白アメ表紙Ep03

【一気読み版】白磁のアイアンメイデン 第3話 #白アメ

こちらは拙作「白磁のアイアンメイデン」第3話のおまとめ版です。未読の方は是非どうぞ。第3話は約18,000字です。

第2話> <目次

 夜の帳が、”忌み野”を覆い隠し始めた。先の戦によって巻き起こされた喧騒が、静かに緩やかに冷めていく。

 ベアトリスは薄い水色のナイトドレスを身にまとうと、馬車から外に出た。彼女を出迎えたのは忠実なるオートマタ執事にして今日の不寝番であるアルフレッド。

 そしてもう一人、魔術師ヘリヤは紅茶を片手にテーブルセットにうつ伏せになってぐっすりと眠っていた。

「よくお休みのようですわね」
『はい、肉体的にも精神的にも大層お疲れだったご様子でしたので』
 アルフレッドが淡々と語る。
『そこに一服盛られてしまっては、なおのことでしょう』

 ベアトリスはそれには答えず、手にしていた毛布をヘリヤの背にそっと掛けた。

「……やはり、当初の計画どおりに進めるべきなのでしょうね」
『最大効率を求めるならば、当然の選択です。まして相手はあの”忌み野の竜”。万全の備えをしてしかるべきかと。お嬢様は、お迷いなので?』

「ええ」
 ベアトリスは己の長い黒髪を一束手に取り、指先でいじりながら答えた。「正直に言えば」

『効率だけを求めて突き進むのは、およそヒトのやることではない、なにより面白くない――で、ございますか』
「久しぶりに聞きましたわ、その言葉」

 ベアトリスは視線を遠くに向ける。あたかもそこにはいない誰かを思うように。

「その言葉からすれば、この迷いはわたくしがきちんと人間である証し、ということなのでしょうか」

『オートマタの私めにはわかりかねます』
 アルフレッドは変わらぬ調子で語る。

『私から申し上げられることはただ一つ。私は忠実なる執事でございます。お嬢様がいかなる選択肢を採られたとしても、全力で従い申し上げるのが我が職務と認識しております』
「感謝しますわ、アルフレッド」

 ベアトリスは花のような笑みを浮かべると、すぐに表情を引き締めた。

「では選択しますわ。魔術師殿をこのまま拘禁し、『切り札』に組み込むという当初の案は破棄します。”忌み野の竜”との戦いにおいて『切り札』の稼働は避けられませんでしょうが、その際は次善の策を用いることとします」
『了解いたしました』

 吐息を一つ吐き出すと、ベアトリスは再び己の髪を弄び始めた。
「……甘い、とお思い?」
『私には判断できかねます。ですが』
「ですが?」

『兄上様は、お喜びになるかと』

 その言葉を耳にしたベアトリスはくるりと軽くターンを決めると、馬車へと歩を向けた。

「そう願いたいものですわ。さて、わたくしは少し休みます。アルフレッド、魔術師様に簡便な寝所を用意して差し上げて」
『承知いたしました』

◇ ◇ ◇ ◇

 黒よりも暗い闇夜。激しく地面を叩く雨音。その闇と音に紛れ、一人の男が街道を走っていた。

 荒い呼吸音とたどたどしい足取りから男の必死さが見て取れる。事情を知らぬものが彼を見れば、何かから逃げてきたのではないか、と疑うことだろう。

 事実、彼は逃げていた。邪悪から、理不尽から。腕に抱くものを守るために。

 雷光が閃く。

 まばゆい輝きがほんの一瞬、男の姿を浮かび上がらせる。彼が腕の中に抱くものは、白色の塊、赤子ほどの大きさの容器であった。

 再び闇夜と雨音が彼を包み込む。男は決して、足を止めなかった。

 あら。
 これは夢ですわね。
 不思議な夢ですわ。わたくしがこの夜のことを垣間見ることなど、できるはずもないのに。
 どうして、こんな――

◇ ◇ ◇ ◇

 目を覚ましたベアトリスは軽く一呼吸すると、辺りを注意深く確認する。

 ここは馬車の中、そこに据えられた”寝台”。窓から差し込む淡い朝日が、ベアトリスの顔をほのかに照らす。

 今のは何だったのでしょうか。

 僅かな時間考え込んだベアトリスは、やがてゆっくりと首を振った。考えても仕方がないことは、考えない。お兄様の教えだ。

 ベアトリスはそばに控えていたフローレンスに声を掛け、身繕いを始めた。

 さあベアトリス。しっかりと支度なさいませ。今日は決戦の日。ふさわしき装いで臨むのが淑女の嗜みというものですわ。

◇ ◇ ◇ ◇

 呪わしき”忌み野”にも、等しく朝はやってくる。

 眩しい陽の光にこれ以上目を閉じていられなくなり、ヘリヤは重たい体を寝台から起こした。

 途端に聞こえだす、肉体各所からの悲鳴や慟哭。久しぶりにまともな睡眠をとったせいだろうか、こいつらは自分たちがとうに限界を超えていたことに気づいたようだ。

 意識してそれらを無視したヘリヤの鼻腔を、最早おなじみになった香りがくすぐる。ヘリヤが視線を向けると、案の定そこにはいそいそとお茶の準備をするアルフレッドとメイドのフローレンスの姿があった。

『お目覚めになられましたか』
 こちらに気づいたアルフレッドが声を掛けてくる。

「ああ、この寝台はあんたが準備してくれたのか? おかげで久しぶりに人間らしくすごせたよ。頭が軽い」
『それは何よりでした』
「……あんたの主はどうした?」
『お嬢様ならあちらでございます』

