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『スキやいいねを押すたびに自分が失われていく症候群』(短編小説)



    どこへ消えてしまったんだろう、あの私は。

    誰かの記事を読んで、足跡のような感覚で「スキ」や「いいね」を気軽にぽんと押す。特に基準はない。記事の内容や質よりも、書き手に少しの好感を持ってさえいれば、よほどのことがない限りはワンクリックで無色のマークに色をのせる。躊躇なく惜しげもなく誰かの記事に自分をマーキングする。それが私のSNSにおけるスタンスのようなものだった。

    でも、それができなくなった。

    目の前に並んでいる記事に対して何も反応できない。SNSのタイムラインを開くだけで気が滅入る。もはやフォローしている人たちの記事やツイートの一つひとつが異世界の出来事だ。ぜんぶ他人事で何にも感動しない。

    同時に、文章を書けなくなった。自分の意見を表明をすることは他の意見を否定することと表裏一体。自分で自分を決めつけるのが怖い。

    何も読めない。何も書けない。定期的に記事を発信しつつ沢山の人たちの記事やツイートに絡みにいっていたあの活発な私は気がつけば姿を消していた。そもそも私は何が好きでどんな考え方を持った人間なんだろうか。私は私の中で迷子になっていた。

    気分を変えようと思って部屋の窓を開けた。少しの冷たさを帯びた風がそっと春のかぐわしい香りを運んでくる。目を閉じて全身で自然たちの呼吸を感じとろうとすると幾分か心が和らぐ。そうして、インターネットの存在しなかったかつての世界を想像してみた。想像できなかった。


    私は思い切って医者に診てもらうことにした。

    ジャパンサイバーホスピタルのSNS心療内科。ウェブ予約カレンダーは激混みだ。患者数が年々右肩上がりに増えているという。事前にオンライン問診票を記入して診察日時を決めて予約する。

    この五十年ほどの間にSNSは世界のライフラインになった。医療も衣食住も教育も文化も娯楽も政治も行政もインフラも人類が生活を営むために必要となる何もかもが、SNSなしには成立しない。国民総SNS時代。こんな時代のさなかでSNSをまともに触れなくなるのは一大事なのだ。

    昔は医師と患者が直接面会して診察することもあったそうだけど、在宅で全てが事足りる今はどこの医療機関もオンライン診療のみ。かつて病院のベッドに宿泊する“入院”という言葉があったらしいが死語になったと聞いた。その時代はものすごく不便だったんだなあと想像した。




「これは、“スキやいいねを押すたびに自分が失われていく症候群”ですね」

    3Dモニターごしに医師ははっきりそう告げた。

「その名の通り、SNSでスキやいいねを無分別に押しすぎて自分を徐々に失っていく病気です。最近では結構ポピュラーな病気で、同じような症状の方はたくさんいます。似た病気に、“リツイートしすぎて自分の言葉がゼロになる症候群”というのもあります」

「そ、そうなんですかっ」

「はい。周囲に気を遣いすぎて、すべての記事や行事に顔を出さないといけないという強迫観念にとらわれていませんか。他人のさまざまな考えや意見に同意しすぎると、自分がどういう人間なのかわからなくなってしまうのです。個人差はありますが、感受性の豊かな人間ほどかかりやすい病気です」

「自分が失われる、ですか・・・・・・」

「はい。例えるならペットボトルの炭酸飲料です。蓋をあけるたびに、炭酸のシュワシュワが減っていく。蓋を開けっぱなしにすれば、いずれただの生ぬるい水になってしまう。まさに、今のあなたは炭酸の抜けた炭酸飲料です」

「・・・・・・」

「そのような感じで、自分らしさが薄まるにつれ、ツイートしたり記事を書いたりができなくなるという症状が徐々にあらわれ、最終的にはSNSを開けなくなります」

    ああ・・・心当たりがある。私は自分の考えそっちのけで他人の意見に全力でうなずいていた。タイムラインにお祭りの気配を感じれば、乗り遅れないように絶対に顔を出した。まわりが何かに感動していたら、取り残されまいとその感動のウェーブの中に身を投じていた。名のあるアカウントには隠すこともなく媚びへつらった。

「SNSの空気の中にどっぷり浸かっていると、誰かの意見や考えに、多少違和感があったとしても波風立てずに賛同した方が結果的に居心地が良いんですよ。流され続けるのはある意味ラクですから。人によってはそこから自分を見失い始めます。もちろん、確固たる自分軸を持った上で異なる意見に賛同できる人もいますよ」

