白アメ表紙Ep02__2_

【一気読み版】白磁のアイアンメイデン 第2話 #白アメ

こちらは拙作「白磁のアイアンメイデン」第2話のおまとめ版です。未読の方は是非どうぞ。第2話は約18,000字です。

第1話> <目次

 王都より南西の彼方、大河を越えた先に広がる不毛の大地、ラシュ平原。知る人はありったけの嫌悪を込めて、そこを”忌み野”と呼ぶ。

 呼び名の由来を知りたければ、一歩足を踏み入れてみれば良い。穢れ乾いた大地、虚空に捻れた枝を伸ばす木々、闊歩する魔の眷属。

 空だけは青々と広がっているが、その青さすらこの地では不吉の象徴のように感じられてしまう。好き好んで訪(おとな)う者などあろうものか。もしあれば、異論無く真っ当な事情の持ち主ではないだろう。

 そんな”忌み野”を、二頭の荒馬――実際には、馬型のオートマタである――に牽かれた四輪馬車が疾走していた。

 帝都を巡回する十人乗りの乗合馬車ほどの大きさ。箱型の車体はいかなる材質なのか、白く輝く金属にて構成されている。側面の下半分を金色と蒼の文様が豪奢に飾り、その上に大きな飾り窓がせり出していた。

 帝都の、かつ比較的裕福な者たちが愛用するような代物であった。なればこそ、この”忌み野”では不自然極まりない。そんな馬車の中に設えられたテーブルセットに腰を掛け、魔術師へリヤは何杯目かの紅茶を口にしていた。

「こんなもの、どこに隠してあったのだ」

 窓の外、後方に流れていく”忌み野”を眺めつつ、ヘリヤはつぶやく。この速度にしては揺れを感じないのは、なんでも車輪に衝撃を吸収する特殊な機構が施されているからだそうだ。手に持つ紅茶もほとんど波立たない。

「こんなもの、とは」

 答えたのは、この馬車の主にしてヘリヤの同行者である若き女性。名を、ベアトリス・スカーホワイトという。

「決まっているだろう、この馬車のことだ」

 呆れたような口調で応じながら、ヘリヤは馬車の内装を見回した。簡易ながら、決して質素ではない寝台。ドレッサーらしき、人の背丈ほどもある戸棚。御者とやり取りをするための伝声管。そして紅茶用のテーブル。

 決して広くはない馬車の中に、使用者の圧迫感を極力まで廃するよう計算された絶妙な配置。細かい調度品は、見るものが見れば施された細工の見事さに嘆息するだろうという代物。馬車の主の趣味と品性の良さをさりげなく主張していた。

 そのあたりに疎いヘリヤには、「よくわからないが、値が張るものなのだろう」くらいの感想しか湧いてこなかったが。

「素敵な馬車でしょう? お気に入りですのよ」
ベアトリスは軽い微笑みを投げながら、そばに控えるオートマタのメイド、フローレンスに紅茶のおかわりを命じる。

 ヘリヤは軽く首を左右に振りながら、先刻のことを思い出す。

 同行の話がまとまり、ヘリヤが地図上のある一点を”忌み野の竜”の眠る場所――それは、今の位置からさらに南東、ハンク王国と隣国ジグランの国境にほど近い場所、その国境にそびえ立つバナニル山脈の麓であった――として示したとき、ベアトリスが口にしたのは「歩くには遠いですわね」の一言であった。

 ピクニックの行き先を決めているような言い様に、ヘリヤは軽く頭を抱えたが、「では、馬車を用意いたします」とアルフレッド、オートマタの執事が言い出したときには、自分の耳に思わず『幻術破り』を掛けてしまった。反応は無論なかった。

 だがむしろ、『幻術破り』を唱えるべきは、その後だったのだろう。

 アルフレッドが、どこからか口笛のような甲高い音を発した。音が”忌み野”に響き渡った後、地平線の彼方、荒れ果てた荒野の奥より響き渡る蹄の音が一行に迫ってきた。

 聞くものを威圧する重苦しいリズムを奏でるそれが、二頭の馬型オートマタに牽かれた四輪馬車であると認識し驚愕したヘリヤの顔は、ベアトリスによると「人の顔があれほどまでに変形するとは、寡聞にして知りませんでしたわ」というものだったそうだ。

 そして今、その馬車に乗り込んで、馬車の主と共にこうして紅茶を嗜んでいる。この速さならば、目的地にたどり着くのは半日ほど後、もう日も沈む頃か。

 それにしても、向かうはこの地の王、恐るべき”忌み野の竜”が長き眠りを貪る場所だというのに、ずいぶんとのんきなものだ。ましてや、彼女らがやろうとしていることは、その”忌み野の竜”を叩き起こして、「打ち倒して、平伏させて、足で踏んで」やることらしいのに。

 などと、とりとめもない思いに耽るヘリヤに、ベアトリスは笑って言う。
「隠し場所など、どこにでもあるものです。魅力的なレディーには、秘密がつきものですのよ。例えばこんな風に」

 言いながら彼女は自分の胸元、ドレスで豊かに強調されている胸の谷間に指を突っ込んだ。

 ヘリヤは飲んでいた紅茶を吹き出しつつ、真っ赤な顔で視線を逸らす。
「な、なにを、なにをやって、いるんだ!」

 それには答えず、しばらくゴソゴソと胸元を探っていたベアトリスが取り出したものは、棒状の物体であった。

 長さは人の手のひらほど、形は何かの鍵のようにも見える。馬車の外装に似た白い光を放ち、何かの紋様らしきものと、古代文字が刻まれていた。

 ヘリヤの知識は、その文字が意味するところをすぐに理解させる。曰く、『全てに抗う白き暴虐の女神、斯界の裏側にて汝を待つ』

「なんだ、それは」
「これは、切り札ですわ」
 言いながらベアトリスは再びそれを元の場所に戻す。ヘリヤも再び顔を赤くして目を逸らす。

「できれば使いたくないのですが、なにせ相手は”忌み野の竜”。恐るべき相手です。万全の備えが必要でしょう」

 その言葉は、ヘリヤを少々驚かせた。

「随分と謙虚な物言いだな。踏んでやるのではなかったのか」
「ええ必ず、必ず踏んでさし上げます」
 そこまでの決意か。

「ですが、それと相手を過小評価することはまた別ですわ。<遥けき東(ファー・イースト)>の戦名人の言行をまとめたという書の一節に、こういうものがあります。『敵と己の双方に関して十分な知識をもち、彼我の戦力を客観的に見ることができれば、たとえ百回戦おうとも一度たりとも負けはない』と」

