脱却への圧力
訳者コメント:
コントロールでがんじがらめになった人生に喘ぎながら、そこから降りて抜け出す勇気を持てないでいると、魂が無意識のうちに状況を壊しにかかります。
私にも経験があります。会社で押し付けられる無理難題と、パワハラとも言えるような上下関係。それが家庭に染み入って結婚生活も軋み始める。それが頂点に達したとき、3.11原発震災というショックが襲う。常連という以上に入れ込んでいた、親友のレストランが廃業して夜の居場所もなくなる。妻からは離婚を言い渡され、反原発運動から会社での立場も危うくなる。そんな中で出会ったフォレストガーデンの考えに目覚め、パーマカルチャーを学び、新しいパートナーと出会い、もう会社を辞めるしかないと決心するところまで、やっと到達したのです。まさに、脱却への圧力が働いていたのだと思います。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
5.5 脱却への圧力
私たちが人生を弾圧しコントロールするとき圧力が発生しますが、その捌け口を見つける必要があります。通常その解放は後ろめたいものであり、しばしば秘密裏に行われ、私たちの創造的な生命力、つまり私たちの神聖な本性を、一般的には些細で、無意味で、本業とは縁遠く、時には明らかに破壊的な活動へと向かわせます。
社会が差しだす役割のほとんどについて、私はこう言います。「あなたはそれ以上のことをするためにあるのです。」イヴァン・イリイチの言葉を借りるなら、私たちの住む世界では「16年間の公教育によっても押し潰され型にはめられなかった者は不適合」なのです[22]。「時間通りに」仕事に行かねばならないという考え方に初期の産業労働者は愕然とし、産業労働の退屈な反復を拒否しましたが、結局は飢餓の恐怖に追い詰められ従う他ありませんでした。本当に自尊心のある人間なら、生存を脅かされるようなことが繰り返されない限り、炭酸飲料やチューインガムの販売に人生を費やしたりするでしょうか? 社会の略奪行為に加担するのは屈辱です。先日ある企業の重役が、自分の仕事は顧客に嘘をつくことだと告白しました。もう一人は、自分の仕事は顧客を脅して本当は必要のないデジタル・セキュリティ製品を受け入れさせることだと言っていました。あるエリート弁護士は、自分の仕事を「金持ちのクソ野郎から金を巻き上げて、別の金持ちのクソ野郎に渡すこと」だと表現しました。ペンシルベニア州立大学での私の仕事のひとつは、学生に成績をつけて評価を下すことです。確かに、面白い仕事やクリエイティブな仕事、おそらく有意義な仕事に就いている幸運な人たちはたくさんいますが、たとえ仕事が好きでも、そのために何を我慢しなければならないでしょうか? 経済全体が偽りのニーズを創り出し満たすことを中心に回っている以上、屈辱は避け難いのです。私たちの組織が役割の標準化に依存している以上、避け難いのです。企業の収益性や存続でさえ人間や地域社会の価値観と相容れない以上、避け難いのです。私たちは皆それを知っていながら、参加するしかないと感じています。人々や環境に対する不正、屈辱、劣化に加担することは、それ自体が屈辱的なのです。人間の神聖な魂をこのようなことに加担させるには、何が必要でしょうか? 否と言えないように、魂を挫く必要があるのです。
手を抜くこと、成績のため、顧客のため、上司のため間に合わせの仕事をすること、本当はどうでもいいと思いながら仕事をすること、給料をもらっているからという理由で仕事を気にすること。この全てが屈辱的なのです。自分の仕事を芸術以外のものにするのは屈辱です。それこそが私たちの使命であり、それ以外の何物でもありません。昔、自分が仕事で何をやっても本当にどうでもよかったと気づいた日のことを、私は決して忘れないでしょう。私は同僚と新しいコンピューター・オーディオ機能について打ち合わせをしていましたが、みんなとても興味を持っていたようでした。自社のソフトウェアにどうやって組み込むか、活発な議論が続いていました。私は部屋を見回して、こう思いました。「待てよ、君たちは本当にこのことを気にかけているの? 私たちはみんな気にかけている振りをしているだけだと思っていたよ。」その瞬間、私はお金をもらっているから気にかけているだけなんだと気付きました。この気付きがもとになって、その後数週間で私はだんだんパニックに陥っていきました。「これ以上のものがあるはずだ」と私は思いました。「本気で何かを気にかけるというのはどうだろう? 大好きな仕事に全精力を注ぐのはどうだろう? この人生でそれを手に入れることはできないのだろうか?」
