見出し画像

機械

訳者コメント:
古代エジプトでピラミッドを造ったのは、人間を部品とする巨大機械で、その操縦者である王に神の地位が与えられました。産業革命がもたらした機械の民主化で、全ての人が王になり神になりましたが、社会全体が巨大機械であって全ての人がその部品であるという状態は、ますます深まりこそすれ無くなりませんでした。人々に部品であることを強要する工場と学校は、同じ設計で出来ているのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


2.9 機械

ルイス・マンフォードによる機械の定義は、「人間の制御下で作動し、エネルギーを利用して仕事を行う、各機能に特化した耐久性部品の組み合わせ[73]」というもので、最初の機械は金属や木ではなく人間でできていたという説得力のある主張をしています。これは人間という構成要素が空間的に離れているため「目に見えない」機械ですが、先に書いた全ての点でそれ以降に作られたあらゆる機械のモデルといえるのは、その部品が「人間の骨や神経、筋肉でできているにもかかわらず、限られた仕事をこなすため厳格に標準化した単なる機械的要素に落とし込まれていた」からです。このような原始的な機械が生み出した物は今でも目にすることができ、最も有名なのがエジプトのピラミッドです。

自然を支配し、服従させ、そして最終的には超越しようとする人間の野心は、〈機械〉によって新たな深い領域へと拡大できるようになりました。農耕がこの野望の舞台を作ったのは確かですが、原始的な農村や牧畜の部族という規模では、人類が新しいものを生み出したことなど全くありませんでした。アリでさえ農作業に従事しますし、全ての生き物は他の種と共生的な協力関係を築きます。農耕は支配という精神構造メンタリティーを育んで分業の基礎を築きましたが、こうした発展が人類を新たな自然の力へ、というより、非自然の力へと変貌させました。人間が山を築くような超人的、つまり神のようなわざを行えるという証拠を示したのがピラミッドでした。しかも完璧な精度の幾何学的形状は、山にも優るものでした。

ニューエイジ思想のピラミッド学者は、古代の巨石には地球外文明やアトランティス文明の技術が必要だったに違いないと考えますが、これはある点で正しいことを言っています。機械文明という物の見方と方法が無ければ、建設することは不可能だったのです。そう、ピラミッドは機械によって造られたのです。金属や木材ではなく、人間でできた機械です。その部品は、水辺の農業の余剰によって燃料を供給され、文明という型によって、あらゆる機械が必要とする標準化された部品へと成形されました。古代エジプトにおける労働の専門化は、現代の基準から見ても目覚ましいものでした。採石の遠征一つを取ってみても、50以上の異なる資質と等級をもつ役人と労働者を雇っていました[74]。

遠くの採石場から運ばれた50トンのブロックを使って150メートル近い高さの建造物を建てられるのは、機械をおいて他にありません。「石のブロックは相当な長さの継ぎ目で組み合わされ隙間は400分の1ミリしかない一方、数万平方メートルにも及ぶ構造物にもかかわらず各々の底辺の寸法はわずか20センチしか違わない。[75]」大ピラミッドの底面は真の水平からわずか12ミリしか離れておらず、側面は真の東西南北とほぼ完璧に一致しています。「つまり、精緻な計測や、揺るぎない機械的精度、非の打ち所のない完成度は、現代だけが持つものではない[76]」のです。この偉業を成し遂げるための膨大な身体的エネルギー、機能の専門化、部品の調整、そしてその下支えに必要な社会的テクノロジーは、機械の特徴そのものです。

こういう機械を操る者は神のような偉業を成し遂げることができたのですから、エジプトから中国、メソアメリカに至る古代文明において、王が神のような地位を与えられたのも不思議ではありません。古代の巨石は、王が通常の自然の制約を受けないことを証明するものでした。神以外の誰が、山を築いたり川の流れを変えたりできるでしょうか?

もちろん、機械の部品を形作っているのが人間である限り、こうした神の力、つまり自然を超越する力は、機械を操る王だけに与えられるものでした。しかしその後、この労働機械という原型と同じ原理や考え方に沿って新しい機械が作られると、哲学者たちの心に新たな可能性が芽生えました。いつの日か誰もが王になり、何百人、何千人の労働力に匹敵するものを我々の意のままにできるかもしれない。同時に、自然の限界が次々と超越されるにつれて、ある意味で私たちはみんな神になれるのではないかという考えも生まれてきました。ギリシア神話の神々の特徴が、テクノロジーのユートピアという野心に酷似しているのには驚かされます。神々は不老不死、永遠の若さ、完璧な肉体美を持っていて、信じられないようなスピードで移動して空を飛ぶことができ、自然の働きを支配していました。中国の皇帝やエジプトのファラオの半ば神のような性質が予感させたように、現在の私たちはテクノロジーを通じて神々の地位を目指しているのです。