 ベアトリスは二本の指を立てる。
「実際に彼は、二千の寡兵で十倍以上の敵を打ち倒したそうですわ。そういう方の警句には、聞くべきものが多々あると思っておりますの」

 ヘリヤが何かを言いかけたその時、馬車が突如大きく加速した。今までは殆ど感じなかった揺れが、嵐の中の小舟のように激しくなる。馬車内の空気が一変する。ヘリヤが飲んでいた紅茶をこぼす。

『お嬢様』
 伝声管よりアルフレッド――今は御者としてこの馬車の手綱を取っている――の淡々とした声が響く。
『追手です。二十騎、いや三十騎。更に増えています』

 ヘリヤは慌てて立ち上がると、床にこぼれた紅茶を拭くフローレンスを横目に見ながら、馬車の側面の窓を開け、顔を出した。吹き付ける”忌み野”の昏き風。

 そこには、息を呑む光景が広がりつつあった。

 一見したそれは、うねるように迫る漆黒の怒涛であった。だが、荒れ地に波濤が迫りくることなどあろうか。無論、否である。

 目を凝らす。波を構成するそれらは、黒き魔獣。そして魔獣を駆るリザードマン。農夫の飼う豚に似たその獣は、黒い硬質の毛皮と暗緑色に濁る瞳を持つ、「黒獣(ブラック・サバス)」なる生物だ。

 黒獣は妖しく光る眼光の筋を空中に残しながら、馬車めがけて駆けに駆ける。それにまたがるリザードマンは、先程の連中よりは軽装。なれど、手に手に槍めいた得物を持っていた。

 ヘリヤがそれに気づいた瞬間、先頭のリザードマンが、その槍を高く掲げた。持ち手に満ちる膂力。そのまま馬車めがけて投擲する!

 ヘリヤは慌てて顔を馬車の中に引っ込める。大気を裂き、先程までヘリヤの顔があった地点を通過する投槍。その一投を合図に、リザードマン達が一斉に手に持つ得物を投げ放った。

 幾つかは目標を外れ、幾つかは馬車の後方に突き刺さる。槍の穂先から返しが飛び出し、馬車の外壁に食い込んだ。見れば、その槍には強靭な綱が結ばれており、それらはリザードマン達の手にしっかりと握られていた。

 リザードマンが一斉に綱を引く。思わぬ後方への引力に、轍(わだち)が蛇のように揺らぎだす。

「まずいんじゃないのか!?」
 床に尻餅をついたまま、ヘリヤが叫ぶ。

「アルフレッド!」
 それには答えず、ベアトリスは御者席のアルフレッドに、伝声管を通じて話しかける。

「いかがかしら?」
『問題はありません。このまま引きずって行っても構いませんが』
相も変わらず淡々とした声でアルフレッドが答えを返す。

『あまり気分のいいものではありませんな。それに』
「それに?」
『おそらくこの一党を率いているのは新たなドラゴニュートでしょうが、それらしき反応がありません。おそらく今の攻撃は囮。本命は何処かに潜む彼奴が直接乗り込んでくることではないでしょうか』

 ベアトリスはそれを聞いて瞳を閉じ、ほんの一瞬思考を走らせる。再び目を見開いたそのとき、彼女の瞳には為すべきことへの意志が宿っていた。

「フローレンス! お供なさい」
【チチチチチ】

 床を拭いていたメイドが、主人の命により立ち上がる。目鼻の代わりに顔に並ぶ六つの光点が、目まぐるしく明滅する。

「何処へ行くんだ!」
 叫んだヘリヤを一瞥し、ベアトリスは答えた。

「不調法なお客人をもてなしに参りますわ。無論、相応しき礼法で」

◇ ◇ ◇ ◇

 馬車内の壁に備え付けられたはしごを伝い、天井の開き戸から外に出る主従。顔を出した途端に吹き付ける突風。怯まず、彼女たちは馬車の屋根に立ちあがる。

 ドレスの裾を風になびかせ、片手を腰に当てながらベアトリスはたたずむ。彼女を迎えたのは、数十の視線。そして下卑た嬌声、怖気を呼ぶ魔獣の咆哮。

 獲物を狩らんと息巻く魔獣と蜥蜴人間たちの、殺意の圧力が彼女らに迫る。常人ならばその場にいるだけで精神の核を壊されかねないキリング・フィールド。

 だが、ベアトリスは怯まない。

「フローレンス」
 敵を冷たく睨めつけながら、彼女は優しげに語りかけた。

「トカゲさんたちはお任せしますわ。どうぞよしなに」
【チチチ】

 ベアトリスは僅かに後方へ下る。代わりに前に出たフローレンスは、やおらかがむと、屋根についていた持ち手を握り、一気に捻った。

 仕掛けが稼働する音。屋根の一部が開く。開口部からせり上がってきたものは、機械仕掛けの極大射撃機構――バリスタ。

 バリスタの上部に、細長い直方体の塊をセットする。がちりという音と同時に、長大な矢が装填された。

 フローレンスはバリスタの強力な弦を軽々しく引き絞り、先頭を疾走るリザードマンに狙いを定める。

【チチチ】
 顔の光点の明滅と同時に矢を、放つ! 狙われたリザードマンと、その後ろを駆けていた別の一騎がまとめて貫かれる。ガチりと音を立て、直方体から次の矢がひとりでに装填される。

