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作者が透けて見える小説は駄作?

僕の小説を読んだ知人から「この作品、自分のこと書いたんでしょ?」と言われて恥ずかしい思いをしたことがあります。

物語に入っているときに作者の顔が透けて見えたら急に現実に引き戻されるし、興醒めだし、作家としての腕のなさを指摘されたような気になったからです。

で、それ以来、作者の影はできるだけ作品中から消そうと思ったわけですが、数年やってみて、いや、ちょっと違うかもしれないと思い直しました。

作者の性格そのままのキャラを登場させる手は何度も使わないほうがいいのは間違いないけど、作者の主張まで消し切るのは作家性の自己否定かもしれません。

主張をオブラートに包んでさりげなく提示するテクニックは必要だし、作品を否定された時に自分が否定されたと思わない程度に作品と自分の間に距離を確保しておくことはメンタル防衛的に大事です。

しかし、何を美しいと思い、何を醜いと思い、何に涙するのか、そういう作家自身の感性や価値感や積み上げた人生観が根っこになかったら、誰が書いたかわからない無色透明の作品が出来上がるだけのような気がします。

小説を書くという行為が全人格的な行為だと僕が思う所以はココです。キザな言い方をすると、作家は生き様で勝負する職業、ということです。

「作家になりたかったら人間を磨け」的なことをどこかの作家が言っていた気がしますが、その言い方には若干の反感を覚えつつも、一理ある意見かもなとは思います。別に聖人君子だけが作家になれるという意味合いではありません。「人格に他とは明らかに異なる濃厚な味付け」がなければ、唯一無二の作家性を確立することなんてできない、という程度の意味合いとして同意できるということです。

中途半端な変わり者じゃだめだ。徹底的に変人となれ。
言いたいことは隠せ。しかし、しっかり込めろ。

そういうところでしょうか。

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