったのだ。

 だから決して、執事服やメイド服を着こなし、主人の世話を甲斐甲斐しくおこなえるモノではないはずなのだ――

『む、しかし』
【チチチチ】
「フローレンスの言うとおりだわ。アルフレッド、あなたの負けでしてよ」【チチチ】
「あら、言い過ぎを謝る必要はないわフローレンス。あなたにそんな悲しい顔は似合いませんわ」
 悲しい顔なのか。

 ふう、とヘリヤはため息をつく。冷静どころか、混乱しっぱなしだな、情けない。ヘリヤは苦々しく思った。まったく気に入らない。

「それで魔術師殿、どうしてこのようなところに?」
 やられっぱなしは性に合わない。多少はやり返してやるとするか。

「……あんた方こそ、この”忌み野”になんの用があるんだ、お嬢さん。あんた、王都できれいなお花でも摘んでいるほうがお似合いとしか思えないぞ」
「ええ、わたくし」
 ベアトリスは軽く微笑むと、
「ちょっと竜狩り<ドラゴン・ハント>に参りましたの」
 花でも摘みに行くような調子で朗らかに答えた。

「竜……狩り?」「ええ、竜狩りですわ」「竜を」「ええ」「まさか、”忌み野の竜”を」「ええ、”忌み野の竜”を」「狩りに」「ええ、狩りに……これはなにかの遊戯ですの?ならば受けて立ちますわ。ルールを教えていただけますかしら」「いや、す、すまない」

 ――正気か。竜を、しかもよりによって”忌み野の竜”を、狩る? 正気で言っているのか?

「無論、正気ですわ、魔術師殿」「なっ」心を読まれた?

「まあ、ご心配なく。わたくし魔術のたぐいは使いませんのよ」
 そういってベアトリスは意地悪そうに微笑む。
「殿方のお気持ちを当てるのは、子供の時からの特技なのです」

「……正気で言っているというのならば、無知にすぎる。ただの竜退治ですら、超一流の冒険者が、最高の装備と技術、そして運をすべて備えてようやく為せるものだ」

 初等科の学生に講義をしている心持ちで、ヘリヤは続けた。
「ましてや相手は”忌み野の竜”。文字通り神話の生き物だ。そんなものを狩ると臆面もなく言うやつなど、正気を疑われても仕方あるまい」

「まあ、ひどい言われようですわね」
 苦笑交じりでベアトリスは言う。
「私には運も実力もないと?」
「運は知らん。だが実力はどうかな。確かに先程、リザードマンどもを一蹴していた技は見事だった」

「薫風(クン・フー)。<遥けき東(ファー・イースト)>の技ですわ」
「すまんが、そういうものには詳しくない。ともかくそれも、リザードマンに通用したからと言って、そのまま竜に通用するとは到底思えない。あれは、我々とは次元の違うモノだ」
 ヘリヤは断言する。

「随分と、竜にお詳しいのですね」
「――相対したことが、ある」
「まあ」

 そう、あれは、真に『次元の違う存在』だ。もう何年も前のことだが、忘れられようもない。ヘリヤの肌が、わずかに粟立つ。

「そうだな、紅茶の礼だ。本気で忠告しておこう。いくら技が立つといえども、竜を殺すなど無謀の極みだ。そんなことはどこぞの英雄様たちにでもお願いして、自分はお家に帰ってお茶でも飲んで待っているんだな。英雄様の凱旋話を……もしくは訃報をな」

「ご忠告、痛み入ります。お会いしたばかりなのに、こんなに心配していただけるなんて」
「他意はないぞ!」
「もちろんですわ」

 飲み終えた紅茶のカップをテーブルに置くと、ベアトリスはヘリヤの顔を正面から見据えた。アイス・ブルーの瞳に宿る、強靭な意志。思わず気圧されそうになる。

「ですが、それではやめておきますわ、とはいかないのです。私は竜を狩るために、”忌み野の竜”を打ち倒すためにここに来たのですから」
「なぜ、そこまで……」

『お嬢様』
 アルフレッドが会話に割り込んできた。
「なにかしら、アルフレッド」
『リザードマンどもの新手が近づいてまいります。その数、二十二』
 アルフレッドが彼方を見つめつつ、淡々と報告する。何かを計測してでもいるのか、微かな駆動音が響く。