これまで見てきたように、この野心は、完璧なイメージを作り出そうとする衝動や、世界を有限な手段でコントロールできるような表象、つまり名前や数字に落とし込もうとする衝動に、すでに暗黙のうちに含まれていました。機械が飛躍的に後押ししたこのような努力は、まだ萌芽的とはいえ機械テクノロジーの発展に欠かせない前提条件でした。言語や数、時間、その他の記号表現が現れる前には、誰も機械など考えつかなかったのですが、そのためには世界を物として見ることが、概念的な基礎として必要であるとともに、それを大きく加速させます。

これらの生身の機械が持つ規則性、標準化、機能的な専門性は、そのような性質を全く認めない自然から大きく外れる一歩となりました。世界中で建築家が活躍する時代が人の心にますます強く刻み込んだのは、人間が他とは全く違う存在であり、自然界のどこにもない作品を、自然界のどこにもない方法を使って生み出しているという考えでした。確かに、このパラダイムシフトの始まりは最初の石の手斧でしたが、それは現在ある意味で自然物ではないと認識されています(そのことは人間が自然から切り離されているという偏見の裏付けでもあります)。しかし機械は、個々の人間の能力を超えた人工物を生産することによって、人間の分離を質的に異なる次元に引き上げます。

その後数千年の間に分業は徐々に進み、そうして古代に完成を見た巨大機械の複雑さも増していきました。動物の力、滑車、ねじと車輪、鉄と鋼はすべて、自然を支配し、切断し、コントロールする私たちの能力を高めました。しかしこれらの発展のどれも、社会の機械的構造そのものを縮小することはありませんでした。その中で各個人は「耐久性のある」「機能に特化した部品」、にすぎません。ここでいう「耐久性」とは個々別々という意味で、「特化」は農耕で始まった分業のことです。機械が予測通りスムーズに動くために、その部品は標準化される必要があり、したがって交換可能でなければなりません。この特徴はそれぞれ、現代の非人格化と不安の一因となっています。「標準化された各々の部品は...人の一部分でしかなく、仕事の一部分のみ働き、人生の一部分のみ生きることを余儀なくされたのだ[77]。」そして機械の領域、つまり専門的な分業の対象となる生活の様々な側面が拡大するにつれて、非人格化と不安は強まります。

現在、機械の領域はほとんど全てを含むまでに拡大しています。部品の標準化と大量生産が効率化への道であることを強調する工場制度は、製造業をはるかに超えて適用されています。例えば学校では、標準化されたカリキュラム、訓練されたオペレーター、「評価」による製品の分類など、すべてが工場を彷彿とさせます。その類似性は偶然のものではありません。学校は、工場を設計したのと同じ効率化を専門にする人々によって設計されたのです。そして非人間化も共通しています。ここでは一人一人にどんどん数字を割り当てていくプロセスから始まり、最終的には単なるデータの集合として私たちを定義するようになります。一方、農業の分野では、工業の論理と方法が土地そのものに適用されると、土地は同じように効率化を要求され、大地そのものを事実上の工場として捉え直すことになりました。

人間の一人一人を王や神にすることを約束した産業革命もまた、人間の自然からの分断を悪化させました。古代の巨大機械が個人の能力を超えた仕事を可能にした一方、蒸気機関は人間の生物学的能力を超える仕事を可能にしましたが、そのことで強まった考えは、人間が実は自然の一部ではなく、もしかすると我々の運命は自然の上に立つことかも知れないというものでした。老い、死、社会悪など、残された「未征服の」自然の領域は、既に打ち倒した他の限界と同様に、科学、テクノロジー、産業という抗うことのできぬ力の前に崩れ去るであろう。この〈テクノロジーの計画〉が概念的な推進力を得た最大の源は、工業技術という明らかに超自然的なわざでした。カークパトリック・セールが予見する厳しい結果は次のようなものです。

ある文化が限界を超越するという考えに基づくようになり…、それをほぼ地球規模の文明の目的として祭り上げるとき、そこに何が起こるか想像してみてほしい。予想できるのは、技術的な命令に支配されて生き、可能性に向かって攻める機械を提供することに絶え間なく専念するようになる…。限界を超越する手段を実際に開発し、慣習や共同体を破壊することは可能であり、それゆえに正しいと考え、雇用と義務の新しいルールを作り、生産と消費を拡大し、仕事の新しい手段や方法を押し付け、自然の中心的な力をコントロールし、あるいは無視するとき、その文化に何が起こるかを想像してみてほしい。強力で拡張的でプライドが高く、かなり長い間にわたり存在することは間違いないだろうが、最終的には、それが幻想の上に成り立っており、秩序ある世界には社会・経済・自然的に踏み越えてはならない現実の限界があり、それが征服よりも重要なのだという真実に直面しなければならないだろう[78]。