 引き絞る、狙う、放つ。
 左後方のリザードマンが魔獣ともども矢を受け吹き飛ぶ。

 再び次の矢が装填される。引き絞る、狙う、放つ。
 右後方、綱を握るリザードマンの頭が肉片と化した。

 引き絞る、狙う、放つ。
 引き絞る、狙う、放つ。
 引き絞る、狙う、放つ。
 引き絞る、狙う、放つ。
 引き絞る、狙う、放つ。
 引き絞る、狙う、放つ。

 機械仕掛けの正確さで放たれた矢は、一射ごとに血肉の華を咲かせながら、一片の慈悲無く亜人の騎兵達を駆逐していく。

 波濤と見紛うかの如きだった追跡者の一群は、いつしかその数を当初の半数にまで減らしていた。

 馬車の中からその様子を見たヘリヤの心に安堵の余裕が生じた瞬間。

 遥か後方より、それは飛来した。

 真っ先に反応したベアトリスが、フローレンスを抱いて横っ飛びに屋根の上に伏せる。その僅かに上を通過した物体が、バリスタを一撃で粉砕した。

 馬車を揺らす衝撃と轟音。ベアトリスは飛来したものを目にする。

 それは錨(いかり)であった。否、おそらくは先程リザードマンらが使っていた投槍と同じ類のものだ。だが大きさがその比ではない。

 錨もどきの備えた鈎(かぎ)はバリスタの残骸、その台座にしっかりと食い込む。結わえ付けられた鋼の鎖が、みしりと音を立て真っ直ぐに張られた。馬車の速度が目に見えて落ちていく。リザードマン達ががじわじわと迫る。

 ベアトリスは張られた鎖の向こう、群れの遥か後方に目を凝らした。後方、砂塵を巻く黒い点。

 否、点にしか見えなかったそれは、すぐにはっきりと姿が認識できる距離まで迫ってきた。

 その正体は、他を圧倒する巨大黒獣。瀑布のような足音を響かせ、馬車めがけて一直線に駆けてくる。そして、その黒獣にまたがる一糸まとわぬ巨躯。

 ドラゴニュート。”忌み野の竜”の力を受け、竜に絶対の忠誠を誓う恐るべき魔人。主に仇なす愚か者を誅すべく、姿を表したのだ。

「ようやくお越しですのね。それにしても」
 ベアトリスは独りごち、バリスタの残骸にちらりと目をやる。
「乱暴なノックだこと」

 先だって事を構えた個体よりも二回りほど大きな体を窮屈そうに縮こませ、大黒獣の背に乗るドラゴニュートの手には、錨もどきから伸びた鎖がしっかりと握られていた。

 ドラゴニュートは満身の力を込め、綱を引く。
「うおっ!?」
 ヘリヤが叫ぶ。四輪馬車の前輪が僅かな一瞬、宙に浮いたのだ。

 大きく速度を落とす馬車。騎乗リザードマンが二体、馬車のすぐ横まで追いついてくる。手にした投槍を構え、窓越しにヘリヤを狙う。目が合う。

 一瞬、息を呑んだヘリヤの目の前で、リザードマン達の上半身と下半身が切り飛ばされた。

 馬車の側面、飾り窓の下方より飛び出した長柄付きの丸鋸が、唸りを上げて薙ぎ払ったのだ。

『ふむ』
 御者台に備え付けられた何らかのツマミを操作しながら、アルフレッドが呟く。
『久しぶりに作動させましたが、うまく動きましたな。しかし血脂はしつこい汚れ。バリスタもですが、後の手入れに手間が掛かりそうです』

 馬車の左右から飛び出した殺戮装置は、長いアームを威嚇するように振り回す。近寄りがたく思ったか、騎乗リザードマン達の勢いが鈍る。その姿を目にし、不快げな表情を浮かべるドラゴニュート。

 その目が次に映したのは、両手を大きく広げ、不敵に立つベアトリスの姿であった。

 真紅のドレスがするりと体に巻き付き、体を締め付ける戦装束と成る。腰まで伸ばした髪が、一瞬で肩までの長さに縮む。

 ベアトリスは軽く息を吸い、息を吐くと、馬車上を一直線に駆け始めた。馬車とドラゴニュートを繋ぐ鎖、その上にひらり飛び乗ると、ベアトリスの勢いは加速した。目標はドラゴニュート、必殺の一撃を叩き込むべくベアトリスは鎖上を駆ける!

 ドラゴニュートは逡巡する。鎖を振り回すなどすれば、こちらに向かうあの女を振り落とすことは叶うだろう。しかしそれでは、馬車に掛けた鈎が外れ、彼奴らをむざむざ逃がすことにはなるまいか? どうすべきか、敵はもはや鎖の半ばまで駆けてきたぞ。

 思考を巡らすドラゴニュート。その背を、何者かが軽く叩く。ドラゴニュートは微かに笑みを浮かべると、膂力を込め、鎖をさらに強く引いた。

 馬車のスピードがさらに落ちる。ドラゴニュートが咆哮を上げた。聞く者の小心を砕くがごとく、”忌み野”の空気を震わす声。ベアトリスは歯牙にも掛けなかったが、リザードマン達の心胆を寒からしめるには充分であった。

 このまま手をこまねいていれば、彼らを待っているのは役立たずの烙印を受けた後の「処分」だ。ならば、と丸鋸を恐れていた一群が再び加速する。

「あらあら、張り切っていますわね。ですが」
 ベアトリスは勢いを緩めない。
「わたくしが一撃叩き込むのが先ですわね」

 そう口にした瞬間、空気を裂く音が響く。

 ベアトリスめがけて鋭利な刃が飛んできたのだ。すんでのところで上体をひねり躱す。しかしバランスを崩し鎖から足を踏み外す。

 落下寸前のベアトリスの目に入ったのは、ドラゴニュートの背の後ろ、その死角から伸びてきた異常な長さの腕、その腕が突き出す奇妙に歪んだ刃のナイフだった。

 ベアトリスの体がほぼ真横に倒れこむ。そのまま落下かと見えたそのとき、ベアトリスは鎖を蹴って真横に跳んだ。跳んだ先には黒獣に騎乗するリザードマンが一体。その顔面に蹴りを一撃。