「リザードマンだけですの?」
『いえ、どうやらそれらの頭目らしき存在も』
 それを聞いたベアトリスは微かにうなずくと、ヘリヤの方に顔を向けた。

「狙い通りですわ。それでもこんなに早くとは思いませんでした。わたくしの運の良さ、証明できましたかしら」
「狙い通り、だと」
「さて、あとは実力ですわね。すぐに証明してみせますわ」

 ベアトリスはおもむろに立ち上がると、真紅のドレスを優雅に翻しながら歩き出す。その視線の先には、規則正しく隊列を組み行進する重装リザードマン、更にその後ろに、圧倒的な存在感を放つ何かがいた。

 ヘリヤはすかさず<遠視>の術を唱える。リザードマンよりも一回り大きいその姿、ボロ布をまとって隠している肌には、赤銅色の鱗が並ぶ。

「まさか、ドラゴニュート……か!」
 ヘリヤは驚愕に思わずつぶやく。まったく、彼女と出会ってからこっち驚いてばかりだ。私の冷静さはどこへ行ってしまったのか?

 ドラゴニュート。竜人。竜の従者。竜に仕えることを選び、竜の力を得た、元人間だ。元人間といえども、その力は並の魔物を遥かに凌駕する。まごうことなき化物だ。

 だが。
 それを知ってか知らずか、ベアトリスは臆さない。”忌み野”に硬いヒールの靴音を響かせ、一直線に軍団へと歩を進める。

 互いの距離がおよそ二十歩分ほどに縮まったとき、彼女はようやく立ち止まった。

「何だ、きさ」「はじめまして皆様! わたくし、ベアトリスと申します」

 紅いドレスのスカートをつまみ、優雅に挨拶。スカートから手を離した瞬間、ドレスは一瞬で音もなく体に巻き付く。しなやかな体のラインが浮き上がる。腰まで伸びた黒髪が、瞬時に肩まで縮む――これが彼女の、戦装束なのだ。

「お近づきの印に!」
 跳躍! 距離を一気に詰め、先頭のリザードマンに膝蹴りを叩き込む!
「お膝など差し上げますわ。どうぞご遠慮なさらずに!」

 膝蹴りの勢いでリザードマンの集団の中央に飛び込むベアトリス。優雅に着地すると、ドラゴニュートに視線を向ける。

「何のつもりだ、女」
 ドラゴニュートが問う。

「まあ、お膝では足りませんでしたか? 欲張りさんでいらっしゃるのね。ならば」
 いち早く胡乱な乱入者に反応したリザードマンに叩き込まれる、後ろ回しピンヒール! 下あごをそぎ落とす! 

「ご満足いただけるまで」
 続いて大剣を振り上げた別のリザードマンの脚を、水面蹴りで払う! 

「いくらでも」
 回転の勢いを殺さず、立ち上がりざま横のリザードマンの顔面、回し蹴りを叩き込む! 

「ご進呈いたしますわ」
 立ち上がろうとしたリザードマンの頭を、ヒールで踏み抜く! 

「わたくし、吝嗇(りんしょく)家ではありませんもの」

 舞踏と見まがう華麗な動きと裏腹の、一撃必殺の破壊力。流れるように三体を屠ってみせた業前を目の当たりにして、リザードマンたちは気おされ、怖気づき、じわじわと後退する。

 ――ドラゴニュートは腕組みをしたまま一歩も動かず、冷ややかに彼女の舞いを眺めていた。

「何のつもりだ、女」
 ドラゴニュートは無表情のまま、再び問う。
「我々をこの地の王、偉大なる君主、”忌み野の竜”様の一党と知って仕掛けてきたのか?」

「ええ、もちろんですわ」
 ベアトリスは、にこやかに笑いながら告げる。
「わたくし、無作為に暴力を撒き散らす狂犬ではありませんもの。正しく目的あってのことですわ」