 そう言われて抜けた視線の先には、朝の光を背にしつつ構えるベアトリスの姿があった。

 昇りきらぬ朝日を背にしたベアトリスは、己の体の調子を確かめるように、静かに緩やかに右拳を空に突き出す。

 続けて左拳。右拳。左。回し蹴り。左の手刀。右掌底。流れるように繰り出される一撃一撃は、その一つ一つが竜殺しの武器となり得るのだろう。

 右拳。左拳。そしてとどめとばかりに繰り出された蹴りは、”忌み野”の大気を切り裂きベアトリスの直上、天に向かって放たれた。

 ベアトリスの足と朝日の光芒が重なる。それは、何かしらの宗教的荘厳さすら感じさせる姿であった。

「なんて……」美しい。

 ヘリヤは口にしかけた言葉をかろうじて飲み込むと、何食わぬ顔でベアトリスに近づいて行った。

「朝の修練か、精が出ることだ」
「おはようございます魔術師様。昨晩はよく眠れまして?」

 ベアトリスの戦装束がするりとほどけ、元のドレスに様変わりする。昨日の真紅のものとは異なり、今日は紫のグラデーションが白い肌に映えるきらびやかな代物だ。

 大きく開いている胸元や背中を意図的に無視すると、ヘリヤは答える。

「ああ、おかげさまでな」
「それはよろしゅうございました」

 いつもの笑みでそう言うと、ベアトリスは視線をヘリヤの後方、崩れ落ちた砦の中央に向けた。釣られてヘリヤもそちらに視線を向ける。

 視線の先は砦の中央。そこにあるのは、崩壊寸前の霊廟らしき建造物。

「あれか」
「あれですわね」

 醸し出す空気が、そこがどういう場所なのかを雄弁に物語る――“忌み野の竜”の寝所。

「竜はこの地の地下深くに眠ると言いますわ。恐らくはどこかに地下への道があるのではないでしょうか」
「だろうな。探ってみるとしよう」

◇ ◇ ◇ ◇

 そう意気込んだ彼らであったが、地下への入り口は拍子抜けするほどあっさりと見つかった。

 霊廟の中に入ったベアトリス達が目にしたものは、床に備え付けられた巨大な鉄扉と、それを封じるように印された複雑極まる紋様だったのである。

「あらあら、わかりやすくて有難いことですわね。ですが」

 言いながらベアトリスは鉄扉に手をかけようとする。瞬間、紋様に光が走ると破裂音とともにベアトリスの手を弾き飛ばした。

「ああ、やはりそういうことですわね」

『お嬢様、お怪我はございませんか』
「ええ、ですが困りましたわ。こういう封印は大抵の場合、無理矢理どうにかしようとするとかえってどうしようも無くなってしまうものでしょう? そうでなければ拳の一つも叩き込むところですが」

 珍しく本気で困った様子で、ベアトリスはヘリヤを見た。

「魔術師殿、何か良いお知恵はございませ……魔術師様?」

 ヘリヤは応えない。ただ、紋様を食い入るように見ているだけだ。

 しばらくそうしていた後で、ヘリヤの口から言葉があふれ出し始めた。

「……なんて素晴らしい術式だ芸術的と言ってもいいこんな複雑な術式をしかも複数組み合わせて同時に成立させているのか凄まじい技術だそれにしてもこの部分は何だああそうか大陸式の応用か」
「魔術師殿」

「だがこんな術の編み方は見たことが無いしかし確かにこうすれば大陸式の欠点をカバーできるだがそうするとこちらの部分に大きな負荷がかかってしまうはず一体どうやって」
「魔術師殿」

「まてよああなるほど魔術の循環の方向をこう変えることでそれを回避しているのかいやだがそうすると」
「魔術師殿」

「そうかそこでこうくるのかその上でこちらに何とこれは精霊魔術の方法論ではないかそれをここに持ってくるとはこれが発想の転換というものか素晴らしいおやこちらはまたえらく古い術式だがなるほどここに接続することで」
「魔術師殿」
「……っ!?」

「……」
「……」
 痛いほどの、沈黙。

 どれほどの時間が経ったのだろうか、先に沈黙を破ったのはベアトリスのほうであった。いつもの笑顔でヘリヤに話しかける。

「ずいぶんと、ええ、そうですわね、何と言いましょうか、夢中でいらっしゃいましたのですね」
「ああ、す、すまない。つい、我を、我を忘れてしまったようだ」

 ヘリヤは努めて冷静を装う。今のところ、その努力は実を結んでいるようだ。赤く染まる両耳以外は。

「この封印術式、残念ですがわたくしの手には余る代物のようなのですわ」
「だろうな」

 ヘリヤはまた昂りそうになる心を抑えつつ、ゆっくりと語り出す。

「この術式を施した者、誰かはわからないが相当の使い手だ。そこいらの魔術師では何が施されているのか、皆目見当もつくまい。最早失われて久しいものも含め、高度な術式を何層にも重ね合わせて使用している。重厚かつ華麗。圧倒的技術と知識の集大成だ」

『恐らくは、“忌み野の竜”が自分の寝所を荒らされぬために施したものでしょう。書に曰く、竜は古代より魔術を己の意のままに行使したと』
アルフレッドが背後から声をかける。