そして〈機械〉が私たちに与えたのは、自然の限界を超越し、バベル人のように、天に昇り神の力を手に入れようとする自信と手段でした。預言者、詩人、ラダイト[19世紀初頭のイギリスで機械化に反対した熟練労働者の組織]を別にすれば、私たちがこの計画に疑念を抱き始めたのはごく最近のことで、今まさにその失速が明らかだからです。失速の理由の一つを予言していたバベルの物語では、互いに理解できない言語が飛び交い、塔の建設を調整することができなくなっていました。それと並ぶように、テクノロジーの計画全体を可能にする細かい分業は、やがてその労働を管理することの困難を生み出し、あまりの混沌のため努力はそれ自体の重みで崩壊します。これは科学の世界でも見られ、超専門化によって様々な分野が互いに近づき難いものになります。分野間のコミュニケーションは不可能になります。それぞれは狭い問題の解決に向けて前進しますが、全体的な問題はますます絶望的になります。

蒸気を動力とする産業がもたらした直接的な結果は、人間を神にすることではなく、奴隷にすることでした。労働者にとって、生物学的限界の超越は生身の人間のリズムを機械のリズムに従わせることを意味しました。機械は疲れを知らず、食事も睡眠も休息も必要としません。カークパトリック・セールはこう表現しています。「工場所有者に課せられた仕事は、労働者が機械の要求に応えるため規律正しく働くようにすることであり、アンドリュー・ユーアの言葉を借りれば、『人間を訓練することで、漫然と働く習慣を捨てさせ、複雑な自動機械の変わらぬ規則性と一致させる』のだ[79]。」工場は、近代的な労働観の始まりではないにせよ、重要な胎動であり、「漫然とした」生物学的衝動を否定するために自らを律しなければならないものでした。労働は苦役となり、機械の機能のように反復的で変化のないものとなりました。

労働もそうでしたが、製品も同じでした。名付けや数のような初期の文化的テクノロジーが対象物の無個性化を示唆するものであったとすれば、工業はそれを製品の標準化と均一性を重要視することで実現しようとしました。ごく少数の例外を除けば、自然の物は唯一無二で、変化に富んでいます。工業はその逆を求め、製品の不自然な均一性が人間と自然との断絶をさらに強めることになりました。このような大規模な画一化とともに地域差が崩壊し、人々はどこでも同一の製品を食べ、身につけ、使い、同一の労働をするようになりました。この変化の結果が、21世紀初頭のアメリカの景観に見る均一性なのが分かります。ジェーン・ホルツ・ケイが言う「高速道路出口の景観」を構成するのは、どこでも同じ道路、住宅団地、フランチャイズ店、スーパーストア、ショッピングセンターです[80]。

最後に、工場を特徴づける標準化、均質化、機能の専門化は、機械社会の住人も同じように特徴づけます。マンフォードの巨大機械で始まったものが本当に消えることはなく、さらに深まっただけでした。私たちの専門分野が私たちを定義し、私たちの存在を正当化します。「消費者」や「労働者」として一括りにされ、世論調査や社会科学者のカテゴリーに統計的に分類された私たち人間もまた、無個性な存在にされ、かつては自然や親族との唯一無二な関係から生まれていた個性を奪われました。

産業が結論へと導いたのは、記号の文化によって心理的なレベルで始まり、農業によって土地に投影された、自然の落とし込みでした。それ以前の発展が世界を物へと落とし込んだのに対し、産業は物を商品に、時間をお金に、そして人間を消費者に変えました。言い換えれば、世界は全てお金に変換されているのです。お金は無名性、抽象性、無個性の極致であり、第4章で取り上げる物語です。

それでは、専門化の過程をすべて取り消して、分業のない社会に戻る以外に希望は無いのでしょうか? そこに依存する技術はすべて廃止するしか無いのでしょうか? 読者のみなさんを絶望的な気分に置き去りにしたくはないので、後の章をちょっとだけお見せしましょう。じつは、専門化が個人の縮小につながるのではなく、個人の充足につながるようなシステムがあります。そのようなシステムのモデルは、あなたの椅子に座っています。それは人体を構成する細胞の社会です。そのような社会の器官はすでに成長しつつあって、この有機的・生態学的な社会こそが、滅びゆく機械文明にやがて取って代わるでしょう。


前< 栽培と文化
目次
次> 宗教と儀式


注:
[73] ルイス・マンフォード [Mumford, Lewis,] The Myth of the Machine: Technics and Human Development, Harvard/HBJ Book, 1971. p. 191
[74] マンフォード [Mumford,] The Myth of the Machine: Technics and Human Development, p. 193.
[75] 同, p. 196.
[76] 同
[77] 同, p. 212
[78] カークパトリック・セール [Sale, Kirkpatrick,] Rebels Against the Future, Addison Wesley Publishing Company, 1996. p. 59
[79] 同, p. 36
[80] ジェーン・ホルツ・ケイ [Kay, Jane Holtz.] Asphalt Nation. University of California Press, 1998, p. 55.


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-2-09/

2008 Charles Eisenstein



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?