オレンジの花__2_

小説『オスカルな女たち』15

第 4 章 『 決 意 』・・・3


     《 新しい風 》

「こん、ばんは…」
「は~ぃ」
懐かしい酒焼けのかすれた声。赤茶けたソバージュがカウンター内で揺れた。
「ぁ、あらぁ…つかさちゃん、久しぶりねぇ。すっかり大人になって」
久しぶりに訪れた場末のスナックは、毛量が減り幾分みすぼらしくなったママ以外、なにひとつとして変わりなく、匂いまでもが当時のままでタイムスリップしたのかと錯覚するほどだった。
「お久しぶりです…」
つかさは戸口で丁寧にお辞儀をした。
(なつかしい…)
土曜の20時だというのに、相変わらず店の中は閑散としていた。その様子にほっとしながら、あの頃と同じピアノ曲が静かに流れる店内に足を進める。すると、
「吾郎くん元気?」
変わったものもあるのだとすぐさま現実に引き戻された。
「まぁ…」
苦笑いで答えつつ、つかさは4つしかないのカウンター席の奥から2番目の椅子に座った。目の前に見えるカウンター後方のボトルラックの様子以外、店内はつかさを一瞬にして20年前に引き戻すことが出来た。だが、変わらないものなどないのだ。
「なにか飲む? ごちそうするわ…」
「ワイン、あります?」
「そんなおしゃれなものあると思う…?」
ママの対応も相変わらずだ。
「じゃ、焼酎のお茶割りをください」
「はいはい」
つかさがこのスナックでアルバイトをしていたのは、高校を卒業した18歳から結婚するまでの6年間、青春時代をここで過ごしたと言っても過言ではない。店に入るまで遠い昔のようなつもりでいたつかさだったが、扉を開けた瞬間、昨日のことのように思い出せるのが不思議なくらいだった。
「舵(かじ)くんに聞いたの?」
ポツリとママが言った。
「え? あぁ、うん…」
焼酎を差し出しながら静かに答えるママは、力なく物憂げな様子で、確かに時間が過ぎているのだと感じずにはいられなかった。なにより真正面に見える壁の、鏡張りのボトルラックには本来なら客にキープされた札付きのボトルが所狭しと並んでいるはずだが、今はもうほんの数本しか残されていない。さらにむき出しになった、まぶしいくらい青くライトアップされた鏡に映る自分を見ると、明らかにあの頃とは違う姿があった。
「ダメね、歳には勝てないわ…」
つかさの心情を察したのか、ママは力なく答えた。
「そんなこと…」
そう言ってしまって口をつぐんだ。実際にママを目の前にして、そんなことはない…なんてことは言えないからだ。
「つかさちゃんは優しいわね。アタシもいただいていいかしら」
「あ、どうぞ。ごめんなさい、気が利かなくて…」
「あらいいのよ。どうせね、そんなに飲めないの」
でも一滴だけ…そう言って、決して一滴だけではない量の焼酎を自分のグラスに注ぐママ。そんなところも相変わらずだと、つかさは小さく微笑んだ。
「懐かしいわね」
「えぇ…」
「吾郎くんとは、仲良くやってるの?」
その言葉にはつかさは無言で答えた。だが、ママとの共通の話題と言えば、吾郎とのことが唯一なのも事実だった。
つかさはこのスナックで吾郎と出会った。近隣の公園施設の修繕工事の際、草木の伐採や花壇の整備等を請け負ったのが吾郎の勤める造園業者だったこともあり、それ以来吾郎はこの店の常連客になったのだ。
「実は今、あまりうまくいってなくて…」
嘘をついても仕方がない。いずれ解ってしまうこと…いや、時折舵がここを訪れていることを思えば、本当は言わないだけでママはもう「知っているのかもしれない」とつかさは思った。
「そう。似合いのカップルだったのに…人って解らないものね」
そう言ってママは昔を懐かしむように煙草に火をつけ、煙を燻らせた。
つかさは話を振ったものの、それ以上なんと言って繋げていいか解らなかった。
「…吾郎くんは、最初からつかさちゃんだけだったんだと思うわ」
そんなつかさをよそに、ママは煙の先端を眺めながら突然にそんなことを口にした。
「そんなこと…」
「そうね、つかさちゃんは知らないだろうけど…」