「どうにか、なるものなのですの?」
「並の術者では百年かかっても無理だな……しかし生憎」
ヘリヤは笑う。
「私は並の術者ではない」

 ヘリヤは紋様に手を触れた。即座に発生する抵抗をものともせず、複雑に手を動かしていく。口から紡がれる言葉らしきものは何かの呪文だろうか。

 ヘリヤの両腕に様々な紋様が浮かび上がっては消えていった。そうこうしているうちに、紋様の発する光の所々が徐々に薄れ、消えていく。ヘリヤの額に薄っすらと汗がにじむ。

「まあ」
「さて、仕上げだ」

 ヘリヤは残ったかすかな光に対して両手をたたきつけた。パシン、と軽く弾ける音。それを最後に紋様は一切の輝きを失った。

「……どうなりましたの?」
「済んだのさ」
 ヘリヤは満足げな顔を向けて言った。
「封印はすべて解」

 瞬間、轟音と共に鉄扉が派手に吹き飛んだ。即座に反応、後方に跳び間合いを取るベアトリス。

「……たびたびすまんな」
【チチチ】

 少し離れたところでフローレンスに抱えられたまま、ヘリヤはねぎらいの言葉をかけた。

「アルフレッド」
『はい、お嬢様』

 鉄扉が吹き飛んだ後にできた大穴。そこから歪んだ空気、淀みとしか形容しようもない何かがしみだしてくる。

「舞闘会(おでかけ)の支度はよろしくて?」
『無論です』
「ならば」

 ベアトリスが、アルフレッドに手を差し出す。アルフレッドが、主人の手を恭しく取る。

 淀みが濃度を増していく。場の空気が徐々に冷えていく。

「エスコートを!」
『With Pleasure, My Lady』
 眩い閃光が、淀みを切り裂いていく。

 光の中、フローレンスの腕の中でヘリヤは見た。暗黒の大穴から浮かび上がるそれを。淀みを引き連れて浮上する、年端もいかぬ少女――の姿をした、何かを。

「あれが、そうなのか」
「ええ、間違いありません」

 強化外骨格装甲――元執事――を身にまとったベアトリスが、硬い口調で答える。

「あれこそが、”忌み野の竜”ですわ」

◇ ◇ ◇ ◇

 暗い地の底で、竜は不愉快であった。もう長いこと不愉快だったので、不愉快以外の感情を忘れかけてすらいた。

 いつから不愉快だったか、といえばそれは間違いなくあの日あの時――この地に叩き落され、長い休暇を余儀なくされた時からだ。

 実に不愉快。だが、それももうすぐ終わる。傷も癒えつつある。魔力もほぼ戻った。あと数年も大人しくしていれば――実に不愉快だが――また栄光の日々が戻ってくる。それまでは、この屈辱の日々に甘んじねば。

 ああ、不愉快極まる。

 そうやってもはや何度目かわからなくなるほど繰り返しされた思考を、頭上からもたらされた違和感が妨げた。

 なんと。信じられないことだが、妾(わらわ)の組んだ術式が破られようとしている。不愉快な。

 そも、解呪などできるものかよ。それはこの妾の特別製ぞ。まあ、せいぜい励むがよいわ。そして無様に灼かれてしまえ。汝の哀れな死に様が、妾の無聊の慰めになるやもしれぬぞ。

 だが、竜の期待とは裏腹に、頭上の気配は封印術式が着実に解呪されていく様子を伝えてくる。

 は?

 なんだ。なんだというのだ。まさか解呪されつつあるのか。そんな馬鹿な。できるはずがなかろう。そもそも何故そのようなことを。もしや、もしや妾を眠りから覚まそうというのか。

 阿呆が。不愉快ぞ。そんなことをせずともあと数年待てばこの穴倉から望み通り出てきてやるわ。そして貴様を食って、食って、食らい尽くしてやろう、愚かな死にたがりめが。だから。今少し――

 パシンという音が頭上に響いた。

 馬鹿な。

 完全に破られた。破りおった。妾の術式を完全に破りおった。
 はは。やるではないか。いや大したものだぞ。素晴らしい。

 素晴らしく――不愉快だ。

 よかろう。妾が手ずから「褒美」をくれてやろうぞ。

◇ ◇ ◇ ◇

 肩口辺りまで雑然と伸びた濃緑色の髪と、ところどころ焼け焦げた子供服。外見だけならまさに「いたいけな少女」と表現すべきであろう。

 それが額に捻じくれた枝のような二本の角をいだき、不快な色の淀みをまといながら宙に浮く、顔を憤怒に歪ませた少女でなければ、の話だが。

「ふん」
 少女が口を開く。
「ニンゲンが二匹、それと人形か。察するところ、そちらの魔術師が妾の術式を破ったのじゃな?」

 少女の――”竜”の視線がヘリヤに向けられる。

 瞬間、ヘリヤの全身を戦慄が貫いた。

「――――――――!」
 あれは。
 喉が干上がり声も出ない。全身からは逆に冷たく粘つく汗が吹き出す。

 あれは。あれはまずいものだ。とにかくまずいものだ。逃げろ。使命も、決意も、誇りも、何もかもを放り捨てて逃げろ、逃げろ、逃げろ、今すぐにだ!

「フローレンス」
 静かな、だが凛とした力強さに満ちた声が、緊迫した空気を切り裂くように響きわたる。
「魔術師様をお守りなさい」

 金色の光を身にまとったベアトリスは、何の畏れも感じさせぬ確かな足取りで”竜”に歩み寄る。

「そしてトカゲの女王様。あなたのお相手はこちらですわ。お間違えなきようにお願いいたします」

 両の拳を目の前で打ちつける。響く轟音。同時にスライドした装甲が顔の下半分を覆い隠した。

「さあ、まいりま」
「羽虫が不愉快ぞ。去ねい」

 五月蝿い虫でも追い払うような腕の一振りが、不可視の衝撃となってベアトリスを吹き飛ばした。

 子供が飽きて放り投げた人形のように宙を舞うベアトリス。だが空中で姿勢を制御すると、衝撃とともに着地――した瞬間に”竜”めがけて突撃、襲いかかる。

 ”竜”は何も言わずに腕を振るう。再び襲いかかる不可視の衝撃。先程よりも大きな衝撃がベアトリスを襲った。またもや吹き飛ばされるベアトリス。空中にて姿勢制御、衝撃とともに着地したところまでは先程と全く同じだ。

 だが、今度は駆け出せなかった。

 否、駆け出さなかったのだ。代わりにベアトリスは深く息を吸い、息を吐く。息を吸い、息を吐く。ベアトリスの体を金色の光が包んでいく。アイス・ブルーの瞳が、気高き黄金の色に染まっていく。その姿を眺める”竜”の表情にかすかな好奇の色が浮かぶ。

