見出し画像

『職業としての作家 ー 作家志望者におくる』②肯定のための否定ということ

 現代では「職業」というものは、人格的価値とは何ら無縁のものとなった。それは「職業」が専門化・純粋化するに従って、いささかも個人の自己主張を許さなくなっていった結果である。人間的成熟と職業は別物と考えられるようになった。

「上司はかれの部下よりかならずしも人間的に完成してゐるとはいへない。かれは部下がその職分を怠り、あるいは自分の期待どほりに仕事をはたしえなくとも、それだけで部下の人間的価値をあげつらふことはできない(中略)ただ「職業」のそとに人間的価値の厳然として存在してゐるといふ前提が、かくも徹底的に現代を風靡した証拠である。」

『職業としての作家 ー 作家志望者におくる』福田恆存全集第一巻

一般的に「職業」の性格はこのように変化していった。では、そこに芸術はどのように関わっていったのであろうか。一口に言えば、芸術はしだいにその職業的性格を希薄化させていったのである。

「それはたしかに芸術本来の性格ではあらう ー その性格が十八世紀の終りから十九世紀にかけて、人間性の自覚、個人の解放に先覚的役割を演ぜしめることになつたのである。もはや芸術家はたんに貴族の生活の装飾、休養、娯楽に仕へるものではなく、自由を求めるブルジョアにとつて、人間性の最深なるもの、最高なるものの把握と表現とを目ざす預言者と見なされ、指導者と仰がれるにいたつた。」

『職業としての作家 ー 作家志望者におくる』福田恆存全集第一巻

預言者も指導者も専門家ではない。ゆえに芸術は「職業」ではなくなったということである。

この傾向は、造形性と効果のゆえにただちに社会における有用性と結びつく絵画とは異なり、純粋に精神的なるものである文学において著しかった。

文学は、「あらゆる封建的な絆を断ち切つて、精神の自由を、人間の自主を戦ひとるべく起ち上」ることとなった。しかし「精神の自由とは、あくまで個人的自我の充実であり、集団的自我の否定にほかならない」のである。

「文学はもはや生活の装飾や娯楽に資さうとしないばかりでなく、人間性の最深なるもの、最高なるものを把握し表現せんとする努力を通じて、社会との絶縁においてひたすら自我の完成を目ざすやうになつた。ここに文学は他のなにものにもまして、職業的性格の希薄化といふ道を辿ることになつたのである。文学は社会にとつて明白に無用であるのみならず、社会に対して敵意をもつものと化した。」

『職業としての作家 ー 作家志望者におくる』福田恆存全集第一巻

この文学の性格の変化は、作家の態度や作品の主人公のうえにも明瞭に現われていると福田は言う。封建的時代においては恥じ隠された「作家」といふ名称は、近代においては矜持と自負心を持って誇るべき名称となった。また、作品の主人公も騎士、王子、貴族に代わって、詩人、画家、芸術家が人気となり始めた。

芸術家は俗人と対立する存在とみなされ、英雄的な主人公となった。そして彼らの最大の支持者こそ知識階級であった。

こうして巷にディレッタントの群れが溢れるようになっていった。ディレッタントの特徴は、社会に対する奉仕を嫌い、職業の束縛を軽蔑し、技術への服従に甘んじない点にある。

「ここにひとつの大きな錯覚が生ずる ー それは創造しうるものとたんに鑑賞しうるだけのにすぎぬものとの混同である。」

『職業としての作家 ー 作家志望者におくる』福田恆存全集第一巻

「ひとびとは錯誤する ー なにゆゑ芸術家のみ社会に対する責任としての職業から免れる特権を有するのであらうか、と。ひとは芸術家の特権のみを見て、その宿命に耐へる苦痛を見ようしないのだ。社会的苦悩や矛盾を感受するといふことだけで芸術家にはなりえない。芸術は表現にはじまる。そして表現とは、たとへ否定的な形をとらうとも、やはり肯定と解決とに対する意思にほかならぬ。」

『職業としての作家 ー 作家志望者におくる』福田恆存全集第一巻

「表現とは、たとへ否定的な形をとらうとも、やはり肯定と解決とに対する意思にほかならぬ」と福田は言う。

要するに、ここに職業としての作家(芸術家)とたんなる知識階級(ディレッタント)との明瞭な境界線があると、福田は言っているのである。

ディレッタントは否定のために否定するにすぎないが、作家(芸術家)は肯定のために否定する者だからである。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?