『職業としての作家 ー 作家志望者におくる』②肯定のための否定ということ
現代では「職業」というものは、人格的価値とは何ら無縁のものとなった。それは「職業」が専門化・純粋化するに従って、いささかも個人の自己主張を許さなくなっていった結果である。人間的成熟と職業は別物と考えられるようになった。
一般的に「職業」の性格はこのように変化していった。では、そこに芸術はどのように関わっていったのであろうか。一口に言えば、芸術はしだいにその職業的性格を希薄化させていったのである。
預言者も指導者も専門家ではない。ゆえに芸術は「職業」ではなくなったということである。
この傾向は、造形性と効果のゆえにただちに社会における有用性と結びつく絵画とは異なり、純粋に精神的なるものである文学において著しかった。
文学は、「あらゆる封建的な絆を断ち切つて、精神の自由を、人間の自主を戦ひとるべく起ち上」ることとなった。しかし「精神の自由とは、あくまで個人的自我の充実であり、集団的自我の否定にほかならない」のである。
この文学の性格の変化は、作家の態度や作品の主人公のうえにも明瞭に現われていると福田は言う。封建的時代においては恥じ隠された「作家」といふ名称は、近代においては矜持と自負心を持って誇るべき名称となった。また、作品の主人公も騎士、王子、貴族に代わって、詩人、画家、芸術家が人気となり始めた。
芸術家は俗人と対立する存在とみなされ、英雄的な主人公となった。そして彼らの最大の支持者こそ知識階級であった。
こうして巷にディレッタントの群れが溢れるようになっていった。ディレッタントの特徴は、社会に対する奉仕を嫌い、職業の束縛を軽蔑し、技術への服従に甘んじない点にある。
「表現とは、たとへ否定的な形をとらうとも、やはり肯定と解決とに対する意思にほかならぬ」と福田は言う。
要するに、ここに職業としての作家(芸術家)とたんなる知識階級(ディレッタント)との明瞭な境界線があると、福田は言っているのである。
ディレッタントは否定のために否定するにすぎないが、作家(芸術家)は肯定のために否定する者だからである。
つづく
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