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江東寺訪問~涅槃像と松倉重政、板倉重昌の墓(2023/8)   @長崎県島原市

蔵出し投稿です。
昨年8月、夏の暑い日に島原市にある江東寺を訪問しました。

江東寺は島原市内の町中にある曹洞宗のお寺です。
位置関係はこんな感じで、湧水庭園四明荘など観光名所の近くにあります。島原城からも歩いて15分ほどの距離ですね。


島原の観光パンフレットに大きな涅槃像の写真が掲載されているのを見ますが、その涅槃像があるのがこちらの江東寺になります。


山門。曹洞宗のお寺です。


本堂


8.1メートルの涅槃像。大きい!


昭和32年(1957年)、奈良信貴山・福崎日精師の作で、見事なねはん像が造られました。このねはん像は、板倉重昌と松倉重政の霊を供養するために建立されたものです。

身の丈8.1mの鉄筋コンクリート造りのねはん像としては日本最大で、足の裏に大法輪の相(仏足石)が刻まれているのも最初だそうです。

頭部は、信者による写経1万巻が納められ、台座は歴代住職の納骨堂です。側には島原の藩主となり、島原城を築いた松倉重政と島原の乱鎮圧の追討として派遣され戦死した板倉重昌の墓碑もあります。

(島原市HP「江東寺・涅槃像」から一部抜粋引用)


板倉重昌と松倉重政の供養!?
そうなんです。こちら江東寺は松倉家の菩提寺となります。

江東寺はもともと、永緑1年(1558年)有馬晴信の弟・宣安明言和尚が北有馬・田平に開山しました。

その後、新城主・松倉重政が島原城を竣工させると、その地を城下町郊外の今村に移し、寛永1年(1624年)新城主・松倉重政はここを菩提寺と定め江東寺と改められました。

(引用元、上に同じ。最新研究では有馬晴信は永禄4年の生まれと比定されているので開山したのはおそらく「弟」ではないでしょうね・・)


松倉重政(1574~1630)は、島原城を築城した初代島原藩主。
元和2年(1616)有馬晴信の旧領であった肥前国日野江4万3千石に入封。有馬氏の居城であった日野江城、原城を廃し新たに壮麗な島原城を築城。石高に対し分不相応な築城のため領民に重税を課し、領内のキリシタンを激しく弾圧したといわれ、後の島原天草一揆につながったといわれている。寛永7年(1630)小浜温泉にて急死(暗殺説あり)。

板倉重昌(1588~1638)は、島原・天草一揆の際に幕府の上使として派遣されながら、功を焦って一揆軍に総攻撃を仕掛けたところ、逆に眉間を撃たれて戦死。
(島原半島に関わりのあるこのお二方、同じく「しげまさ」で少々紛らわしい・・)
境内にはこのお二方の墓碑が涅槃像と並んで建っています。


松倉重政の墓碑。墓は寛政4年(1972)の島原大変(雲仙岳の火山性地震およびその後の眉山の崩壊のこと)で流失し、現在の墓碑は文化11年(1814)に再建されたもの。右側にある石は後年発見された最初の墓石だそうです。


説明板



板倉重昌の墓碑。


こちらも島原大変で元の墓碑が流出し、再建後に発見されたそうです。後ろにある小ぶりの墓碑が最初に作られた墓碑。


松倉重政、板倉重昌ともに後世の評価が今一つ芳しくない武将ですが、江東寺の小高い場所に大切に祀られていました。
松倉重政については、前任地の大和国五條では名君として「豊後様」と称えられており、謎が多い人物ですが、近年、島原発展の基礎を築いた殿様として再評価の動きがあります。
私も以前、松倉重政および島原天草一揆に関する記事を書きましたので、併せてお読みいただけると幸いです。
(その後に得た新たな知見もあり、今後リライトするかも・・。)




*原城跡と島原天草一揆に関する記事です。城内に板倉重昌の死後160年に建てられた顕彰碑があります。


以上、お読みいただきましてありがとうございました。


参考文献
・『島原城まるわかりブック』(2024.3/吉岡慈文監修/島原城築城400年記念事業実行委員会)

*こちら、島原市のHPも参考にさせていただきました。



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