挫かれていない人間の壮大で創造力あふれる生命力を受け入れることのできるような職は、この社会にほとんどありません。世界をコントロールの下に置くためには、この創造的な力を封じ込め、それをできるだけ多く無害な方法で消費する必要があります。現在の体制にとっては無害でも、個人にとってはそうではありません。私が知っている中毒者やアルコール依存者はみんな、例外なく、類まれな創造的エネルギーに恵まれ(あるいは呪われ)ていますが、そのエネルギーを中毒に注ぎ込んで焼き捨てています。また、強迫観念や衝動、趣味、神経性チック症、過度の運動、過食、過剰労働などに振り向ける人もいますが、そうやって依存者の「人生が裏切られた」感覚を薄めようとするのです。
小さい人生に服従するとき、私たちは自己への裏切りという感覚を逃れることができません。それは最も貴重な財産の略奪に加担しているという感覚です。社会が提供する役割は、神聖な存在である私たちに相応しくありません。販売員というキャリアが単に私の尊厳に値しないというだけではなく、誰の尊厳にも値しません。このような仕事を長く続けられる人間はいません。しばらくの間は楽しむこともできるでしょう。数日や数週間は、その仕事を完全にマスターし、学ぶべきことを学ぶのに必要です。私が経験した最高の仕事のひとつは、大学の食堂での皿洗いでした。自分の作業効率を最大化できる一連の手の動きを考え出したり、厨房の仕組みを学んだり、他の皿洗いの人たちと食べ物を投げ合ってふざけたり、トレーをワゴンに乗せに来た友人たちに皿洗いのホースで水をかけたりするのは楽しいものでした。私もしたように、みんなしばらくはこういう仕事をすべきです。1日に2〜3時間とか、週に2〜3日とか。貧困と絶望に負けてそのような仕事の奴隷となったとき、初めてその仕事は屈辱的なものになるのです。
喜びをもって美しい宇宙の創造に参加するという人生の目的そのものを、神聖な魂が見失ったなら、人はどんな方法を利用してでも、自分自身に優しくすることでそれを補うでしょう。利己的で貪欲に見えるかもしれませんが、本当は足りない何かを探しているだけなのです。もちろん、食べ物や、物質的な所有物、肉体的な美しさ、他人に対する権力や、お金がいくらあっても、創造的な可能性を表現し、他の生命との親密なつながりを体験するという、神聖な存在としての人の欲求を満たすことはできません。ここに分断の傷が二つの形で現れます。自己の神聖な創造的本性からの分断と、他の人々や自然からの分断です。
こうして、我が儘と強欲を駆り立てる権利意識を生み出す源は、私たちは生まれながらの権利を奪われているという、真っ当な感覚なのです。何かが欠けているのですが、それを探す場所を間違えているだけなのです。古代のスーフィーの物語に、街灯の下を手探りで歩く、賢者にして愚者のムッラ・ナスレッディンの姿が描かれています。通りがかった人が尋ねます。「ムッラよ、何を探しているのですか?」
「ああ、家の鍵をなくしてしまったのです」と不運なナスレッディンは答えました。
「そうですか、最後に見たのはいつですか?」
「思うに、見失ったのはあの木陰です。」
「じゃあ、なぜここで探しているんですか?」
「先生、あそこがどれだけ暗いかお分かりになりませんか? 私はこの街灯の下の、よく見えるところを見ているのですよ。」
私たちに欠けているのは、故郷へ帰るための鍵、つまり私たちの存在の神聖な本質と再会するための鍵に他なりません。残念なことに、私たちは鍵のある恐ろしい影の所を見る勇気がなく、代わりに欠けているものを安全な場所で探すのを好むのです。私たちは生存の不安に支配されるあまり、その領域から敢えて出ようとしないのです。お金、美しさ、キャリア、権力、名声、財産など、私たちが人生の目的の代わりに追い求めているものの全てが、人と資源を自分の思うがままに使える能力、つまり自分の生存と結び付けられていることに気付いてください。私たちは恐れるよう仕向けられているのです。