 ベアトリスは片手を目の前に上げると、手の甲を相手に向け、挑発的に手招きをした。
「そして目的はあなたです、竜人殿。何のつもりか知りたければ、力づくで吐かせてはいかが? 能(あた)うかどうかはあなた次第ですけれども」

「ふん」
 さほど面白くなさそうに、ドラゴニュートは鼻を鳴らした。組んでいた腕をほどくと、ベアトリスに向かって歩を進める。

 竜人が一歩踏み出すごとに、その体に力が、威力がみなぎるのが、目に見えてわかった。鱗に覆われた腕は古代の神殿の柱が如き剛健さを秘め、ベアトリスの腕と比べるとまるで大樹と苗木のようだ。

「フローレンス!」
 ベアトリスが叫ぶ。
「今からこの方と踊ります。残りのトカゲさん達、任せてもよろしくて?」

 それまで後方に控えていた物言わぬオートマタメイド、フローレンス。顔に備えられた六つの光点が、僅かな音と共に点滅する。

【チチチ】
 それは了解のサインか。リザードマンの群れに向かって踏み出した彼女の両手には、いつのまにか巨大な塊が握られていた。

 それは、巨大な槌(つち)であった。

 全長は人の背丈の倍ほど。鈍色に輝く金属で構成された長柄の持ち手。その片端に、重厚な立方体が、その威力を誇示するように据えられている。

 表面に施された浅浮彫は、精緻な文様の中心に、得物の無骨さにいささか似つかわしくない双子の女神――”光陰の女神の宗教”のシンボルだ――の横顔を描いていた。

 フローレンスはそれを、まるでホウキのように両手で大事に抱え持ち、小走りでリザードマンの軍団に駆け寄る。

「フローレンス」
 ベアトリスがドラゴニュートから目を離さず声を上げる。
「お掃除、お願いしますわね」

【チチチチ】
 フローレンスはぺこりと頭を下げると、リザードマンたちに向け、手に持つ槌を無造作に振り回し始めた。

 途端に、死の嵐が巻き起こる。

 先頭のリザードマンの上半身が爆ぜ、緑色の飛沫となった。次のリザードマンは左半身を削ぎ落とされた。次のリザードマンは受け止めた盾ごと潰され、血肉と金属の混合物となった。

【チチチチチ】
 微かな音とともに顔の光点を明滅させながら、フローレンスは「掃除」を遂行する。リザードマンたちの濃緑色の血で、女神の横顔が瞬く間に染まっていく。メイドの姿をした屠殺装置は無心に、着実に、主人の命令を実行し続ける。

 その凄惨な光景を目にし、ドラゴニュートもさすがに僅かな瞬間、意識を奪われた――その隙を見逃すベアトリスではない。

 次の瞬間、ドラゴニュートがベアトリスに意識を戻したときには、彼女はすでに間合いに踏み込んでいた。大地からベアトリスの足が跳ね上がる。十分に加速の乗った左回し蹴りが、ドラゴニュートの胴を狙う。

 かろうじてガード――したと思ったその眼前で、ベアトリスの足が奇怪な軌跡を描く。瞬間、ドラゴニュートの右側頭部を衝撃が襲った。

 変幻自在に変化する蹴り足で相手に打撃を叩き込む、薫風(クン・フー)が技巧の一つ、「燕(つばくろ)」である。

 したたかな打撃が入ったかに見えた。しかしドラゴニュートは、「ぬ」と僅かな声を上げるのみ。ベアトリスの攻撃を意に介さず反撃に移る。

 空間を切り裂くが如く繰り出される左右の拳。ベアトリスは姿勢を低くしてそれらをくぐり抜けると、更に一歩、至近距離、ドラゴニュートの鼻先まで踏み込む。危険な距離。だがベアトリスは意に介さない。

 踏み込んだ足に力を込める。踏みしめた大地から足へ、足から腰へ、腰から上体へ、上体から腕へ、腕からドラゴニュートの胴体に添えた両の掌へ、必殺の威力が伝わる。

 双掌打、「獅子吼(ししく)」。死の衝撃がドラゴニュートに叩き込まれる。並の相手ならば耐えられるはずのない一撃。

 しかしドラゴニュートはこれにも耐え、丸太のような脚で前蹴りを放った。今度はベアトリスがガードする番だ。交差させた両腕で蹴りを受け止める。響く轟音。蹴りの威力を物語る。そのまま両者は程よい距離に離れた。仕切り直しだ。