 リザードマンはぐげ、という断末魔を残し吹き飛んだ。その反動で跳び、鎖に復帰する。

 着地したベアトリスの目の前、同じ鎖上に、ドラゴニュートの背中から飛び出した何者かが着地した。

 鱗状の肌、暗緑色の長い髪。縦に細い瞳孔は黄色く濁り、爬虫類を、竜を思わせる。ボロ布で隠れたその体は、女性らしい曲線を描いていた。

 それはもう一体の、新たなドラゴニュート。先程の刃を右手に構え、しいい、と蛇めいた呼気を吐く。

「まあ」
 ベアトリスが鎖上で構えをとった。
「女性もいらっしゃったのですね。意外には思いませんが」

 女ドラゴニュートを見据えながら、言葉を続ける。
「先程の一撃はあなたですわね。腕を自在に伸ばせる、といったところでしょうか?」

 ドラゴニュートは答えない。

「お答えいただけませんか――仕方ありませんわね」
 前に突き出した左手が、挑発的に手招きをする。

「不意打ちを見事かわされた気分はいかがかしら。もう一度恥をおかきになりたければ、構いませんからお続けになってみては?」

 女ドラゴニュートはやはり何も答えない。代わりに冷笑らしきものを浮かべると、ベアトリスめがけ鎖上を駆け出した。呼応するかのごとく、ベアトリスも駆け出す。

 間合いは至近。先手を取ったのは女ドラゴニュート。右手、逆手に持ち換えた短剣を横薙ぎに払う。体勢を低くして躱す、その頭上紙一重の空間を刃が切り裂いた。そのまま懐に入ろうとするベアトリスを、女ドラゴニュートの右膝が鋭く迎え撃つ。

 一瞬で躱せぬことを悟ったベアトリスは、膝が直撃する寸前ガードをねじ込む。衝撃。ベアトリスの体が後方に弾き飛ばされた。

 離れる間合い、仕切り直しかと思われた瞬間、再び腕を伸ばしての刺突が襲いくる。体を捻って躱すベアトリス。二度、三度、四度、遠距離からの刺突が襲い来る。捌き、躱し、捌く。

 鋼鉄の鎖、狭い足場の上、ヒールの踵から細やかな火花を散らしながら令嬢は舞う。五度目の刺突を躱したベアトリスは、再び敵の懐に潜り込まんと体を伏せた。伸ばした腕の戻りに合わせ爆ぜるように飛び出す。

 女竜人もいち早く反応、再び迎え撃つ毒針の如き膝。すわ先程の二の舞かと思われた刹那、ベアトリスの姿が女ドラゴニュートの視界から消えた。

「!?」
「上だ!」

 後方からの怒号に反応した女ドラゴニュートが上方に目を遣る。彼方まで抜けるような蒼空、白磁の肌と真紅の戦装束の淑女が映る。

 ベアトリスはそのまま全身を縦回転、勢いの付いた両足を上空から女ドラゴニュートの頭上に叩き込む! 薫風(クン・フー)が脚技、鳴鳥狩(ないとがり)。咄嗟に十字交差した腕で受ける竜人。その顔が耐えきれぬ苦悶に歪む。

 空気を切り裂くような声で叫んだ女ドラゴニュートは、膂力でベアトリスを弾き飛ばす。伸ばした腕を鞭のようにしならせ、その間合い外より斬撃を繰り出していく。

 手刀で弾き防ぐベアトリス。続けて二撃、三撃、四、五、六、七撃。

 次第に勢いを増す斬撃はもはや目で追うことなど敵わぬ速度に達し、迂闊に近づいたものを細切れの肉片に変える旋風と化す。空気が弾ける音が響く。腕の先端が、音の速さを超えているのだ。

 斬撃を両手で捌くベアトリス。だがもはや捌ききれぬのか、防御をかいくぐった斬撃が彼女の戦装束に届き始めた。

 無様に切り刻まれる獲物を想像したか、女ドラゴニュートの目に喜悦の色が浮かぶ。

 ベアトリスは嵐を捌きながら呼気を整える。軽く息を吸い、息を吐く。

◇ ◇ ◇ ◇

 主人の変化にいち早く気づいたのは、忠実なる執事アルフレッドであった。

『これはいけません』
 表情のない顔で――オートマタである彼の顔にはそもそも目鼻らしき凹凸が刻まれているだけなのだが――抑揚に欠ける声を発した。
『お嬢様が気を練っておられる』

 つまりは、並々ならぬ相手なのだろう。主人のもとに今すぐ駆けつけるべきか。だが、今の自分はこの馬車を駆る御者、その役目を放棄する訳にはいかない――そこまで演算を巡らすと、アルフレッドは伝声管に話しかけた。

『魔術師殿、聞こえますでしょうか?』
「聞こえて、いるぞ! なん、だ!?」

 伝声管を通じ馬車内に届いた声に、ヘリヤは口元を手で抑えつつ返した。激しい車体の振動に声が震える。その顔は僅かに青い。

 襲われている中での緊張感もさることながら、先程から高速で走る馬車、その中での急加速、急減速、左右への激しい揺れに翻弄され、神経の乱れ、平衡感覚の失調、異常な発汗、体温の上昇、急激な嘔吐感を抱いていたせいでもある。 

 有り体に言えば、馬車酔いだ。

『大変恐縮なのですが、お願いがございまして』
「どうし、たあっ!?」
 馬車が大きく跳ねた。

『――を握っていただきたいのです』
「なに!? よく聞こえ、なかったが」
『手綱を、握って、いただきたいのです』
「――は?」
 馬車が大きく跳ねた。

『私めは執事として、主を護る鎧として、お嬢様のそばに参らねばなりません』
「ちょ、ちょっと、おい待て」
『頼れるのはもはや貴方様しかいないのです。どうか、お願いできませんでしょうか』

 必死の形相で、ヘリヤは返事をした。
「メ、メイドでは、どうだ」
 馬車内に戻ってきたフローレンスを指さしながら叫ぶ。
「任せられないのか!?」

『戦術的に不適格です。彼女が手綱を握ってしまいますと、万が一の事態に対応できるものがいなくなります』
「万が一、とは」
『無論、この馬車内に敵の侵入を許した場合です』

 ヘリヤはしばし熟考する。馬車が大きく揺らいだ。車体の軋む音が響く。

 執事の言うとおりだ。奴の言う「万が一」、もし起きたら自分にはどうすることもできないだろう。主義を通すためとはいえ、攻撃魔法、ないしは防御魔法の一つでも習得しておかなかったこと、頑なにそれらを拒んでいたことを、ヘリヤは魔術に手を染めてから初めて悔やんだ。

 だが、いまさら遅い、この緊急事態、四の五の言っている暇など無さそうだ――致し方あるまい!