ここからは良い知らせです。人間の魂は決して挫かれることなどなく、どんな手段を使ってでも間違った人生に抵抗し続けます。魂は野生のようなもので、どんなに強固な家であっても、いずれは根や腐敗や風雨によって崩壊させます。私たちがどれだけ状況をコントロールしようとしても、魂はそれを逃れる状況を作り出します。まず、不安と不満が高まるでしょう。朝起きて出勤するのが面倒になり、一日や一週間がまだ始まってもいないのに、一日の終わりや週末や休暇を楽しみにしている自分に気付きます。できるだけ苦労せずに仕事の責任を果たそうと努め、手を抜き、怠け、必要最低限のことしかしなくなります。仕事を続けるには意志の力が必要になります。朝起きて何かをするのは、徐々にではあっても否応なく、耐え難いものになっていきます。目覚まし時計や、(集中力を高める)コーヒー、お金や昇進などの外的な動機で自分をコントロールします。「仕事を辞めたらどうなる?」という恐れもコントロールの動機にします。普通この時点で別の場所にチャンスが現れますが、私たちは古い仕事を辞めて未知の世界に飛び込む勇気を、持つかもしれませんし、持たないかもしれません。これが出来なければ、自己破壊の段階が始まります。何度か危機一髪の場面を経験した後、私たちは仕事を辞められるような状況、あるいは解雇されるような状況を作り出します。それまでとは別の方法として、魂が人生の別の領域から災厄を招き入れるのです。多くの場合、健康、キャリア、結婚の危機が重なり、人生の目的に対する裏切りが他の領域にも及びます。間違った人生を歩むにはコントロールが必要で、それがなければ人は嫌なことからすぐに離れてしまいます。
自然の腐敗という変化から家を永久に守ることができないように、私たちの創造的な生命力をコントロールしたり、他所へ振り向けたりする手段は、どれも永久に働き続けるものではありません。そのどれもが、やがて耐え難いものになります。こうした気晴らしで最も強力なのは、アルコール、ヘロイン、コカイン、ポルノ、ギャンブルなどの依存症です。これらは抑圧された生命力を大量に消費し、肉体、生命、精神に多大な犠牲を強います。挫かれた生命力を消費することで、しばらくの間は間違った生活に耐えられるようになります。ふつう私たちは生存の脅威、つまり子供時代の強い身体的外傷や情緒的トラウマによって間違った人生を強いられてきたので、依存の対象は苦痛を一時的に回避したり改善したりするための手段でもあります。したがって、それらはコントロールの手段であり、現状の人生に対処する手段なのです。私たちの文化の形や構造から脱却するということは、この牢獄を作り上げている素材と向き合うことを意味し、それは恐怖と痛みに直面することを意味するのです。最も強力な習慣性薬物であるヘロインとアルコールの二つが生理的鎮痛効果を持つのも偶然ではなく、一般に認識されていないのは、すべての依存症が同じ働きを持つということです。ただ、本当に痛みを無くすわけではなく、単にそれを先送りし、コントロールし、一時的に感じないようにしているだけなのです。
どうか、依存症患者を意志が弱い、不道徳、甘えなどと責めないでください。彼らはただ自分の割り当て以上の痛みを受けただけなのです。私たち全員がそうであるように、彼らもまたコントロールという神話のさまざまな変種の一つに苦しんでいるのです。遺伝的素質と環境の気まぐれが、この痛みのコントロールの形を決めているに過ぎません。
アルコール依存症から立ち直ったジャック・エルドマンがこう書いています。「始めたころは、アルコールが出口の在りかを教え、痛みを消せると教えてくれました。[23]」事実上、アルコール、薬物、ギャンブル、テレビ、その他大小さまざまな依存は単なるテクノロジーであり、苦痛をコントロールするための技術であり、ありのままの人生を管理しやすくするためのアクセサリーです。でも罠がパチンと弾けます。「その時、何が何でも痛みを消せと命じるのです。」冷酷なことに、管理を必要とする現状の生活は、完全にコントロールのテクノロジーが生み出すものとなります。エルドマンが言うように、「これがアルコールの秘密なのです。あなたが治療していると思っている症状を作り出すのは、アルコールなのです。」