「あの・・・・・・でもそれは協調性のようなものでは・・・・・・」

「生きていく上で協調性ももちろん必要でしょう。輪に参加したり、誰かの意見を認めたり、誰かの作品を褒めるのは良いことです。でも自分の感情や価値観をねじ曲げて無差別に“スキ”や“いいね”という言葉で受け入れるのなら、あなたじゃなくてもよくなる。スキオートプッシュロボットでもいいわけですよ」

「ロボット・・・・・・」

「賛同あるいは共感できない意見には無理に反応しなくていいんです。“沈黙”という選択肢だってあるんですよ」

「どうすれば症状は改善しますか? 」

「実はお薬はないんです。SNSの病気を治すにはSNSしかありません。もしくは完全にSNSをやめるか。あ、今の時代それは難しいですね。・・・とりあえずはタイムラインから目を背けず、他者の投稿を読み、自分が心から良いと思ったものだけにスキなりいいねなりコメントなりリツイートなり反応することです。つまり自分ならではの感動の解像度を上げていくんです。それを実践することで本当の自分らしさが浮かび上がってきます。そうなれば何かを書きたいという意欲が自然と湧いてくるでしょう」




     診察を受けてから私の心はフッと軽くなった。タイムラインの雰囲気に流されなくなった。名前が売れている人を特別視しなくなった。書き手への先入観もなくなって、本当の意味で心震える記事やツイートや作品に出会った時には、ありったけの言葉で賞賛した。

    そもそも私たちは一人ひとり違う。「空気を読む」や「迎合」のような“良い子アンテナ”を立てなくてもいいんだ。個人への共感・偏愛・応援・リスペクトなどの“好きアンテナ”さえ立てていれば。

    後日、私は数ヶ月ぶりにSNSに記事を投稿した。『サイバーホスピタルSNS心療内科で診察を受けてハッとなった話』というタイトルの記事だ。

    赤裸々に自分の思考を記したその記事の閲覧・リアクションの数字は過去最高を記録した。SNSのイチオシ記事にもピックアップされ、フォロワーが一気にどかんと増えた。

    不思議なことに、美辞麗句を並べた文章より、本音や感情をそのまま乗り移らせたような尖った文章の方が人がたくさん集まってくる。

    私のエッセイに誰もがウンウンうなずいてくれる。どんなに偏った意見を書いても共感してくれる。誰かを傷つける可能性のあることやちょっと過激なことを言っても「よくぞ言った」と受け入れて褒め称えてくれる。みんながスキやいいねやシェアをしてくれる。言葉を発した瞬間、それが“私らしさ”に変換されていく感覚。まさにエッセイは個性の錬金術のように思えた。

     私の乗った御輿をみんなが笑顔でかついで「わっしょいわっしょい」する。スキオートプッシュロボットだったあの頃の自分に、今の全能感にあふれた自分を見せてやりたい。そう思った。

    ふと、大切な何かが抜け落ちているような違和感があった。でもそれについて深掘りすると何かが崩れ落ちてしまいそうな気がして考えるのをやめた。




     しばらくして、私はまた書けなくなった。きっかけは、自分の記事にやってきた一人の若い女性のコメントだった。

「人生の先輩方の書く文章はどれも素敵で勉強になっています。ところで、◎◎さんの自分らしさって何だと思いますか? もしよければ教えてくださいませんか」

     返答に悩んでいたら何も書けなくなってしまった。

     SNSでの私は何を言っても褒められる。持ち上げてもらえる。でもそれがかえって私の心のそわそわさせた。私のまわりにいるフォロワーたちは味方のはずなのに味方じゃないような気もしてくる。

    そもそも私が思いつきで書いている言葉たちは、本当に私の個性なのか。SNS上でただそんな気分になっているだけじゃないのか。一人で舞い上がって私らしさを取り戻したつもりになっているだけじゃないのか。

    心の中に棲みついた小さな疑念はどんどん成長し、やがて口を大きくあけて私のハリボテの個性を食い尽くしていく。そうして私は再びSNSのタイムラインが怖くなった。


    後日、ジャパンサイバーホスピタルSNS心療内科に予約して二度目の診察を受けた。

「それは、“スキやいいねを無差別に押されすぎて自分が失われていく症候群”です」


(了)



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