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島原城訪問(2020/7/23)~壮麗なお城と松倉重政について考えてみた(その2)

こちらの「その1」からの続きです。


4万石にしては大きい島原城の復興天守。

3 キリシタン弾圧
貿易の利を得たい松倉重政は、初めは領民のキリシタン信仰に寛容であったそうですが、将軍家光に叱責され、次第に苛烈な弾圧を加えるようになったそうです。1627年には島原半島にある雲仙地獄で、熱湯に浸けるなどの残忍な拷問、処刑を行ったと言われています。

しかしながら、それを遡ること数年前の元和年間に、幕府自体が京都(1619年)、長崎(1622年)、江戸(1623年)で「大殉教」とよばれる大弾圧を行っています。

面白いことに、当時の京都所司代、板倉勝重は後世で名奉行と言われており、初めはキリシタンに寛容だったそうですが、将軍秀忠の意向に従い弾圧(1619年の大殉教)を加えています。しかしながら勝重自身の悪評にはなっていないようです。それは、あくまで奉行として"将軍の意向に従った"だけだから。

外様大名でヘタをするとすぐに改易される松倉重政としても、お家を守るためには将軍の意向に従わざるを得なかったと思うのですが、こちらは小国とはいえ一国の主であるため、統治者であるため、暗君とのそしりを免れなかったのかもしれません。
そして、幕府のキリスト教政策への批判を逸らすスケープゴートになってしまった感さえもあります。

1630年に重政は小浜温泉で急死(暗殺説あり)。

次代である嫡男、勝家は更なる悪政を行ったため島原・天草一揆が起きたとされ、その責を負い、1638年に江戸時代の大名で唯一という斬首刑という極刑に処せられます。(せめて切腹では・・?)

松倉氏は元は筒井順慶に仕えた一族でしたが、重政は豊臣、徳川と政権が代わるにともない主君を変え、武功をもって一武将から大名までのし上がりました。築城の才もありました。もしかしたら、下剋上の世が終わるとともにその存在が疎んじられたのでは・・と思うのは私だけでしょうか。

最後に、地元ならではの松倉重政のエピソードを紹介します。

<エピソード1>重政は温泉が好きで、島原から小浜温泉をよく訪れていた。そこで急死したため、死後その場所を重政の官職名をとって「豊後湯」と呼ぶようになった。

小浜温泉にある「豊後湯の跡」碑。
小浜温泉、本多湯太夫邸跡。1614年、松倉重政が入封の際に三河国から来た本多家に、代々湯太夫として温泉の管理を任せたとのこと。現在は小浜歴史資料館になっている。この門は島原城の旧門を買い受け移築したもの。

<エピソード2>小浜温泉の近くの雲仙市千々石町の海岸に現在も松林が残っているが、これは重政が地元民の要請により防風林として植えた松との伝承がある。

<エピソード3>雲仙市小浜町にある「諏訪池(すわのいけ)」というため池は、重政が地元住民の要請により水田の干害対策として築堤を命じたとの説がある。

このような事績を知れば知るほど、住民の声に耳を傾ける藩主として一面が見えてくるのですが・・。

なお、重政公のお墓は島原市の江東寺にあるそうです。



(補記)
従来「極悪非道」「島原天草一揆の原因」と悪く言われていた松倉重政ですが、最近出たムック本「戦国のキリシタンたち」には大和五條では名君と言われたことを踏まえた紹介がされており、最近の評価は変わりつつあるのかもしれません。

*この記事は2020年7月26日のFacebookへの投稿に加筆、修正したものです。

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