 ベアトリスは再び”竜”に向かって駆け出した。無策に、一直線に。当然、先程同様に不可視の衝撃波がこれを迎撃せんと襲い来る。

 そのままベアトリスに着弾――するかと思われた瞬間、ベアトリスの体がぶれて歪んだ。そのままベアトリスの体をすり抜けるがごとく、はるか後方で爆風が巻き起こる。

 ベアトリスの体がゆがみ、ぶれて映る。左に一人。右に二人。中央に一人。何人ものベアトリスが浮かんでは消え、消えては浮かび、そのまま次第に”竜”へと迫る。

 ”竜”の腕の一振りごとに巻き起こされる衝撃波は、ベアトリスの残像のみを捉え、虚しく爆風を巻き起こすのみ。 

 薫風(クン・フー)が歩法、蛇(かがち)。不規則に蛇行しながら遠い間合いより相手に迫る技術。これだけでも相対する者には脅威だが、深奥まで極めればまさに幻術としか言いようのない域まで達するという。

 これすなわち薫風奥義、蜃気(しんき)なり。

 無数の残像と共に突っ込んできたベアトリスは、一気に間合いを詰めると正確に”竜”の顔面に正拳突きを叩き込んだ。

「!」
 否。否である。

 叩き込まれたかに見えた拳は、”竜”の顔面の寸前で妨げられていた。拳と顔の僅かな隙間に浮かび上がる複雑な紋様――防御術式。

「羽虫が。何かと思えばその程度か。かように下らぬ手妻ならば、どこぞの宴ででも披露するが似合いぞ」

「んっ……!?」
 音もなく忍び寄ってきた淀みが、ベアトリスの手足を拘束する。

「……っ!」
 ベアトリスは力の限り抵抗するも、拘束はその強度を増すのみであった。

「改めて告げる。不愉快ぞ。去ね」

 ”竜”が大儀そうに腕を振るった。不可視の衝撃が再び、今度は至近距離でベアトリスの体に叩き込まれる。

 ベアトリスは口から吐瀉物を撒き散らしつつ、壊れた人形のごとく三度(みたび)吹き飛ばされていった。

「ベアトリス!」
 思わず大声を出すヘリヤの体がそっと地面に横たえられた。

「ど、どうした」
【チチチチチ、チチチ】

 フローレンスの顔の光点が明滅する。言葉は全くわからないはずなのだが、何故かヘリヤには彼女の云いたいことがわかった気がした。

――ここで大人しくしていてくださいね。

「おい!」
 ヘリヤの声を背に受けて、フローレンスが駆け出す。その両手にはいつの間にか、強大な大槌が握られていた。

【チチチチ】
 顔の光点を激しく明滅させながら、フローレンスは女神の刻まれた大槌を肩口に担ぐ。女神の瞳が赤い光に妖しく光る。それと共に大槌の片側が変形、魔力の光を噴出しだした。

 フローレンスは大槌を大きく振り回すと、噴出光によって勢いを増した一撃を”竜”の頭上に振り下ろした。

 結果は――全く同じ。熟れた果実のように”竜”の頭部を潰すはずの大槌は、輝く術式によって完全に妨げられていた。

「何じゃ貴様。妾に人形遊びの趣味はないぞ」
 フローレンスに目もくれず、”竜”はまた腕を振るう。後方から紐で引かれるがごとく吹き飛んだオートマタメイドは霊廟の壁に激突、そのまま突き抜けて建物の外へ消えていく。

 間髪入れず、突風のような勢いでベアトリスが襲いかかった。瞬時に放つ無数の連撃。だがその全てが紋様の光壁に阻まれ弾かれる。

「羽虫がまとわりつきおるわ! 不愉快ぞ! 去ね去ね去ねよや!」
 ”竜”が心底不快そうな声で叫び、これまでにない勢いで腕を振るった。幾重もの衝撃波が嵐となり、ベアトリスに襲いかかる。

 ベアトリスは瞬時に息を吸う。直後、襲い来る衝撃波を回避。瞬時に息を吐く。第二の衝撃波も回避。第三、第四、無数に襲い来る衝撃波の荒波、そのことごとくを回避しつつ、超高速の調息を為すベアトリス。

 いつしか彼女の体を包む黄金の光は、その輝きの質を変えつつあった。

 ――それは流れ落ちる血の色に、黄昏時の空の色に、世の遍(あまね)くを呑み込む炎の色に見えた。見たものの目を焼くが如き、緋色の輝き。

 赤を身にまとったベアトリスは”竜”の周囲を高速旋回、衝撃波をかわし、またはかわせず、そこに復帰したフローレンスも加わり、”忌み野の竜”を中心とした紅い暴風圏を作り出す。息もつかせぬ連撃連撃連撃。”竜”の衝撃波を何度も喰らいつつ、”竜”に幾度も食らいつく。

 そうして叩き込まれた全ての打撃は、だがことごとく”竜”の結界に阻まれていた。

◇ ◇ ◇ ◇

――唯一人、蚊帳の外に置かれたヘリヤの心中にも嵐が吹き荒れていた。恐怖と絶望と諦念という名の、嵐が。

 私には何もできない。何もできない。できやしない。見ろ、あの凄まじき暴力の嵐を。私に何ができるというのだ。見ろ、情けなく震えて動かない己の足を。地面に横たわったまま、立ち上がることすらままならぬではないか。そんな自分に一体何ができるというのだ?