「手綱を握った、ことなど、無いぞ! 多くを期待するなよ!」
『構いません』

 前方の扉を開き、御者台へ赴く。前方より轟と吹き付ける風が、馬車の凄まじき速度を物語る。

 荒ぶる二頭のオートマタ馬が、決して小さくない車体、加えて鎖とドラゴニュートを引きずりながら力強く”忌み野”の大地を駆ける。その姿は頼もしさと同時に、己に御し得るのかという不安を掻き立てる。

 馬車酔いとは違う理由で、ヘリヤの胃から何かがこみ上げそうになる。

『さあ、どうぞ』
「あ、ああ」
 アルフレッドから手綱を渡されると、ヘリヤはぎこちなく御者席に腰を据えた。

『基本的には、手綱をしっかり握っていていただければ問題ありません。馬は忠実にどこまでも真っすぐ進みます。もし進路を変えたければ、手綱を左右どちらかにお引きください』
「わかった、やってみよう」

『ああ、そうでした。一つご忠告が』
「な、なんだ。早く言ってくれ」

『御者席の横に付いているツマミですが、できましたら無闇矢鱈に触られぬほうがよろしいかと。とくに一番右端のものは決してお触りにならないように』
「なぜだ、触るとどうなるんだ」
『それは自爆装置、でございます。触ると馬車が自爆します』

「――じばく?」
「自爆します」
 馬車が大きく跳ねる。

「なんでそんなものがあるんだ」
『はあ、私めには良くわかりませんが、なんでも』
「なんでも?」
『浪漫、だそうです』
 馬車が大きく跳ねる。

「……意味がわからん。先程の丸鋸といい、こいつの設計者は酔狂にすぎるんじゃないか。正直理解しがたい」
『同感にございます。ではよろしくお願いいたします』
「ああ、彼女の力になってやってくれ」

 その言葉に、アルフレッドは力強く首肯する。
『無論です、主の力になる、それこそが執事の執事たる証ですので』

◇ ◇ ◇ ◇

 馬車の屋根に登ったアルフレッドの視界に飛び込んできたものは、敵に近づけぬまま全身を切り刻まれ続けていた主の姿であった。

 真紅の戦装束は、見るも無残な姿と成り果てていた。主の戦装束は、確かに元は瀟洒なドレスの姿をしている。だが無論、それは帝都のご令嬢が夜な夜な着飾る類いのそれと同じでは無い。下手な金属よりも強靭で、それでいてしなやかさを備えた特製の品である。それをこうも傷つけるとは。

 しかし紙一重でかわし続けていたのであろう、ぼろ切れの隙間から覗く白い肌には傷一つ無いことを、アルフレッドは冷静に見て取る。

 そうは言っても打つ手を失ったのか、後方へ飛び退き距離を取るベアトリス。女ドラゴニュートはすぐに追わず、伸ばした右手を大袈裟に振り回す。己の勝ちを確信したか、侮るような仕草をよこす。

 ベアトリスは静かに息を吸い、息を吐く。その体を、微かな金色の光が優しく包み始めていた。その後ろに、静かにアルフレッドが立った。

「ああ、アルフレッド、来てくれましたのね」
『遅くなりまして申し訳ございません。お嬢様。ずいぶんと苦戦なさっている御様子で』

「そうですのよ。見てくださいなアルフレッド、お気に入りのドレスでしたのに」
 人差し指を頬に当て、小首をかしげるベアトリス。
「同じものを仕立てるのに、いったい幾らかかるのやら」
 言いながら両手を顔の前で叩く。ぽん、と間の抜けた音が響く。

「まあ、仕方ありません。負債は奴らに払わせましょう。しかるべき形で――アルフレッド、舞闘会(おでかけ)の支度はよろしくて?」
「無論です、お嬢様」
「ならば」

 ベアトリスは、どこまでも突き抜ける青い空の下、金色の瞳を輝かせながら高らかに告げた。

「光差す舞台まで、つつがなくエスコートを!」
『With Pleasure, My Lady』

 爆発と見紛うような閃光と共に、アルフレッドの執事服が、そしてアルフレッド自身が、その腕が、足が、胴体が、頭部が八方に弾け飛ぶ。

 緩やかな螺旋を虚空に描きながら、ベアトリスに装われていく元執事の全身鎧(フル・プレート・アーマー)。彼女を護る絶対の意志の現れか、主の体をタイトに締め付ける。ベアトリスから吐息がこぼれる。

 ベアトリスはアルフレッドの頭部を両手で受け止めると、恭しく捧げ持つように高く掲げた。アルフレッドの顔が左右に展開、鈍色に光る兜と成った。頭にまとう。金の光が全身を疾走る。

『内功増幅回路、展開します。各部接続、問題ございません。お嬢様、着心地はいかがでしょうか』
「パーフェクトですわ、アルフレッド。さて――」

 ベアトリスは両の拳を胸の前で打ち付ける。恐るべき”忌み野”の空気を伝い、戦の鐘が如き音が鳴り響く。顔の下半分を、スライドしてきた装甲が覆う。

「お二人をお待たせするわけには参りませんわ。急ぎ、叩きのめして差し上げなくては」

 言うが早いか、疾駆。羽のように軽く、矢のように迷い無く、影のように音もなく。金色の軌跡を描きながら間合いを潰し、瞬時にして女竜人の懐に潜り込んだ。女竜人の目が、驚愕に見開かれる。

 薫風(クン・フー)の深奥たる内功を極めし者は、その身を大地のくびきから解き放ち、自在に空(くう)を駆ける。宙に舞う渡り鳥の羽と川面に漂う花びらを足がかりに、千里の大河を渡った者すらあるという。これすなわち「軽功」なり。