 一連の攻防をテーブルに座ったまま眺めながら、ヘリヤは驚嘆の念を抱かずにはいられなかった。竜の力を受けたドラゴニュートと、素手で渡り合える人間がいるとは……。

『魔術師殿、紅茶を楽しまれてからで構いませんが』
 そんなヘリヤに、アルフレッドが紅茶を注ぎつつ声を掛ける。
『お嬢様やフローレンスをお手伝いいただくことはできますか』
 のんきすぎないか。

 ヘリヤは気を取り直して答えた。
「できなくはないが、無意味だろうな」
『無意味とは?』
 アルフレッドが問い直す。

 衝撃音が響く。ベアトリスの蹴りとドラゴニュートの拳がぶつかりあう。そのまま至近距離での攻防へと雪崩れ込む。威力を込めた拳が、致死の蹴りが打ち込まれ、それらを紙一重にて躱(かわ)し、鉄壁の受けにて留める。

 速度ではベアトリスが上回るか。目にも留まらぬ連撃がドラゴニュートに撃ち込まれる。だが竜人の強靭さ、そして全身を覆う竜の鱗に阻まれるのか、ベアトリスの攻撃が効果を上げているようには見えなかった。
 再び間合いを取る両者。

 ドラゴニュートの口元が、嘲けるように歪む。
 ベアトリスが軽く息を吸い、息を吐く。

「……そもそも私は、いわゆる攻撃魔法というものを使えないし、使おうとも思わない」
『なんと』
 情感のこもらぬ口調でアルフレッドが言う。『驚きました』

「偏見だな。魔術師といえば火炎、氷雪、電撃、とでも思っているのだろう? だが、魔術とは本来、世界に秘められた真理を解き明かす、高尚な学問、知的営みなのだ。<火焔球(ファイア・ボール)>だの<雷嵐(サンダー・ストーム)>だのは、その副産物に過ぎない。よって私はその必要を認めない」

『なるほど、しかしそれでよくこの”忌み野”で生き延びてこられましたな』
 その言葉を聞いて、ヘリヤは改めて周囲の風景を見回した。乾いた土と岩、そして捻じくれた木々のみが目に入る。命の気配すら感じさせぬ人外魔境、”忌み野”。