 ヘリヤの視線が下に落ちる。冷たい石造りの床が視界一杯に広がる。

 そんなことはない。できることはある。為すべきことはある。そして今は為すべきときであり、私にはそれを為すべき力があり、為すべき理由もある。ならば何を迷うことがある。

 わかるだろう、激しい闘争のように見えてその実、”忌み野の竜”には指一本届いていない。傷一つついていない。

 あの防御術式。”竜”の寝所を封印していたものと同系統、いや、更に強力なものと見える。それを幾重にも幾重にも張り巡らせているのだ。あのままでは、何百何千という打撃を叩き込んだとしても一切が無為に終わるだろう。このままではダメだ。ダメなのだ。ならばどうする。

 決まっている。あの術式を、ほどけばいいのだ。先程私がしたように。

 だがそのためには、私があそこへ、あの暴虐の嵐の中へ踏み込まねばならない。できるのか私に。脅威に抗う技も脅威を防ぐすべも持たぬ私に。

 できるわけがない。

 ひときわ激しい打撃音が響き、ヘリヤはびくりと体を震わせた。顔をあげる。視界に入ってきたのは、相も変わらず憮然とした顔で浮遊する”竜”、その”竜”から距離を取る――否、取らざるを得ないベアトリスとフローレンスの姿。

 ベアトリスは肩で息をしていた。体にまとう金と赤の光は彼女のいまだ折れぬ闘志を象徴しているかのように輝いてはいたが、それすらも時折おぼろげに揺らいでいた。

 誰が見てもわかる――もはや時間の問題だ、と。

 だが。
 ヘリヤは思う。だが彼女は、ベアトリスは諦めないだろう。出会って一日程度でしかない相手だが、確信をもって断言できる。何が彼女をそうさせるのかは知らないが、彼女は闘い続けるだろう。最後まで――最期まで。

 ヘリヤは歯を食いしばった。軋む音がかすかに響いた。

「――もう終いか、女」
 ”竜”が玩具に興味を失った子供のような口調でベアトリスに問いかける。

「妾(わらわ)もそろそろ飽いてきたぞ。これ以上余興の種が無いのであれば、そろそろこの下らぬ戯れを締めくくりたいのじゃが」

「あらあら、”竜”ともあろう者がずいぶんと堪え性のないことですわね」
 ベアトリスが挑発ともとれる言い回しにて応じる。これまでならばその物言いは彼女の、何者にも怖じない大胆不敵さの現れだったろう。

 だが今は、哀れな負け犬の遠吠えにしか聞こえぬ台詞だ。

 故に”竜”は取り合わず、ただただ一笑に付したのみであった。

「口が回れど」
 ”竜”がゆるりと両腕を胸の前で交差させると、周囲の淀みが――不浄の魔力が――”竜”の小さな体に吸われていく。
「策はなし、か」
 ”竜”が勢いよく両腕を広げた。

 刹那、竜を爆心として不可視の力が荒れ狂った。力は嵐となり、波濤となり、猛威となり、全てをなぎ倒し、消し飛ばす。

 鏖殺の風が去った後には、円状の無が広がっていた。

 寝所を覆うように建てられた霊廟も、それを守るために築かれた要塞のおよそ半分も、”竜”を中心として綺麗に消し飛んでいた。

 その中で、骸のように横たわるベアトリスと、ヘリヤを護るように抱きかかえてうずくまるフローレンスだけが形を保っていた。

「これで終いぞ」
 ”竜”が独りごちた。
 何者も、それには応えなかった。

 もう何度目かの、フローレンスの腕の中。ヘリヤの目の前には、うつむく彼女の顔があった。目鼻の代わりにある六つの光点が、弱々しく明滅する。

 ずるりと、フローレンスの上半身が傾く。その後背部は醜く炭化し、所々から煙を上げていた。

 ヘリヤは奥歯が欠けるほどの力で歯を食いしばっていた。彼の心中で、再び感情が暴れ始める。

  ヘリヤ、魔術師ヘリヤ! アカデミーの誇る百年に一人の天才! 何をしている! 今が! 「為すべきとき」だろう!

 ――だが彼の足は、恐怖に震えて動かなかった。ヘリヤの視界がじわじわと歪む。溢れた感情が床にこぼれ落ち、黒いシミを作った。

 その歪んだ視界に、ゆっくりと、力無く、動くものの姿が映る。

 それは、産まれたての仔馬のように弱弱しく立ち上がると、たどたどしく左手を前に突き出し、ぎこちなく左手を後ろに引き、そこでわずかによろめいたがそれでも崩れず、構えを――戦(いくさ)の構えをとった。

 ああ。やはりか。やはりそうするのか。

 その瞬間、ヘリヤの心にかすかな決意が宿った。それは嵐の前の小さな灯火に過ぎなかったが、しかし何者にも消せない炎でもあった。

 ヘリヤは己にもたれかかるフローレンスの体を優しく脇にどけると、虫のようにゆっくり地面を這いずり始めた。弱々しく、だが決してとどまることなく、”竜”に向かって真っ直ぐに進む。

 死ぬかもしれんな。狂ったかヘリヤ? ヘリヤの僅かに残った冷静な部分が己に語りかけてくる。

 まさか。ヘリヤは口角を微かに上げながら進む。

 まさか、狂ってなどいるものか。ただ、見てしまったのだ。あの姿を。
 圧倒的な暴力を前に打ちのめされ、それでも立ち上がるあの姿を。
 前に進む理由としては、十分じゃあないか?

◇ ◇ ◇ ◇

 ベアトリスは視線を落としたまま静かに深く息を吸い、息を吐く。息を吸い、息を吐く。内功が経絡を巡り、増幅され、彼女の四肢に満ちていく。

 やがて身に収まりきらなくなった”気”は、染み出すように彼女の周りを漂い出す。美しき金色の光。その裏に”竜殺し”の威力を秘めた、超常の力。

 ベアトリスは深く息を吸い、息を吐く。繰り返される調息は、彼女の気功をより高純度に、高濃度に練り上げていく。柔らかな金の光に、ところどころ異質な輝きが混じり始める。

 見るものの目を焼く、赤。真紅の輝き。

 ベアトリスが一呼吸するたびに、真紅が金色を食らいつくすようにその比率を増していく。黄金の光りに包まれた戦乙女のような姿が、煉獄の炎を身にまとう戦鬼のごとくに変貌していく。

 ベアトリスが顔を上げ、まっすぐに”竜”を見据えた。その瞳は、身にまとう光と同じ赤に染まっていた。

「残念ながらお終いには程遠いですわ、トカゲの女王様。勘違いなさっては困ります。ああ、お脳のほうもトカゲさん並みなので仕方がないのでしょうかしら?」
 ベアトリスが挑発を投げる。

