私のばあちゃん
ばあちゃん、私のエッセイにはおばあちゃんが何人も登場するが今回は母方の祖母。
私はおばあちゃん子だった。
私とは似ても似つかず鼻が小さく、ややおデブちゃん。
じいちゃんに厳しい。(昔たくさん苦労させられたから、理由がかけないけどそれはまあ仕方ないくらいの)
ばあちゃんの家はいつもとにかく人が集まっていた。お茶の時間は、地域指折りのスピーカーおばあちゃん達が集まって井戸端会議の毎日だった。お茶菓子目当てに私もよく同席していた。
どこどこのばあさんは色目使ってる。などのくっだらない話もあった。おかげで当時から耳年増である。
実家を出て初めてわかったのが、ばあちゃんの声のボリュームが異常に大きい。相乗効果でヒートアップするのがしんどかった。異常さにそれまで気づかなかったのか不思議なくらいだ。
共働きの両親が迎えに来るまで、おばあちゃんちで過ごすのがおきまりだったのだけど、高学年になる頃はばあちゃんちの数メートル隣にうちの家を建てた。毎日うちに来て母の代わりに家事をしてくれていた。毎週土曜は決まってカレーを作って待っている。私が小学生の頃はまだ土曜も学校があったからね。
外の洗い場で上靴を洗ってからご飯にありつくのが習慣になっていて、外まで漏れるテレビの音に、帰り道に捨て猫をどうにもできなかった時なんて泣きながら上靴を洗ったりして「生活笑百科」のメロディが流れてくる頃に終わらせ、今日のゲストは誰だろう〜と声を聞いて当てたりしてたな。
昼ごはんにありつく頃には、カレーの表面が膜になっていて、雑によそうと膜の塊が程よく入って、塊はやけにしょっぱく妙に好きだった。ごろっごろの具の、典型的な家庭のカレー。中辛と甘口を混ぜていたけど、ちょっとそこは分かりにくかった。
不思議なのは、カレーの日だけはご飯の炊き加減が最高。その他のメニューの時は年寄り向けのお粥みたいな炊き方なのに…何故なのか、未だに不明だ。
冬になると、カレーと交互にシチューの土曜もある。抜群に美味しい!それはもう濃厚で、とてつもなく美味しいのだ。おかわりせずにはいられなかった。
高校生の頃だっただろうか、台所で見てしまった。ばあちゃんは、シチューのルウを2倍入れていたのだ。。美味いはずだ。
おかげで成長期はかなり太った。
身なりに気を使っていて、男尊女卑で、義理堅くて、世間体に怯えていて、病院で貰う薬とコッコアポとリポDを毎日飲んでいた。
ばあちゃんはよく「湿布をはってくろ!」と言ってはあられもなく上着を脱ぐのだった。
巨乳で乳首がピンクだった。もちろんブラは着用無縁の世代。
思春期にうすぐろくなる自分の乳首に悩み、胡散臭い通販で「ひと塗りで乳首がピンクに!」みたいなやつを隠れてコソコソ使っていた私にはかなりのジェラシーだ。まさかばあちゃんにも無垢な部分があるとは。当時の私がメラニン色素云々を知っていたならそんなバカバカしい足掻きはしなかっただろうに…。
背中は見えないくせに少しズレると厳しい。貼ったフりをして、パチンと叩いて「はい貼ったよっ!」と弟が言うと「ありがとう♪」と喜ぶので、ばあちゃんの背後で私と弟は腹を抱えて声に出さないように笑っていた。今思うのは、イタズラをしたり揚げ足をとってからかっていた。なぜなら、じいちゃんをいじめるからね。
ブーブークッションを置いたり、お茶をコーラにすり替えたり。リモコンの電池を抜いたりあらゆるイタズラをした。私一人ではやらない。弟がいる時に、そそのかされるのだ。
ある日ネタに困ると、「そうだ!リポDを隠そう」ということになった。私たちが知る限り、ばあちゃんはリポDを欠かしたことがない。
弟はいつも、リポ中(中毒)と揶揄していた。
数本残してストックを隠した。
ある日学校から帰るとばあちゃんはうなだれていた。「どしたばあちゃん!」と近づくと「○○よ、薬局に連れてっておくれ…」頭をおすそ分けしたアンパンマンみたいになってる。
「あっ、これ禁断症状…」と思った。
弟がまだ帰ってきてないのが惜しいけど、可哀想で薬局に連れてっていくことにした。
ばあちゃんは薬局にあるありったけのリポDを買い占めた。
時代が時代なら、動画サイトに上げていたよ。
あの躍動!リポDの箱を見ただけで元気になってる!