「……確かに、厳しい二週間だった。できれば二度と訪れたくない場所だな」

 衝撃音が響く。再度の攻防。ヘリヤの目には、先ほどと何も変わらないようにしか映らない。

 だが、ドラゴニュートは奇妙な感覚を覚える。先程の攻防と、何かが異なる、何が――意識が違和感に染まったほんの一瞬、ドラゴニュートを再び「燕(つばくろ)」が襲う。

 頭部を狙うがごとく振り上げられた左足は、瞬時のガードを嘲笑うようにその軌道を変え、竜人の左膝に叩き込まれた。

 その膝が、爆ぜた。

 ドラゴニュートが驚愕に目を見開く。

 否、爆ぜてなどいない。主より賜りし我が竜鱗は、小娘の猪口才な一撃を間違いなく受け止めてみせた。

 爆ぜたのは、「内側」だ。

 竜鱗は確かにその役割を全うしていた。傷一つ、ついてなどいない。しかしそれを貫く衝撃が、竜人の膝の内部に至り、その肉を、骨を、腱を、喰い千切ったのだ。

 ドラゴニュートが膝から崩れ落ちる。
 ベアトリスが静かに息を吸い、息を吐く。

『そんな場所に、なぜいらしたのです?』
 ヘリヤはそれを聞くと自嘲気味に笑い、アルフレッドに顔を向けた。

 衝撃音が響く。二度目の「獅子吼(ししく)」。先刻同様、双掌打が竜人に叩き込まれる。違うのはその後だ。

 ドラゴニュートの口が苦痛に歪み、その端から血のあぶくが吹き出す。そのまま地面に膝を、続けて両手を着いた。片肺を始め、幾つかの臓器が体内で挽肉と成り果てたのだ。

 ベアトリスは竜人から間合いを取り、残心する。
 静かに息を吸い、息を吐く。

「まあ、色々あるのさ。しがらみ、面子、そういった下らないものがな。個人的にはそんなもの放り捨てて、魔術の研鑽に身を捧げたいものだが、そうもいかないのだ」

 ドラゴニュートの脳内では、混乱と驚愕と屈辱が三拍子のリズムで踊り狂っていた。彼が見上げる対象は唯一つ、偉大なる主君、”忌み野の竜”のみ。
それがこんな、人間の、小娘ごときの足元に、跪(ひざまず)かされている! 跪かされているぞ! 一体、一体何をされたのだ!?

 ベアトリスの体が、柔らかな金色の光をまとい始めた。
 静かに息を吸い、息を吐く。

 光は呼吸に合わせて揺らぎつつ、その輝きを増していく。
 静かに息を吸い、息を吐く。

 輝きはさらに増し、ドラゴニュートの苦々しい表情を照らす。
 静かに息を吸い、息を吐く。

 暖かさすら感じる光の中、ドラゴニュートの目に入ったものは、自分を見下ろすベアトリスの嘲笑であった。

 ドラゴニュートの混乱が決意に、驚愕が怒りに、屈辱が殺意に反転した。

 ひときわ激しい衝撃音が響く。慌ててそちらに顔を向けたヘリヤの目に飛び込んできたのは、強烈な竜尾の一撃を喰らい、こちらに吹き飛ばされてきたベアトリスの姿であった。

「だ……大丈夫か!?」
「平気ですわ、魔術師殿。少々油断しましたけれども」

 言いつつ、ベアトリスはドラゴニュートから視線を外さない。視線の先のドラゴニュートは、肩で息をしながら徐々に姿を変えつつあった。

 腕が、脚が、体躯全般が膨張し、力をみなぎらせていく。頭部に双角が生える。みりみりと音を立てて顔の前方に伸びていく口には、獣の如き乱杭歯が二重に並ぶ。

 人の背丈を三、四倍ほど重ねた巨躯が、圧倒的な存在感を放つ。蠢く尾が、鞭のごとく叩きつけられ大地を揺らす。

 咆哮を一つ。”忌み野”の大気が、詠(うた)うように震える。それはこの地に相応しき姿を取り戻した物への讃歌か。

 竜。ドラゴニュートが、その真の姿を表したのだ。

 ヘリヤは驚愕のあまり、持っていたティーカップを落としてしまった。

「……恐るべき女よ」
 竜が、歪んだ歯をぎしりと軋ませながら唸る。
「まさか、我が主の御前以外でこの姿をさらすことになろうとは」

 熱い息を吐きだす。竜の口内、軋む歯列の向こう側に、凄まじい熱量が溜まっていく。竜の咆哮、ドラゴン・ブレスの予兆だ。

「なれど、強者には相応の態度を示すべし。敬意を込めた我が咆哮にて、灰も残らぬほどに焼き尽くしてくれよう」

「あら、お褒めいただいているのでしょうか? お言葉、ありがたく頂戴いたしますわ」
 ベアトリスはさほど嬉しそうでもない口調で答えた。

「のんきなことを言っている場合か! ブレスが来るぞ!」
 ヘリヤがたまらず叫ぶ。魔術師の背中を、冷たい汗が流れる。

「ご心配なさらずに、魔術師殿」
 ベアトリスがヘリヤの方を振り向く。勝ち気な笑み。アイス・ブルーの瞳が、眩い黄金(きん)色に染まっていく。

「私に竜殺しが能(あた)うこと、間違いなく証明いたしますわ――アルフレッド!」
『はい、お嬢様』
 アルフレッドがベアトリスに歩み寄リながら答える。

「舞闘会(おでかけ)の支度はよろしくて?」
『無論です』
「ならば」

 ベアトリスが、アルフレッドに手を差し出す。アルフレッドが、主人の手を恭しく取る。

「エスコートを!」
『With Pleasure, My Lady』

 アルフレッドの服が、ベアトリスの眼前で閃光(ひかり)と共に弾け飛ぶ。中に潜んでいたのは、それまでの紳士的な装いからは想像もつかぬ、無骨極まるシルエット。鈍色の金属で構成された全身鎧(フルプレート・アーマー)。その全身を、黄金色のラインが奔っていく。