もう時効だから…と前置きをし、ふふふ…と小さく思い出し笑いをした。
「あの頃。つかさちゃんをカウンターに立たせると、よく吾郎くんに叱られたもんよ」
「まさか…! ありえない。だって…」
つかさ以上に愛想のない吾郎に、初めは嫌われてるものだとばかり思っていたのだ。
「吾郎くん…『あんな不愛想な女、カウンターに出すな』なんて言ってたけど」
(そうでしょうとも…)
「その顔は信じてないわね。つかさちゃんのシフトの日は必ずといっていいほど来てたじゃな~い。あれは、他の若いお客さんの相手をさせないためだったのよ」
ママはまるで、内緒話をする子どものように笑った。
「信じられない…」
「まぁ実際、つかさちゃんの料理は評判よかったから、そんなにカウンターに出てる暇もなかったけど」
つかさのアルバイトでの主な仕事は厨房での〈お通し〉と〈賄い〉だった。だが吾郎と出会った20歳の頃を境に、若い客が来るとしばしばカウンターに出るようママに指示されていた。人付き合いの少ないつかさはとっつきにくく、そうそう馴染みの客がつくわけではなかったが、そのそっけなさが吾郎には却って好都合だったようだ。
「もう、鈍いんだからつかさちゃんは。だから吾郎くんも…ちょっと急いじゃったのねぇ」
そう言ってママは煙草を灰皿に押し付けた。
「急ぐ…?」
「ホンというとね、あの時、結婚は…少し早いんじゃないか、って思ってたのよね」
「え?」
(…今さら、そんなこと言う…?)
「でも、いずれ結婚するなら…? 時期は関係ないのかなと思って。若かったし。でも若かったから、やっぱり早かったのかなぁ…」
まるで自分が、結婚の時期を間違えたかのような、そんな言い方をする。
「まぁ、一番結婚に乗り気だったのは舵くんだったしねぇ…」
それを受け、つかさも「あぁ。確かに…」と当時に思いを馳せる。
(一番喜んだのは舵だった…)
すぐ下の弟の継(つぐ)は定時制高校を卒業してすぐ、つかさの負担を考え家を出た。舵は自分も、高校を卒業したら「家を出なければならない」と思っていたのかもしれない。
「舵くんは、あの頃からよく来てたものね。吾郎くんのところでアルバイトしてたから」
人懐こい舵は、兄以外の年上の男性のたくましさを吾郎に求めていたのか、いたく気に入っており、高校卒業後は吾郎の会社に就職することが決まっていた。それもあってつかさの結婚後は、吾郎がマスオさんの形で家に入ることになったのだ。
「いくつだった? 結婚…」
「24…。継が結婚した次の年だったから」
「そうそう。継くんの結婚で、焦ったのね吾郎くん」
「焦った?」
「そりゃね、歳下に先越されたら…」
「そういうものですか? 女ならまだしも」
「そういう人もいるでしょ。吾郎くんは、そういうこと気にする人でしょ」
(あぁ…確かに)
今なら解る。そういう体裁や上下関係、順番を気にする男だということが。
「余計なお世話だけどさ。なんで子ども作らなかったの?」
「え? あぁ…なんとなく。そういう雰囲気じゃなかったって言うか…」
子どもがいればなにか違ったのだろうか。
「おかしなこと言うわね。子どもは雰囲気で作るものじゃないでしょうに」
「そうなんだけど…」
つかさは、先月も似たような話をしていたな…と考えていた。
結婚後、周りの期待もあってか、子育てに専念できるようにと仕事は辞めていた。お互い子作りに熱心だったわけでもないのに、だ。なんとなく「結婚=専業主婦」という形が、吾郎の仕草や立ち居振る舞いから義務付けられていたようにも思える。
「まぁ、まだ学生の弟さんもいたしね」
「まぁ。それに…吾郎に、子ども欲しいって言われたことなかったし」
吾郎は「家族が欲しい」とは言ったが「子どもが欲しい」とは言わなかった。一度だけ「子ども欲しいのか」と問われたこともあったが、自分から「子どもを作ろう」とは言わなかった。
「へぇ…」
ママには思いのほか驚いた様子もなかった。だがつかさは、それ以上話を続けようとはしなかった。
実際子どもに関して、互いに焦ることもしなかった。
