行きつけの居酒屋と授業参観
母の行きつけの飲み屋さんに母と行ってきた。
20席ほどのお店で、40代の店主さんが一人で料理をし、刺身や焼き魚、焼き鳥がメインで、たこわさや鶏皮、梅水晶などお酒のツマミも豊富に取り揃え、素材の質が、今できたあたたかさがうれしいお店だ。
母が会話の中で出る空間の話しで、このお店の頻度は高く、常連さんとの会話の様子をよく聞いていたので、その空間を、何よりお店での母の姿を僕はどこか楽しみにしていた。
家族であると重ねてきた時間があるためか、または母や親、息子や兄、弟といった続柄があるせいか、余程意識しないと、一人の人として新鮮に向き合うことが難しかったりする。
だからか、母が、一人の人として行きつけでその中でどういうふうに振る舞うか、どういう人かを、またそのお店の中での一人の人間としての関係性を見れることが楽しみであった。
幸か不幸かいつも話しに出てくる常連さんは来なかったが、いつもこんなメニューを頼んでる、こないだはあの席でこんな人と話した、と思い出が次から次へと出てきて、大将と冗談まじりに話しているのも見れて、いいお店といい時間を重ねられているんだなぁと、どこかホッとした。
でもところで、この思いって何かに似てないか?
と思ったら、学生時代にあった授業参観なのではないかと思った。
じぶんの子どもが、子どもの中でどう過ごしているか、どういう表情で、どんな子と、どんな話しをしているか、どう振る舞っているのか見てみたい、というそれではないか、と。
愛する人がじぶんと居ないときの姿も見てみたい。
その姿が普段と変わっていても、変わっていなくてもどちらでも、きっといとおしいと感じてもらえるのならば、そういう空間をシェアすることって、実はとても素敵なことではないか。
と思えた夜でした。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
でも一つだけ注意点は子どものが不自由で選べないことが大人よりはるかに多いということ。
それは「する」だけじゃなく「しない」ことすらも。
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