 アルフレッドの腕が、足が、胴体が、腰部が、頭部が、空気を裂いてバラバラに弾け飛んだ。

 彼の主人の周りを護るように旋回するアルフレッドの腕、足、胴、そして頭。天文学者であれば、そこに星々の営みを見るか。

 主星たるベアトリスは、迎え入れるように両手を広げる。四分の三拍子、ワルツのリズムで体を回転させる。

 そのしなやかな腕に、アルフレッドの腕が装われる。力が満ちる。
 その艶めく足に、アルフレッドの足が装われる。覇気が満ちる。
 その胸に、腰に、全身にアルフレッドが装われていく。彼女の体の線に合わせ、タイトに締め上げる。ベアトリスから、微かな吐息が溢れる。

 眼前で繰り広げられている、崇高な儀式めいたなにか。見つめるヘリヤの心には何時の間にか、崇敬に近い感情が生まれていた。

 アルフレッドの頭部が主人のもとへ飛ぶ。その表情なき顔が、左右に分かれて開いた。ベアトリスは両手でそれを柔らかく受け止めると、何かに捧げる祈りのように天高く掲げ、自らの頭にまとった。

『全魔導回路を、内功増幅回路に切り替えます』
 アルフレッドの頭――今は、主人を守る頭部装甲だ――が、ベアトリスの耳元で声を響かせる。

『各部接続状態、全て良好。お嬢様、着心地はいかがでしょうか』
 ベアトリスは、黄金色の瞳を煌めかせながら答える。
「パーフェクトよ、アルフレッド」
『恐悦至極。ならば』
「ええ」

 ベアトリスは、両の拳を胸の前で打ち付けた。響く轟音。同時に、彼女の顔、下半分がスライドしてきた装甲で覆われる。

「後は我らが敵を打ち滅ぼすのみ、ですわ」

 ベアトリスが構えを取る。半身を引き、両足を前後に開くと、軽く腰を落とす。左腕を敵に――竜に向け、まっすぐに伸ばす。右腕を、強弓を引き絞るがごとく、後ろに引く。

 息を吸い、息を吐く。
 息を吸い、息を吐く。

 彼女の呼吸に合わせ、彼女のまとう装甲が、全身が、脈動するかのように金色の光を放つ。威力が、蓄積されていく。

 誰知ろう、それは内功の輝き。<遥けき東(ファー・イースト)>に神代の昔より伝わる、神秘の光。内息を全身に巡らすことで増幅せしめ、その威を持って天地(あめつち)を動かし、悪鬼羅刹を討つ、或いは悪鬼羅刹と成るための力。山を砕き、海を割り、空を裂くことすら能う、至天の技術。 

 ――故に、装甲越しに勁を撃ち込み、その内部から破壊せしめるなど、内功の使い手にとっては児戯でしかない。

 魔術とは明らかに違う圧倒的な力の現れ、その神々しき光。ヘリヤの抱く崇敬の念が、確固たるものに変わっていく。ブレスの恐怖すら忘れさせるほどに。

 反して竜は、微かに瞳を揺らがせるのみ。あの威容、如何ほどの威力を秘めるのか。なれど、もう遅い。こちらとて、必滅の閃光、敵を塵一つ残さず消滅させるには十分!

