共感は、正義より弱さに集まる。(映画『JOKER』レビュー)
当記事はネタバレを少し含みます。まだ観ていない方はご注意ください。
『ジョーカー』を観た。今さらだけど。
映画界を広く賑わせ、世界中でさまざまな議論を巻き起こした映画。アカデミー賞では惜しくも作品賞を逃したが、主役を演じたホアキン・フェニックスはその怪演で主演男優賞に輝いた。
先日、ゲオでブルーレイを借り、深夜に一人で鑑賞した。
もともと、noteでこうやってジョーカーのことを書くつもりはなかった。にも関わらずキーボードを打っているのは理由がある。自分を書かずにはいられない気持ちにさせたワンシーンがあったのだ。(なので、この映画で描かれている貧困層と富裕層の分断といった社会問題等の内容にまで踏み込む気はない)
「階段ダンス」と言われる、
映画史に残る約1分間。
白い顔のピエロメイクにグリーンの髪。真っ赤なスーツに黄色のベスト。内なる何かに目覚めたジョーカーが、両手をリズミカルに振り回し、高く足を蹴り上げる。自らダークサイドにくだっていくかのように、道化らしい軽快なステップで長い階段をくだっていく。
ゲイリー・グリッターの「Rock ‘n’ Roll (Part 2)」の小気味よい曲が、この“儀式”をより強烈に演出する。
悔しさ、苦しみ、悲しみ、怒り・・・ため込んできたさまざまな負の感情が混ざり合って一気に爆発したかのようなダンス。それは、背負ってきた暗く重たいものを全て投げ捨てたことを暗示するような軽やかさだった。アーサーがジョーカーになる瞬間だ。
このシーンにある種の清々しさを感じたのはなぜだろう。そして、自分の心身がすごく軽くなったような気がしたのはなぜだろう。ずっと考えていた。
僕だけじゃない。他の批評文を読んでいると、このシーンに心を鷲づかみにされた人があまりにも多い。監督をはじめとする製作陣は映画の象徴的な見せ場としてこのシーンを作っているだろうから当然といえば当然なのだけど、このダンスシーンには、客席に座る者たちを、この映画のなかにいるピエロの姿をした群衆たちと同化させるほどの魔力がある。
誰もが、自分ではない誰かになりたい瞬間がある。自分の容姿や生い立ちや考え方や価値観の全てが嫌になる瞬間がある。自分を縛り付けている全てを投げ捨てたくなる瞬間がある。
ジョーカーは、軽やかに、華やかに、その“脱皮の瞬間”を見せてくれる。「ほら、こんなに身軽だぜ。そんなもん捨てちゃいなよ」と語りかけてくるかのように。それが進化・退化のどちらであっても、ヒーロー・ヴィランのどちらへの変身であっても関係ない。人々は、窮地にいた人間の華麗な変身そのものに深い共感を受け取ったのではないだろうか。
誰かが言っていた。映画とは、他人の人生を垣間見ることだと。映画とは、主人公に自分の人生を重ね合わせることだと。
「階段ダンス」のシーンは、何かを持ちすぎた僕たちに、スクリーンを通して、何もかも手放して自由になる快感を疑似体験させてくれる。心身が解き放たれるような奇妙な感覚が確かにそこにあった。
この映画は、過去のバットマンシリーズとは切り離されて語られることが多い。もしバットマン色(アメコミ色)が強ければ、こんなにも世界中で共感を集めなかっただろう。それは、この物語が限りなく現実に近い虚構だからである。
最後に。
僕はあの不気味な笑い声を狂気とは言いたくない。彼が覚醒してもなお、そこには幾ばくかの悲しみや寂しさのようなものが混ざっているように思えてしかたないのだ。
読んでもらえるだけで幸せ。スキしてくれたらもっと幸せ。