「くだらん」
 帰ってきたのは、心底からの侮蔑を込めた言葉だった。

「くだらん。実にくだらん。相手するだけ無駄じゃ。疾く疾く去ね」
「そうは参りませんわ」
「――ッ、この、痴れ者があッ!」
 ”竜”が吠えた。”忌み野”の大気が、畏れに震える。

「そも、貴様は一体何なのだ! 妾(わらわ)の寝所を土足で踏み荒らし! 妾が血を分けた眷属共を手に掛け! あまつさえ妾自身に牙をむく! 妾は”竜”、”五色(ごしき)の竜”が一(いち)ぞ! 無礼無礼! 無礼千万! 程があろうというものぞ!」

「わたくしは」
 ベアトリスが応じた。身にまとう炎の輝きには似つかわしくない、凍てつくような声音であった。

「わたくしは、あなたに、いえ、あなたがたに奪われたものを取り返しに参ったのです」

「はあ? 奪われた、だと?」
 ”竜”は、鼻で嗤うという言葉の完璧なお手本を示しながら返した。

「成る程成る程、それはそれはお気の毒に。それで、妾は貴様の何を奪ってしまったのじゃろうか? ん? 教えてくれんか?」

「全て、ですわ」
 あからさまな煽りには一切反応せず、ベアトリスはいつもの笑みで淡々と返す。

「故郷、家族、友人、希望、未来、誇り、わたくし自身……まだお聞きになりたいですか?」
「いや、結構。もうわかったからな」

 ”竜”は亀裂のような笑みを浮かべながら言った。

「取るに足らない、ということがわかったわ。不本意ながら眠りにつくまで、何度同じ言葉を投げつけられたものか。その手の恨み言、正直聞き飽きたわ。鬱陶しい虫の羽音と何ら変わらぬ」

 ”竜”の笑みが、徐々に歪んでいく。
「なればこそ、じゃ」

 ”竜”が両腕を広げた。その周りの空間が、音を立てて歪む。
「なればこそ……たかが虫の羽音を聞かせるために……この妾の眠りを妨げるなど」

 片手を振り上げ、
「不愉快、そのもの、じゃあ!」
 振り、下ろす!

 生じた衝撃は螺旋の渦となり、ベアトリスに迫る。交わしきれないと悟り、腕を十字に交差して受け――きれず、木っ端のように吹き飛ぶベアトリスは、続いて放たれた二撃目三撃目を空中で体を捻りかわしつつ着地、着地地点に襲い来る四撃目五撃目を被弾寸前の高速ステップにて間一髪避ける。

 そのまま急加速、幻惑的な軌道で”竜”に接近し拳を打ち込む――術式に遮られる。

 それは先程までの闘争の、寸分の狂いもない写しでしかなかった。

「馬鹿の一つ覚えめが! ほれほれどうした! 妾に積もる恨みがあるのであろう! はよう打ち込んでみせんか!」
「やっておりますからお静かに願いますわ!」

 ――応えながら、ベアトリスは己の胸中に暗い影が差しつつあるのを感じていた。

 あの日。あのすべてを奪われた日から、途方もない年月と文字通りの血と汗を捧げて練り上げてきた我が薫風(クン・フー)。当然、己の前に立ちふさがる輩共を討ち滅ぼす矛となり盾となるはずだった。実際、前菜の有象無象共は一蹴してのけたのだ。

 だが、”竜”には、肝心要の本命にはどうか。

 苦戦は予想していた。なにせ相手はかの”五色の竜”の一体。遥か昔、神話の時代から生きている――ということになっている、そのことに一切の疑問を挟ませなかった連中だ。

 しかし、ここまでとは、ここまで通らないとは! そもそも目の前のこれは所詮仮の姿。まだ”竜”は真の姿を見せてはいない。そんなものにさえ、通用しないのか。

 ああ、殺すべきは、踏んでやるべき相手は、まだまだ後ろに控えているというのに!

 全てが徒労に思えるような打撃の雨を叩きつけ続けるベアトリスの視界に、ふと、映るものがあった。死にかけの虫のような姿をひきずり、這いずるものが。

 目が合った。視線が、ベアトリスを射抜く。

 ベアトリスは一瞬で己の役割を自覚した。

 分かりましたわ。今このときより、わたくしは道化。せいぜい、愚かしく踊ってみせますわ。さあさあ、たんとご堪能あれ!

 上半身を薙ぐように襲い来る衝撃波。両足を前後に大きく広げ、低く、体を沈めてかわす。深く深く、地に伏せるがごとく。

 両の足を踏みしめる。地に落ちる力が反転、天へ突き上げる威力と化す。その威力を大地から足、膝、腰、胴、肩、腕、そして拳へ。突き上げる。薫風が拳技の一、「犀角(さいかく)」!

 必殺の一撃はやはり障壁に遮られ、天地を揺るがす音が響き渡る。何一つ変わらぬ、徒労の音だ。だが意に介さない。

 続けて「虎爪(こそう)」、「燕(つばくろ)」を二連撃、そして「雷獣(らいじゅう)」、フェイントの「胡蝶(こちょう)」、そこから踏み込んでの「獅子吼(ししく)」、さらに踏み込んでの「熊屠(くまごろし)」、一撃一撃に高純度の殺意を込めて、放つ、放つ、放つ、放つ、放つ!