 光が、奔った。

 暴力的な熱量を伴い、ベアトリスに襲いかかるドラゴン・ブレス。光の洪水が、一帯を白く染め上げる。

 ――勝利を確信した竜はそのとき、届くはずの無い冷笑を、確かに耳にした。

 ベアトリスが、両の足を踏みしめる。全身にまとう装甲が、ブレスに劣らぬ光を放つ。踏みしめた足を捻り込む。捻りは黄金色の光を伴い、腰部に伝わり、肩に伝わり、前腕に伝わり、拳に伝わっていく。

 これぞ<遥けき東(ファー・イースト)>より伝わりし薫風(クン・フー)が極意。踏み締めし大地より伝わる威力は内功を得て一迅の光る風となり、風は巻き、旋(つむじ)となり、嵐となり、颶風と成る。

 暴虐の風が、ベアトリスの拳から放たれた。
 薫風奥義、獲麟(かくりん)。

 ――竜が最期に目にしたものは、ブレスを真っ二つに裂きながら飛来する、巨大な黄金の回転拳であった。

◇ ◇ ◇ ◇

「……やりすぎましたわ」
『やりすぎましたな』

 戦闘態勢を解き、元のドレス姿に戻ったベアトリスと、再び人型に組み上がり、元の執事服を閃光とともに身にまとったアルフレッドは、ほぼ同時につぶやいた。

 彼らの眼前に横たわるのは竜だったモノ――彼女らの技によって首から上を吹き飛ばされた、その残骸である。

「程々に痛めつけた後で、”忌み野の竜”の居場所をお聞きするつもりでしたのに」

 軽く腕組みをしながらそう呟くベアトリスの元へ、「掃除」を終え、全身返り血まみれになったフローレンスが歩み寄ってきた。

【チチチチ】
 顔の光点を規則正しく光らせながら、ベアトリスに話し?かける。
「ああ、大丈夫よフローレンス。言うほど落ち込んではいませんもの」
 ベアトリスは、両の手のひらを胸の前で軽く打ち鳴らした。

「次に期待しましょう。それよりも、流石に疲れましたわ。アルフレッド、美味しい紅茶を一杯いただけるかしら」
『喜んで』

 テキパキとお茶の準備を始めるアルフレッドに軽く微笑みを投げると、ベアトリスはヘリヤに顔を向けた。
「さて、魔術師殿。ご感想をいただけますか」

「見事なものだ。竜殺しの技、確かに見届けた」
 ヘリヤは素直に賞賛の言葉を口にする。

「ありがとうございます。真っ直ぐなお褒めの言葉」
ベアトリスは両手を頬に当てた。
「少し照れてしまいますわ」

「他者を素直に評価できぬものに進歩はない…アカデミーの教えだ」
 ヘリヤは一瞬視線をそらす。わずかな間の後、再びベアトリスに向けられた瞳には、ある種の決意のようなものが宿っていた。

「”忌み野の竜”を、狩る、か」
「ええ、打ち倒して、平伏させて、最後に足で踏んで差し上げますわ」
 踏むのか。

「その、竜の眠る場所は、わかるのか」
「わかりません」
 ずいぶんあっさり答えたな。

「先程の竜人殿にお尋ねできればよかったのですが、生憎と首から上が吹っ飛んでしまいましたの」

 吹っ飛ばしたの間違いだろう、そう言いたくなる気持ちを抑えながら、ヘリヤは再び問いかける。

「ではどうするのだ」
「繰り返します」
「繰り返す?」
「ええ、話によると、”忌み野の竜”が従えるドラゴニュートは、先程の一体だけではないとのこと」

 あんなものが、まだ何体かいるのか。ヘリヤの背筋を冷たい汗が流れる。やはり――

「ですので、片っ端から喧嘩をお売りします」
「は?」

「先程のドラゴニュート、竜の姿を現した挙げ句、首から上が吹っ飛んでしまいましたでしょう?」
 吹っ飛ばした、だろう。

「大きな魔力の発動と、唐突な消失。それを異変と感じないほど、彼のお仲間が鈍いとは思いません」
「異変を確かめに、ここにまた新たなドラゴニュート共がやってくる、と」

「ええ、そうしたら次こそは、死なない程度にうまく痛めつけたうえで、”忌み野の竜”の居場所を聞き出してみせますわ」
 言いながら両手を広げ、軽くターンするベアトリス。
「いい作戦でしょう?」

 物騒な話を、茶菓子の話題のように軽やかに語るものだ。思えば最初に出会ったとき、リザードマン共を蹴り殺していたときから、その「作戦」とやらは始まっていたのだろう。しかし大雑把で迂遠な手段だ。うまくいく保証もない……そこにつけ入る隙がある。