 その軽功を、曲芸めいて宙を舞うのではなく、ただ己の身を前に進めることにのみ用いればどうなるか――

 などと、知る由もない女ドラゴニュートがなし得たのは、突如眼前に迫った驚異に向けて右手の刃を突き出すことだけだった。

 驚愕の中、瞬時に反応してみせたのは竜人の技の冴えを示すものであろう。されど焦燥で鈍らされたその刃は、ベアトリスに軽々と見切られた。

 体を右にひねり、半身で踏み込みながら躱すベアトリス。そのまま突き出された右腕を抱え込む。自らの右手を、上から下に振り下ろす。同時に左手を、下から上に跳ね上げる。テコの原理。

 ぞぶり。
 食いちぎられたかのような音が響く。緑色の血を振りまきながら、女ドラゴニュートの腕が宙を舞う。
 後の先、鰐鮫(わにざめ)。

 一瞬の後、遅れてやってきた痛みに女ドラゴニュートが顔を歪めたときには、追撃の右正拳が胴に叩き込まれていた。体がくの字に曲がる。地を向く顔面に右膝。炸裂音。上半身が跳ね上がる。

 一呼吸での連撃の後、ベアトリスは鎖に残した左足で軽く踏み切った。そのまま数回の横回転。重さを感じさせぬ跳躍は、彼女の練気が十全である証である。ではその、十全に練られた「気」を相手に叩き込めば、どうなるか。

 ベアトリスの飛び後ろ回し蹴りが、ちょうど落ちてきた右腕ごと女ドラゴニュートの顔面に突き刺さった。叩き込まれるベアトリスの「気」が、頭蓋の中を荒れ狂う。

 女ドラゴニュートの頭が、熟れた果実のように弾け飛んだ。

 右手と頭を失った体が、後方へ吹き飛ばされる。まっすぐ後方へ。鋼の鎖を持つ、もう一体のドラゴニュートの方へ。

 ドラゴニュートは握りしめていた鎖をすぐさま手放し、女竜人の死体を不器用に――だが丁寧に――受け止めた。手放された鎖は地面に落ち、耳障りな音を立てながら馬車に引きずられていく。その上に危なげなく立ったままのベアトリス。

 彼女の目にうつるのは、愛おしげに遺骸を抱く竜人のうつむく姿だった。

 大切な存在、だったのか――そう考えた瞬間、ベアトリスの脳裏に映し出される光景。一瞬の閃光。

 一面の花畑――きらめく陽光――白いドレス――そしてこちらに手を差し出す、優しげな微笑みの――

 だがその光景はすぐに、血と、肉と、激しい雷鳴と、怨嗟の叫びと、そして何よりも憤怒の炎に包まれて消えた。
「ふふ」
 装甲の下、乾いた笑いが漏れる。

 ドラゴニュートが顔を上げた。その瞳に荒れ狂う激情を渦巻かせ、轟々と吼える。女竜人の遺骸を騎乗していた巨大魔獣の背に乗せ、自らはそのまま飛び降り、大地を駆ける。

 咆哮。ドラゴニュートの巨大な体躯に力が満ち、更に膨れ上がる。いつしかドラゴニュートは両手を地につき、獣の如き姿勢で駆けていた。体躯に力が、怒気が満ちていく。

 咆哮が止む。そこに出現したのは、四足で駆ける緑鱗の竜。怨敵を逃すまじ、と不退転の意志を四肢に込め、”忌み野”の乾いた大地を駆け追いすがる。

 ベアトリスは後方より迫る脅威を横目に見ながら、鎖を伝い馬車の屋根に戻った。鎖を右手に持ち、左手でそっとなでる。鎖が淡い金色に染まっていく。

 「――なんだ、あれは」
 同じ頃、おっかなびっくり手綱を握っていたヘリヤの目に、新たな脅威が映っていた。

◇ ◇ ◇ ◇

 疾走する馬車のはるか前方、悠然と横たわる国境の大山脈のふもと。落ちかけた陽に照らされて妖しげな色に染まる巨大な門と、その左右にそびえる高壁。その高壁の上には、少なくない武装リザードマンが立ち、武器を構える。

 ヘリヤの入手した地図には記されていなかった代物、大要塞だ。

 馬車はまっすぐに、正面の大門に向かって突き進む。目的地、”忌み野の竜”の眠る地は進路直上。おそらくは大要塞の中心だ。ということは、あの要塞を突破しなければたどり着けないということ。子供でもわかる理屈だ。

 前方の要塞、後方の緑竜。何かの箴言にできそうだ。

 頭に思い浮かんだそんな考えをヘリヤは即座に打ち消した。のんきな事を考えている場合か、迫り来る脅威から逃避しているんじゃない!

 だが、実際どうすれば―――

「手綱は緩めず、そのまま! まっすぐに願いますわ!」
 凛とした声が、馬車の屋根からヘリヤの耳に届く。ベアトリスだ。

「なんだと!? いいのか、本当に!」
「ええ、構いませんわ!」

 薄暮の”忌み野”に響く、一欠片の焦燥も感じさせぬ声。何か策でもあるのだろうが、信じたものだろうか。そこまで考えを巡らせたヘリヤの顔に、不意に笑みが浮かんだ。

 迷うふりはやめろヘリヤ。正解が出ているのに迷うなど、学究の徒らしくない振る舞いだぞ。今、この場で正しいのは、間違いなく彼女だ。ならば。

「よし」
 覚悟を決めた顔で、ヘリヤは叫んだ。
「あんたを信じて、つっこむぞ!」

「よろしくお願いいたしますわ――さて」

 ベアトリスはそう言うと、手に持った鎖に手刀を叩きおろした。キン、と乾いた金属音をたて鎖が切れる。

 ベアトリスはそのままくるくると舞い、両腕に鎖を巻き付けていく。黄昏時に似つかわしくない、暁光じみた金色に光る鎖――ベアトリスの”気”が込められた鎖を。

 金の鎖を両手からだらりと下げ、馬車の後方に目を遣る。四足の緑竜が、生き残った十体ほどの騎乗リザードマンを引き連れ、今にもこの馬車に食らいつかんという勢いで迫りつつあった。

