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平戸ザビエル記念教会と松東院メンシアの墓(2024/7)   @長崎県平戸市


家族の用事やら流行病やらで少し時間が開きましたが、久々の投稿です。
先日のことですが、平戸の史跡をほんの少しだけ巡ってきました。


*過去の平戸の史跡巡りは以下の記事をご覧ください。


平戸は好きな町なのですが、自宅から車で片道2時間半かかるためなかなか行けず、実に4年ぶりの訪問になりました。
目的は平戸オランダ商館で開催中の「鄭成功とアジアの海」展を観ることでしたが、都合により十分に観ることができなかったので、後日鄭成功関連史跡と併せて再訪する予定です。

つきましては、今回は平戸ザビエル記念教会と平戸藩3代藩主、松浦隆信(宗陽)と松東院メンシアの墓を紹介します。

位置関係はこんな感じですね。


平戸を象徴する風景として観光パンフレットによく出てくる「寺院と教会の見える道」からの風景。その教会がザビエル記念教会です。


寺院と教会の見える道から撮影(2020年11月)
奥の教会がザビエル記念教会、手前にある寺院が光明寺と瑞雲寺。


城下から歩いても10分くらいですが、今回は車で教会の近くまで行きました。(行事の時以外は教会駐車場に駐車可のようです。)


平戸ザビエル記念教会。1931年に建てられたコンクリート造りのゴシック様式の教会。
献堂40周年時にザビエル像が設置され「平戸ザビエル記念教会」と呼ばれるように
なったそうです。


教会前にあるルルド。癒されます。


ザビエル像


ところで平戸は長崎県で初めてキリスト教が伝来した地ですので、ここで簡単に、平戸におけるキリスト教の歴史を振り返りたいと思います。

【平戸におけるキリスト教の布教】

イエズス会の創始者の一人として知られるフランシスコ・ザビエルは、天文18年(1549)に鹿児島に上陸し布教を開始。翌年にポルトガル船が平戸に来航したのを聞き平戸に移ります。その後京都、山口、豊後府内へと移ったためザビエルの平戸滞在はわずか数ヶ月でしたが、2度目の滞在では約2ヶ月間のうちに100人が入信したそうです。
当時の平戸領主、松浦隆信は貿易の利を得るために宣教師を歓迎。領内の布教を許可し、自身の代わりとして、重臣で血縁者であった籠手田安経こてだやすつね壱部勘解由いちぶかげゆ兄弟を入信させます。このため籠手田氏、壱部氏の領地である平戸島西岸、生月島、度島では領民の一斉改宗が行われ、信者は数千人にまで増えました。
ところが次第に仏教徒との関係が悪化。永禄元年(1558)にヴィレラ神父が追放され、永禄4年(1561)には商取引上の争いから日本人とポルトガル人との間に殺傷事件が起き(宮の前事件)、宣教師は平戸を避けるべく新しい貿易港として大村領の横瀬浦の開港を領主、大村純忠と交渉することになります。そして永禄5年(1562)横瀬浦にポルトガル船が来航します。その後ポルトガル船は、横瀬浦焼失後の永禄7年(1564)に再び平戸に来航しますが、それを最後に大村領への入港が既定路線となります。

以上は、南蛮貿易開始時の平戸におけるキリスト教布教の状況です。
なお『三光譜録』という後世の編纂書には「籠手田安経らの入信は石火矢(大砲)の技術を習得させることが目的だった」ということが書かれてあるそうで、大変興味深いです。当時は松浦党傍流である平戸松浦氏と宗家である相神浦松浦氏、そして松浦領と境界を接する大村氏が熾烈な争いを繰り広げている最中であり、武器(火器)の充足は何ものにも代えがたいものであったかと思います。私見ですが、永禄6年(1563)の大村純忠のキリスト教への改宗は、領主自らが入信する(松浦隆信の上をいく)ことで宣教師の信用を得、南蛮船の寄港地を領内に固定させる目的もあったのかもしれません。


閑話休題。
キリスト教史を続けます。


松浦隆信自身はキリスト教に改宗することはなく、次の領主、鎮信は隆信以上にキリスト教嫌いで、次第に領内のキリシタンを弾圧します。前述の籠手田氏、壱部氏も鎮信に棄教を迫られ慶長4年(1599)に一党600名のキリシタンを率いて長崎に退散。
ところが遡ること天正15年(1587)頃、平戸松浦氏と大村氏の間の境目協定が結ばれた証として大村純忠の5女メンシアが松浦鎮信の嫡男、久信に嫁ぎます。キリスト教の熱心な信者であったメンシアは義父の鎮信との確執に悩まされますが「棄教するくらいなら大村に帰ります」と強い態度で信仰を守り、嫡子の隆信(後の宗陽)を産んだことで家中から重んじられます。夫の久信は慶長7年(1602)に急死し、子の隆信が家督を相続。メンシアは平戸のキリシタンの拠り所となりましたが、寛永7年(1630)幕府の命により江戸に送られ浄土宗廣徳寺に幽閉され、明暦3年(1657)に82才で亡くなります。


大村純忠の娘達は皆熱心な信者だったそうで、千々石ミゲル関連で知られる長女のマリーナ伊奈(ただし、大村氏系図では早世したことになっている)、江上家種に嫁いだおふく、長崎甚左衛門純景に嫁いだとら、などが知られています。
(余談ですが、大村氏嫡流の血統は大村藩3代藩主、純信で絶えていますが、メンシアの子、松浦隆信の血筋は明治期まで続いているようで、純忠の血はメンシアにより松浦氏に受け継がれているのだと思うと感慨深いものがあります・・)


この松東院メンシアと子で3代藩主の松浦隆信(宗陽)の墓が平戸ザビエル記念教会の近く、正宗寺の境内にあるのでお参りしました。




3代藩主、松浦隆信(宗陽公)の墓。大きくて立派です。


宗陽公の隣にあるメンシアの墓。


松東院メンシアの墓。こちらも立派でした。


子の宗陽公にも先立たれ江戸で亡くなったメンシアでしたが、ザビエル記念教会のそばの小高い丘に宗陽公と並んで静かに眠っておられました。

古くからの貿易港として栄えた平戸にはまだ行きたい史跡がありますので、後日またご紹介できればと思います。


以上、お読みいただきましてありがとうございました。


参考文献
・「探訪 長崎の教会群 平戸・佐世保編」(2018.5/脇田安大/(一社)長崎の教会群情報センター)
・「旅する長崎学 キリシタン文化Ⅰ」(2006/五野井隆史、デ・ルカ・レンゾ、片岡瑠美子監修/㈱長崎文献社)


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