「その、”忌み野の竜”の眠る場所、掴んでいると言ったら?」
「……それは本当ですか?」
 よし、食いついたか。

 彼女と出会って、初めて自分が有利な立場に立てた手応えを感じつつ、ヘリヤは話を続ける。

「ああ、間違いなく掴んでいる。それで」
「条件は何ですの?」
「え、あ」
「その情報をご提供いただく見返りに、なにか提供しろとおっしゃるのでしょう?」
「あ、ああ」

 有利な立場が、端のほうから早速崩れつつあるようだ。いや、まだだ。彼女からしてもこれは、喉から手が出るほど欲しい情報のはずだ。

「単純なことだ。”忌み野の竜”のところまで、同行させてほしいのだ」

 聞いたベアトリスは小首をかしげる。

「まあ、なぜそんなことを……ああ、なるほど」
 左の手のひらに右の拳を打ち付ける。ぽん、と間の抜けた音が響いた。

「つまりわたくし達を、護衛にしたい、ということですか」
「……察しが早いな」

「”忌み野の竜”のところには何としても赴きたい。しかし、竜を護る手下どもを駆逐する手段を持たない。そこへ都合よく、”忌み野の竜”の眠る場所を探すわたくし達がやってきた。ならば自分の持っている情報を餌に同行を申し出て、道中の障害を全て排除させれば良い、ということですわね?」

 察しすぎだ。

 しかし全くもってそのとおりであったので、ヘリヤは何も言えずに黙る他なかった。交換条件として、成立しているだろうか。有利な立場が、音を立てて崩れ始めたのを感じる。

 だが――ヘリヤは弱気な考えを、首を振って振り払う。代わりに脳裏に浮かんできたのは、自分を嘲笑う、いくつもの影。吐き捨てるように誓った言葉。ここで引くわけには、いかない。

「たしかに私は、敵を暴力的に排除する手段は持たないし、持とうとも思わない。だが、自分で言うのもおこがましいが、わたしはアカデミーでは百年に一人の天才と呼ばれた男なのだ。その私の魔術が役に立つ局面も、きっとあるはずだ……頼む」
「わかりましたわ」
「ふえっ?」

 思わず口から漏れた妙な音が自分の発したものだと気づいたヘリヤは、慌てて口元を手で抑える。

「たしかにおっしゃるとおり、魔術師殿のお力をお借りする場面が出てくるかもしれません」
 ベアトリスは、すっと右腕を前に出した。その中指には、彼女の瞳と同じアイス・ブルーに輝く石をはめ込んだ指輪がはめられていた。

「ご一緒させていただきますわ。どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ、あ、ありがとう」
「……」
「ん? な、なんだ」

 右手を差し出したまま、ベアトリスは軽く苦笑する。

「ご存じないのですね。王都では、男性が女性の指輪に口づけをすることで、信頼の意を表すものなのですよ」
「口づけ!?」声が軽く裏返る。

「指輪にですから、そう緊張なさらなくても」
「き、緊張などしていない、いないぞ。そうか、そうだったな。アカデミーに長いこといると、そういう機会から遠ざかってしまうのでな。つい忘れてしまっていたんだ」

 妙な早口でそれだけ言うと、ヘリヤはベアトリスの右手を恐る恐る取り、不器用に口づけした。指輪の石が一瞬、不思議な光を放つように見えた。

「ありがとうございます、それでは」
 ベアトリスはすっと後ろに下がると、
「ベアトリス・スカーホワイトと申します。ヘリヤード様、改めて道中どうか宜しくお願いいたしますわ」
 スカートを両手でつまみ、優雅極まるお辞儀をしてみせた。

「ああ、こちらこそ宜しく」
 一瞬、彼女に見とれてしまっていたことをごまかすように、あらぬ方向を見つつヘリヤも応じてみせたのだった。

 ヘリヤが、自分の真の名である「ヘリヤード」を教えてなどいなかったことに気づくのは、もう少し立ってからのことである。

第1話 「踏んで差し上げますわ」 完  第2話へ続く

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