 十体。でしたら十回は『跳べる』ということですわね。

「いただいた信頼には、お答えしませんと」

 軽くステップ。
「淑女がすたると」
 弾けるように跳び出す!
「いうものですわ!」

 跳んだ先には一体のリザードマン。ベアトリスは空中で右腕を振るう。腕に巻かれた鎖がその動きに合わせ、弧を描いてリザードマンの首に絡みついた。リザードマンの首を回転軸とし、三日月の軌道で大きくスイング。遠心力で加速。緑竜に迫る。

 リザードマンの頚椎が砕ける音と、充分に加速が乗った蹴りが緑竜に叩き込まれる音が重なった。よろめく緑竜。緑の血を吐き、魔獣から転がり落ちるリザードマン。

 ベアトリスは左腕を振るう。別のリザードマンの胴に絡みつく鎖。左手を引く。ベアトリスの体が横向きに飛ぶ。その直後、先程までベアトリスがいた空間を、即座に体勢を立て直した竜のあぎとが襲った。

 だが遅い。ベアトリスはリザードマンの顔面に無事着地、反動で宙に躍り上がる。高速回転。

 虚しく宙を噛んだ緑竜、その目に映るのは黄金の旋風。そこから放たれた二本の鎖が、緑竜と、足場にされたリザードマンの横っ面を張り飛ばした。
 げぺ、と謎の声を上げつつ吹き飛ぶリザードマン。

 緑竜はわずかに動じたのみ、すぐさま空に舞うつむじ風を喰らわんと伸び上がる。

 だが再び、ベアトリスの体は竜の視界から消失する。それに気づいた瞬間、今度は下方からの一撃が竜のあごをしたたかに打った。のけぞる緑竜。

 ベアトリスは両手の鎖を自在に操り、空間を立体的に駆ける。円弧の動き、直線の動きで緑竜を翻弄していた。仇を捉えきれぬ怒りからであろうか、緑竜は大気を震わす叫びを――

 ――上げそうになるのをぐっとこらえ、ヘリヤは手綱を握りしめていた。疲れを知らず疾駆する二頭のオートマータ馬の勢いは止まらない。止めようとしていないのだから当然だ。

 しかしこのままでは、程なくこの馬車はあの大門に正面衝突。まさか、そうやってあの大門を突破しようというのか。

 しかしあの威容だぞ。いくら頑強なオートマータ馬といえども、ただ真正面からぶつかるだけではどうしようもあるまい。

 そもそもそんなことをして私は平気でいられるのか。信じると決めてはみたものの、本当に大丈夫か。大丈夫なのか。

 そんなことをぐるぐると考えていたヘリヤの目に、要塞の高壁上に並び立つリザードマン達が映る。敵はバリスタに似た射出装置をずらりと準備し、照準をこちらに定めているようだ。

 おい、そんな、まさか。このままだと、矢の雨の真っ只中に突っ――

 ――込んできた緑竜を空中で体をひねってかわし、ベアトリスは最後の「足場」に鎖を放つ。

 だが流石に学習したのか、鎖を放たれた騎乗リザードマンは体勢を低くしこれをかわした。空中で体勢を崩すベアトリス。そこに緑竜の幾度目かのあぎとが迫る。

 そのときベアトリスが見ていたものは、だが竜ではなく、馬車とその前方にそびえる要塞の門であった。

『お嬢様、そろそろ頃合いかと』
「ええ、そのようですわね。フローレンス!」

 空中で無理やり体を回転させ、緑竜のあぎとを寸前でかわしたベアトリスは叫んだ。
「どうぞよしなに!」

 薄暮の”忌み野”に、凛と響きわたる声――

 ――を聴覚機構で捉えた瞬間、馬車内でちょこんとおとなしく座っていたフローレンスはバネのような勢いで動き出した。
【チチチ】
 顔の光点が激しく明滅する。向かうは馬車の前方、御者席だ。

【チチ】
 御者席へと続く扉を開け放つ。吹き付ける突風が馬車の勢いを物語る。フローレンスは怯まず、御者台で手綱を握るヘリヤの横に近づいた。

「なんだ!? どうしたメイド!」
 突然の闖入者に、もともと無い余裕がさらに薄れていくヘリヤが叫んだ。

 それには答えず、フローレンスは迫る前方の要塞、そびえ立つ門、そして幾多のバリスタからついに射出された幾千の矢の雨を見た。遅れてヘリヤもそれを見た。その瞬間からヘリヤの時間が、ノロノロと進み始める。

 ああ、人は死を目の前にすると、脳の働きが一時的に活発になり、このような境地に至るのだと、聞いたことがあるな。いや、本で読んだのだったか。まあどちらでもいいな。すごい矢の数だ。これは助からない。私は死ぬのか。何ということだ。

 その時、視界が黒く染まった。鈍く進む時間の中で、それが隣に立つオートマタメイドの構えた黒い日傘だと気づいた瞬間、豪雨が傘を叩くような爆音がヘリヤを包んだ。

 音。音。音。音の濁流に飲まれながらヘリヤはのんびりと思考する。なるほど、降り注ぐ矢を日傘で防いでいるのか。毎度のことながら、一体何処から出したんだ。

 いや、ちょっと待て。そもそも矢を防げる日傘とはどういうものだ。そんな物があるはずがないだろう。

 とはいえ、実際に目の前に存在しているではないか。あるがままを受け入れるのも、魔術師には必要なことではないか。まずは受け入れ、それから検証する。それこそが真理の追究者たる者の取るべき姿勢だ――うむ。そんな事を考えている場合ではなかったな!