「何たる痴れ者、結局何も変わらぬではないか! これ以上、妾を舐め腐るな!」
「あらまあ、そうおっしゃらずに。ここからは根比べですわ。あなたと、わたくしの」

 踏み切る。宙を舞う。前方回転からの鳴鳥狩(ないとがり)。間髪入れずに落雲雀(おちひばり)。身を翻して青鷹(もろがえり)。全て、完璧に防がれる。
「あらあら」
 宙を翔けながら笑うベアトリス。
「しかしまだまだ、これからですわよ」
「――貴様ァ!」

◇ ◇ ◇ ◇

 じわじわと地を這うヘリヤの脳裏に、過去の記憶が鮮明に蘇り始める。

 おお、これが噂に聞く、死に瀕したものが見るという幻か。一説によれば、どうにかして死を避ける手段をこれまでの記憶から探し出すためだとか。ということはやはり私は死に向かいつつあるのか。

 そう思いつつも、ヘリヤの心は不思議なほどに凪いでいた。だからなんだ。死に向かいつつある? わかっているさ、そんなことは。くだらないな。まあ、見せたいというのなら見てやろうじゃあないか。

 何を見たところで、やることは変わらんさ。

◇ ◇ ◇ ◇

 「魔術師ヘリヤ」ことヘリヤードが王立魔術アカデミーへの入学を許されたのは、彼が10歳のときであった。

 彼に家族や故郷はない。生まれ育った辺境の村は、彼が幼い頃に隣国との戦に巻き込まれ焼け落ちた。

 彼は焼け跡で焦げた妹の片腕を持ち泣いていたところを、たまたま通りすがった旅の魔術師――アカデミーの重鎮の一人だった――に拾われたのだ。

 魔術師はひとえに人道的見地から彼を救っただけである。アカデミーまで連れてきたのも、自分の身の回りの世話を任せる対価という形で衣食住を確保してやろうと思ったからだった。

 だが彼が類稀なる魔術の才を秘めていることがわかると、魔術師は彼を正式に弟子とし、あまつさえ異例の若さ――幼さ、というべきか――でのアカデミー入学さえも、周囲の猛反対を押し切って許可を出した。

 ここに、”魔術師ヘリヤ”が誕生する。

 以来彼は師匠の期待に応えるべく、魔術の研鑽に全力を注いだ。そして期待以上の成長を遂げてみせた。

 才能と熱意が正しい方向を向いていれば、人はどこまでも高みにのぼることができる。おそらくこの頃が、彼にとって一番幸福な時間だったのだろう。

 転機は彼が20歳のときに、突然やってきた。彼の師が、謎の死を遂げたのである。

 当時のアカデミーは、所属する魔術師たちがその主義主張によって2つの学派に分かれ、公然非公然の争いを繰り広げる場と化していた。すなわち、「探究派」と「実践派」である。

 「探究派」は、名のとおり魔術の深淵を探究、そしてそこから導かれる世界の成り立ち、隠された真実にたどり着くことを魔術の最大の目的とする学派である。

 それに対し「実践派」は、これも文字通り魔術を実践、正しく使用し、それを持って世の発展と幸福に寄与することを第一とする一派であった。

 どちらの派閥にも理想があり、信念があった。両派閥の違いはひとえに、その理想を実現する手段の違いでしかなかった。

 2つの勢力は、ある時点までは拮抗していた――「探究派」の有力者たるヘリヤの師がアカデミー内の自室で命を落とすまでは。

 その死体は、「人が見て、正気を保てるものではない」状態だったという。

 事故か、事件か。自殺か、他殺か。あるいは「実践派」が差し向けた刺客の仕業ではないか。真相は藪の中だ。ただ一つ確かなことは、有力者を失った「探究派」にとっては痛恨の出来事だった、ということだけだ。

 その事件を境に両派のパワーバランスは一気に崩れ、現在のアカデミーはその大多数を「実践派」が占めるようになっていた。

 その日から、ヘリヤは己の研究にただひたすらに没頭するようになった。周囲の好奇の視線も力を失った派閥に属するがゆえの嘲笑の声も意に介せず、ひたすらに己の信じる道を邁進していく。

 その結果、実力はアカデミー入学当初に比して遥か高みまで達したが、引き換えに彼の周囲からは人の影が消えていった。彼をあるものは「百年に一人の天才」と呼び、またあるものは「書物だけが友達の淋しい変人」と呼び、等しく彼を遠ざけていた。

◇ ◇ ◇ ◇

 師匠の死から3年後、アカデミーにて「師匠位階(マスタークラス)」の審査会が開かれた。

 「師匠位階」とはアカデミーにおける位階の一つであり、文字どおりアカデミー内での指導者的立場にある者たちの称号である。アカデミー内における権力者層であり、アカデミーで学ぶ者の一つの目標地点であった。

 無論、位階を得るにはそれ相応の実力と見識が(場合によってはそれ以外のものが)求められるため、何年か毎に開かれる会において先達の師匠位階保持者たちから厳しい審査を受けることが通例となっていた。

 アカデミーの大会議場にて並み居る師匠位階保持者の前に立ち、へリヤは彼らを静かに眺めていた。

 ヘリヤよ。
 前に立つ老魔術師の一人が、威厳あふれる声で語りかけてくる。

 師匠の死という痛ましい出来事を乗り越え、よくぞここまで魔導を練り上げた。君の実力はもはや一学徒に留めるべきものではない。よってここに、君を師匠位階に推薦するものである。

 その場に集った人数に比すればあまりにも謙虚な大きさの拍手が、ヘリヤに降り注ぐ。

 しかし、だ。
 響き渡る声を合図に、拍手がピタリと止む。

 ヘリヤは内心で呆れながら聞いていた。そら来た。茶番だなまったく。

 栄光あるアカデミーにて人を導く立場に立たせる以上、その見極めには慎重に慎重を期さねばならぬ。そこでだ、君に自分の力を示す機会を与えたいのだ。

 さらなる威厳を醸し出すように、十分に間をとって――聞く側に欠片ほどの感慨も与えていないことには気づかずに――老魔術師は宣言した。

 その課題は是非、君自身に選択してもらいたい。我々から提示することも無論可能だが、君はこれから人を教え導く立場に立つ者になろうとしているのだ。その第一歩はやはり自分自身で踏み出すべきだと我々は考えているのだよ。