家に帰るなりリポDを1本飲み干して、あーこれがないとばあちゃんは生きていけないんだよ。とマジな顔で言うんだ。もうばあちゃんには良薬ではないな。そもそも薬じゃないしな。
兄弟で、リポD隠しはやめよう、年金がリポDで消えてしまうよ。という話になったのでリポD隠しはそれっきりにした。
私が高校生になるころ。帰宅すると、弟が「○○(呼び捨て!)ばあちゃんが土手から落ちたらしーぜ!」
ばあちゃんはその頃はチャリンコを乗っていたのだけど、片足助走でそのまま目的地に着いちゃう感じだったので、危ないから自転車は乗るのはやめなよと家族みんなから言われていたのに。言う事を聞かない。
狭い土手を対向車が通り過ぎる時に避けようとしたばあちゃんがびっくりして転がり落ちたらしく、対向車のトラックの人が自転車を載せばあちゃんを連れて送ってくれたのだと。見送るばあちゃんが突然信じられないくらいのダッシュでトラックの人を追いかけお金を握らせたらしい。そのダッシュがこれまで見た事もなかったそうで、弟は一部始終を興奮気味で話してくれた。
もう魔神ブーだったよ、やべえ!ばあちゃん走れる!すげえ!!
うんわぁ、見たかった。それは見たかったわー。と盛り上がった。ていうか。何故金を持たせた!
ばあちゃんとは、孫の中でも相性が良すぎるというか、合いすぎてぶつかるという、不思議な仲だった。
借金のせいで割のいいフリーターをしていたから、祖父母の用事に割と都合がつく。手となり足となり動いていた。病院に連れて行ったりリポDを買いに行ったり、代筆したり白髪を染めたり…。
ショートカットにすると、「女の子は髪が長い方がいいぞ。」と理不尽なことを言うので「ばーちゃんだってちりちり短いパーマじゃん!もうパンチじゃん!」と言い返せば
「ばーちゃんは伸ばしたくてものーびーなーいーのっ。女の子じゃないわ、ばーちゃんだから」こんな不毛な会話ばかりしていた。説教じみてしんどくなるとじいちゃんのところへ逃げていた。じいちゃんと違って、指摘しかしないから辛くなる。母親のようになって欲しくないという思いで厳しかったのだと思う。理不尽で勝気できつめなばあちゃんだけど、相撲とお江戸でござる、東京フレンドパークを見る時は唯一大人しく穏やかに過ごせるひと時が好きだった。
息子夫婦の事業の失敗でばあちゃんちがなくなってしまう時は、泣きじゃくりうちに駆け込んできて私に、「たのむ、一緒にいてくれ」と勝手口からなだれ込むように家にあがってきた。
こんな理不尽があっていいものかと恨んだ。あれ程気丈で強いばあちゃんのこんな姿を見るのは初めてだった。
私の手を痛いほど強く握って、泣き崩れている。じいちゃんの作業場を取り壊す大きな音が聞こえてくる。あの時は忘れられない。本当に可哀想だった。幼い頃自分の家のように過ごしたばあちゃんの家が無くなるのだ。とてもとても悲しかった。取り壊しの間これは耐えられないと、ばあちゃんを連れ出したっけな。
なんでも買取ります。というホストみたいな2人組が来たときに、ボケた振りをして追い払っていた。そのあとコソ泥が引き出しに入れていた金の時計を盗んだ!○○お前だろう!と濡れ衣をきせられた時は憤慨したけど(あれは何だったのだ!?)わけがわからん、、
いよいよ認知症になった時、夜中にタクシーを呼び生まれ育った実家に行こうとしたときは別人のようになってしまった…そのあと、薬の飲み合わせを見直すと徘徊は無くなったが。ホームに入ってからしばらくは毎晩私を呼ぶので介護士さんたちはかなり苦労をされたようだった。頼むから会いに来てと言われ訪ねると、私をちゃんと認識してくっちゃくちゃの手を繋いで離してくれなかった。すごく嬉しかった。これは孫冥利につきる。
人の役に立つ喜びは最高の自己肯定だ。
飴玉1つを何時間でも舐めていられるというのを自慢してくるばあちゃん。プロレスのテレビ観戦は血圧が上がるから禁止されていたばあちゃん。愛犬にはめちゃくちゃ優しいばあちゃん。針に糸を通すのが早かったばあちゃん。編み物を教えてくれた。親に代わって面倒を見てくれた。お友達にいつも私を自慢してくれてた。
そうだ、ホームに会いに行こう。
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