またしても技術的対策です。テクノロジーは自然を操作する手段であって、それを突き動かすのは快適さと安全への衝動であり、それが求めるのは痛みの回避と生存の保証です。しかし人生を生存競争として体験することそのものが、テクノロジー文化の産物なのであり、それが単に現実を受け入れるのではなく、コントロールしようとするのです。農耕を思い出してください。農耕は、狩猟と採集というエデンの園のような生活を、明日の収穫のためには今日の労働が必要だという苦役の生活に換えてしまいました。そうして人口が増え、耕作されていない土地の収容力を超えるとすぐ、私たちはテクノロジーの依存症になりました。もうそれなしでは生きていけません。そして、この労働の重荷を軽減し、飢饉の脅威や文明生活の苦難を軽減する発明が次から次へと登場しましたが、その根底にある不安と苦しみは増大するばかりで、21世紀初頭には頂点に達しました。「あなたが治療していると思っている症状を作り出すのは、アルコールなのです。」
アルコールとテクノロジーの両方を包含するコントロールが、コントロールを必要とする状況を作り出します。コントロールは罠であり、嘘であり、悪循環であり、片道切符の列車に乗ることです。そしてエルドマンはこう言います。「終着駅は地獄。」
ウェストバージニア州で露天掘りされる山々、何千キロにもわたってブルドーザーでなぎ倒されたシベリアの森林、白化したサンゴ礁、郊外の広大な駐車場、崩壊しつつあるアメリカ人の健康状態、世界中で小児がん患者が多発する世代、貧困層の絶望と富裕層の倦怠。これらを見れば、私たちがどこへ向かっているのか、疑う余地などあるでしょうか? 私たちがこの世に地獄を作り出していることを、疑う余地などあるでしょうか?
アルコール依存者が苦悩に満ちた人生の挫折をまた酒で癒すように、私たちは自分たちが作り出した世界の混乱を、同じことを繰り返すことで解決できると信じています。おそらくナノテクノロジーが、産業公害を最終的に解決してくれるのだと喧伝されています。
本当の危険が潜むのは、コントロールの企てが私たちの創造的な生命エネルギーの弾圧に成功したときです。内面化された強制の仕組みや外的な依存が、脱却しようとする魂の闘いを圧倒しようとも、魂は残された切り札を使うことができます。エスカレートしていく一連の危機が私たちを間違った人生から引き離すのに十分でないなら、死は自然な選択です。時には、その轍があまりに深く、自己の迷宮があまりに不可解なために、人はそこから出られないこともあります。(私はここで意図的な自殺のことを言っているのではありません。それは通常、苦痛を避けるための別の手段であり、コントロールしようとする最後の悪あがきです。)コントロールの下にある世界の矮小化された自己を脱却するという希望が失われたとき、本当の自己が分断という幻想からの最終的な脱出をやってのけるのです。
では、この考えを集団のレベルに喩えてみましょう。怖いですか? そうでしょう。なぜなら、私たちの文明、あるいは人間という生物種さえも、(無意識であれ)死を選ぶ可能性が大いにあるということになるからです。もしこの一点に結集する危機が私たちを自然からの分断という妄想から引き離すのに十分でないなら、人類の集合的な魂は核戦争のような大災害を解き放つでしょう。あまりに長くしがみつくなら、結果はそういうことになるのです。
注:
[22] イヴァン・イリイチ [Illich, Ivan,] Medical Nemesis(医療の宿敵), Pantheon, 1982年. p. 85
[23] ジャック・エルトマン[Erdmann, Jack]、ラリー・カーニー[Larry Kearney]と共著, Whiskey’s Children(ウイスキーの子). K Publishing, 1998年. p. 198. この本は、自分が依存症患者より優れていると考えている人に薦めたい。
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-05/
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