 人の道と魔導探究の精神から逸脱しておらねば、何を課題と選ぼうと我々がそれをとどめることはない。さあ、今から一週間の猶予を与え

「お待ちください」

 老魔術師の語りを遮るようにヘリヤは口を開いた。大会議場に困惑のささやき声が広がる。

「課題ならば、実を申しますとすでに決めております。お許しをいただけるならば一週間と言わずにすぐに取り掛かりたいのですが」

 声がどよめきに変わりかけるのを片手で制し、老魔術師はヘリヤに問う。

 それは素晴らしい。して、如何なる課題に取り組むつもりかね。

「はい」
 相手に与える衝撃を計算しながら。ヘリヤは十分に間をとって宣言した。「私は伝説の存在、神話の生き物である”忌み野の竜”の寝所を特定いたしました」

 最早制しがたいどよめきが大会議場に巻き起こる。老魔術師はといえば、目を見開いたまま固まっている様子だ。思った以上の効果だ。ヘリヤは内心でほくそ笑んだ。しかし一切外にはもらさずにそのまま畳み掛ける。

「”竜”は人には及びもつかぬ高度な魔術の使い手であるといいます。もし仮に、”竜”の寝所に赴き、その魔術の神秘の一端でも持ち帰ることができれば、アカデミーにも多大な利益をもたらすことができると考えます」
「そ、それを、君がやるというのかね」
「そのつもりですが」
「しかし、君、それは」

 ”忌み野”に赴き”竜”にまみえ、あまつさえその秘跡を持ち帰る――まるで「実践派」のやることではないか。アンタたちはそう言いたいのだろう。まったくそのとおりだ。「探究派」とみなされている私が取り組むべきとは言えないだろうな。

 まあ、だからこそ私がやる意味があるのだが。

「異論がありませんのでしたら、時間も惜しいので早速取り掛からせていただきます。吉報をお待ち下さい」

 そう言って身を翻すと、ヘリヤは出口へ歩を進めた。背に魔術師たちの狂騒と怒号を受けて。

◇ ◇ ◇ ◇

 ふむ、これでおしまいか。なるほど、この旅の始まりを思い出させてくれたというわけか。全く、「探究派」だの「実践派」だの、実にくだらんな。

 で、何か得るものがあっただろうか。いや、特に無かったな。無かったが、一つだけはっきりしたことはある。

 昔から私は、舐められるのが心底嫌いだということだ。

 さて、ヤツは眼の前だ。さっさとその手を伸ばせ、ヘリヤ!

◇ ◇ ◇ ◇

 ”竜”は心底不愉快であった。

 目の前を小うるさく飛び回る羽虫は、不愉快な笑みを浮かべながら相も変わらず通用するはずのない攻撃を加え続けてくる。

 そも、”竜”たる自分に対して不遜に挑みかかる態度も不愉快ならば、その目に時折浮かぶ侮蔑の意思もまた不愉快。疾く疾く終わらせて、また眠りにつかねばならぬ。

 ああ、それもまた不愉快ぞ。今少しの眠りで妾は往時の力を取り戻せたものを。何故妾は目覚めてしもうたのか。

 そうだ、魔術師。

 たしかもう一人、ニンゲンの魔術師がおったぞ。羽虫にかまけて失念しておったが、たしかそやつに我が結界を破られたのではなかったか。それでそやつは、今、どこに?

 ”竜”の足に、違和感が走った。

 視線をやる。足元に転がる小汚いなにかから伸びた腕が、”竜”の足に触れていた。

「この、痴れ者がっ! 妾の身に触れるなど――」

 ……妾の、身に、触れる?

 祝祭の花火のような音と光の洪水が、”竜”の全身を駆け巡りはじめた。

「な、なんじゃ、と」

 弾け飛ぶ音と光が、”竜”を幾百年ぶりかの混乱に叩き落とす。”竜”の足で、腕で、尻で、鼻先で、細やかな魔術紋様が一瞬現れては、派手な音を立て消えていく。

ぱちん。

 最後に、一際派手な音を立て光が止んだ。”竜”の術式が、全て消え去ったのだ――足元の、一人のニンゲンの手によって。呆然としたまま、”竜”が口を開く。

「貴様……貴様……何者だ……?」
「私か?」

”竜”を下から見上げる顔には、会心の笑みが宿っていた。

「私は魔術師ヘリヤ。百年に一人の天才魔術師にして、いずれアカデミーの頂点に立ち、下らぬ派閥争いを終わらせる予定の男だ。せいぜい覚えておくがいい」

 ”竜”の背筋に髪の毛一筋ほどの戦慄が走る。だがその戦慄は”竜”自身も気づかぬまま、激しい怒りに塗り潰された。

「こ、の、」
 足元の羽虫を潰そうと、”竜”は大きく腕を振り上げる。

 ――その隙を見逃すベアトリスではない。

 遠間から跳び、体を捻る。赤い旋風が、中空に出現する。

 必殺の威力を込めた跳び後ろ回し蹴りが、”竜”の顔面に叩き込まれた。

 衝撃と同時に練り上げられた”気”をも叩き込まれ、”竜”は滅茶苦茶な回転をしながら後方に吹っ飛ぶんだ。そのまま水切りの石めいて地面に幾度の衝突を繰り返しつつ、遥か後方の瓦礫の山に突っ込んで止まった。

「や、やったのか」

 問うヘリヤに対して、ベアトリスは視線を”竜”の方から離さずに言った。

「まさか、ようやく一撃叩き込んだだけですわ。ですので魔術師殿」
 ヘリヤの方を向くベアトリス。その顔には満面の笑みが浮かんでいた。

「逃げることと、いたしましょう」

第3話 「為すべきとき」 完 第4話に続く

そんな…旦那悪いっすよアタシなんかに…え、「柄にもなく遠慮するな」ですって? エヘヘ、まあ、そうなんですがネェ…んじゃ、お言葉に甘えて遠慮なくっと…ヘヘ