 そこまで思考したところで、雨音はやみ、ヘリヤの時間は元の速度に戻った。

「な、ああ!?」
 いまさら叫ぶヘリヤを尻目に、フローレンスは日傘を閉じると、御者台に備え付けられたツマミのうち、右端と二番目のものを弄った。

「何を」
 言いかけてヘリヤは執事の言葉を思い出す。つまみを弄るな。特に一番右端のものは。それはなぜだ? ヘリヤの顔から血の気が引き始めた。

 そんな即席御者の青い顔など意にも介さず、馬車は変わらず駆け続ける。だが馬車を牽くオートマータ馬、その二頭には劇的な変化が起こっていた。

 全身を体内からせり出してきた重装鎧が覆い、その脚さばきがさらに力強さを増す。金属音を響かせ、一角獣を思わせる角が頭部に生えた。右から二番目のつまみ、突撃形態(チャージ・スタイル)だ。金属の角を激しく回転させながら大門に突貫する二頭。

 ヘリヤはフローレンスを見た。フローレンスもヘリヤを見ていた。
「おい」
 ヘリヤがおそるおそる口を開く。
「お前がさっき触っていたつまみ、た、たしか自爆――

 ――装置の作動を確認いたしました』
 今はベアトリスの頭部装甲である執事が、主の耳元で報告した。

「ええ、それでは」
 最後の足場リザードマンの頭部に立ちながら、ベアトリスは応える。迫る緑竜の牙。ベアトリスはひらり空中に躍りだし身をかわす。ふぎ、という妙な悲鳴を上げながら、リザードマンが緑竜の口に飲み込まれた。

 その口を、ベアトリスから放たれた金鎖が二重三重に拘束した。緑竜は首を振り回し抵抗するが、鎖は食い込んで離れない。

「そろそろ仕上げと参りましょう」
 そう言い放つと、ベアトリスは鎖を持ちながら前方に回転跳躍。久しぶりの地面に降り立つと、体を捻りつつ満身の力を込め鎖を引いた。

 緑竜の体が浮く。
 ベアトリスは鎖を手放す。
 緑竜は飛んだ。
 否、投げ飛ばされた。

 そのまま夕闇の空へ吸い込まれていくかのごとく思えた緑竜の体は、しかしながら大地のくびきから逃れること能わず、美しい放物線を描きながら落下点へ近づく。

 落下点。すなわち要塞の大門の直前に。

 大門が緑竜の落下の衝撃で揺らぐ。その緑竜に二頭のオートマタ馬の回転角が突き刺さる。フローレンスがヘリヤを童話の姫君よろしく抱えて跳び出す。

 馬車の自爆装置が、激しい閃光とともにあたりを吹き飛ばした。

 爆風のあおりを受けながら跳ぶフローレンスの腕の中で、またヘリヤの時間はゆっくりと流れていた。その視界にベアトリスが映る。

 金色の光に包まれたベアトリスは、”忌み野”の大地に立ち、いまだ止まぬ爆発を見据えていた。

 見据えながらゆっくりと左手を前に突き出し、右手の拳を後ろに引く。腰を少し落とし、静かに息を吸い、息を吐く。彼女の体を包み込む金色の光がその輝きを増す。

 ベアトリスは両の足を踏みしめる。踏みしめた両足を捻りこむ。捻りは内功の輝きとともに足を伝い、腰を伝い、肩を伝い、腕を伝い、そして。

 神速の速さで突き出された右拳より、巨大な拳状の気が放たれた。

 これぞ薫風(クン・フー)奥義、獲麟(かくりん)。
「世の終わり」を名に持つ絶技。

 突如、爆炎の中から血まみれの緑龍が躍り出た。躍り出た途端、黄金拳の直撃を受け首から上が消し飛んだ。要塞の大門と高壁が多数のリザードマンを巻き込みつつ崩落したのと、ほぼ同時であった。

◇ ◇ ◇ ◇

「ご無事で、いらっしゃいまして?」

 そう言いながら歩み寄るベアトリス。すでに装甲は解かれ、元どおり組み上がった執事が傍に控える。

「ご無事だよ。だからできれば、早くおろしてほしい」
 少々焦げ目のついたフローレンスに抱えられたまま、ヘリヤは答えた。まったく、まるで赤子のようではないか。

 「おっと」
 地面にやさしく降ろされたヘリヤは、体の埃をはたき落とすと、フローレンスに向き直った。
「ああ、その、何だ。助けてくれたことには、礼を言うべきだな。ありがとう」

 言いながらヘリヤは、そもそもこのメイドが自爆装置なんぞ発動させなければ、こんな目には合わなかったのでは、という小さな疑問をいだき、その疑問から目を背けた。熟考するには精神が疲弊しすぎていた。

【チチチチチチチチチチチチ、チチチ】
 途端にフローレンスの顔の光点が、今までにない勢いで明滅し始める。「うわあっ!?」

 「あらあら」
 ベアトリスが面白そうに笑った。
「こんなにも照れたフローレンス、始めてみましたわ」
 照れているのか。

 少々嫌な予感を覚えたヘリヤだったが、その予感からも目を背けた。もういい、今日はあまりにも疲れた。”忌み野”をさまよった辛く苦しい二週間、その辛苦は、彼女らと出会ってからの半日間であっさり塗り替えられたようだ。

「さて」
 ベアトリスは両手を顔の前で叩く。ぽん、と間の抜けた音がする。

「このまま”忌み野の竜”の寝所に雪崩れ込む、と行きたいところですが」
「行かないのか」
「ええ、まずこの格好ですもの」

 ベアトリスはドレスのスカートを軽く指でつまむ。ずたずたに切り刻まれたそれはむしろ、「元」ドレスといったほうがふさわしい状態であったが。ヘリヤは所々から覗くベアトリスの白い肌から目をそらす。

「たとえ叩きのめし踏みつけるお相手とはいえ、流石にこれでは礼を失しています。淑女に許されることではございませんわ。」
「さっぱりわからん」
「それに何より」
「何より?」

 ベアトリスは胸を張り、高らかに宣言した。
「事を起こす前には一杯の紅茶。これなくして、何ができましょうか!」

 ヘリヤは膝から崩れ落ちた。

「……さっぱり、わからん。まさか今、ここで飲む気じゃないだろうな。竜の目の前だぞ。そんなに紅茶が好きなのか。少しは我慢出来ないのか」
「ええ、なにせわたくしの体には紅茶が流れておりますもの。さあアルフレッド、お茶の支度を!」

『お嬢様、ティーセット一式は馬車と一緒に吹き飛んでおりますが』
「まあ」

 ――その後、アルフレッドが呼び寄せた馬車二号機(曰く、同じものがあと七台あるらしい)に搭載されたティーセットで、無事に一行はお茶にありつくことができたのだった。

第2話 「淑女がすたるというものですわ」 完 第3話へ続く

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