結婚後、家の中の生活音はほとんど、職場を共にしている吾郎と舵との会話が中心だった。家族の仲が良いのはとても微笑ましく嬉しいことではあったが、まるで舵の方が吾郎の奥さんのようだ…とつかさは思ったものだ。
「吾郎くんが欲しかった家族は、つかさちゃんだったのよ」
(え…?)
こちらの考えはお見通しなのか、ママはすべて解っているような言い方をする。
だが、吾郎は確かに「ひとりっ子だから」家族が欲しいと言ったのだ。
「ひとりっ子だから、家族が欲しい。でも兄弟や子どもが欲しいわけじゃなかったのかも…。だっていきなり兄弟や、子どもができても、どうしていいか解らないわよ。男だもの。まずは自分が落ち着ける場所を求めるものでしょう」
「まぁ…」
言われていることは解るが、つかさはいまいち釈然としなかった。
「だからって、弟くんたちが邪魔だったわけじゃないと思うわ。実際、舵くんといる吾郎くんは楽しそうだし、あんなふうに頼られることも嬉しかったと思う。だから、同じようにつかさちゃんにも頼って欲しかったし、寄り添ってほしかったんだと思うわ」
「そう、なのかな?」
「ひとりっ子っていうのは…想像できるでしょ? 兄弟がいる家と違って自己主張しなくても周りや親が先んじてなんでも手をかけてくれる。つかさちゃんの弟くんたちは、なにかあればなんでもあなたに話した…それこそ母親にするように、我先に。要は気をひくためよね。でも吾郎くんは、競争して母親の気をひこうとしなくても、うざいくらいに愛情を押し付けられて育ったの。…わかる?『愛情が欲しい』とか『子どもが欲しい』とか、自分から主張できないのよ、したことがないから。する必要がなかったから」
主張ができない…そう言われてつかさは、すべてが合点がいったような気がした。
(確かに…)
だからといって今さら、なにが変わるというのだろう。もっと早くに知っていたら、もっと早くに話してくれていたら…しかしプライドの高い吾郎が、自分からそんなことを言えるわけはなかった。だからといってあの頃の自分にどんな気遣いができたというのか。
「そろそろ行くね…」
「あらそう?」
「…ママ。これ…少しだけど…」
そう言ってつかさはクラッチバッグから「お見舞」と書いたご祝儀袋を取り出した。
「あら、やだ、つかさちゃん。そんなこと…!」
そう大げさに受け応えるママに、一瞬気を悪くしただろうかとも思ったが、
「ママは、あたしのお母さんみたいなものでしょ」
そう言って半ば無理矢理カウンターの上に力強く押し付けた。
「やだ、つかさちゃん…」
口を覆い、涙をこらえるママ。
アルバイトをしているときも、ママの実年齢を聞いたことはなかったが、あれから20年、少なく見積もってもとうに還暦は過ぎているだろう。
「そんな風に…? つかさちゃん…っ。ありがとう、そうね、そういうことなら遠慮しないわ」
ここ数年のママは病気がちで、客もめっきり減ったというのに、それでもわずかな常連客のために店を休むことはしなかった。だが、いよいよそうもしていられなくなったのか、店をたたみ施設に入ることにしたのだと舵に聞かされここへやってきたのだ。
「うん。今までありがとう、ママ」
だが、行き先は誰にも告げていないらしく、それはママの最後の〈女の意地〉なのだとつかさは理解した。
(もう、会うこともなくなるのかな…)
そう思うと、目頭が熱くなった。
泣いてしまわないうちに店を出ようとドアノブに手をかけると、ママがつかさの名を呼んだ。
「つかさちゃん。その髪、すごく似合ってるわ…がんばってね」
そう涙交じりの目で、優しい表情で微笑んだ。
「うん。ありがと」

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店を出たつかさは、駅に向かって歩いた。
蒸し暑い外気を受けながら、髪をかきあげる。短くなった髪が、指に物足りなさを残す。
(まだ、ちょっと慣れないな…)
風にさらわれる髪が首元をくすぐると、軽くなった襟足に手を当て、人に見られないようはにかんで笑った。
人に名前を呼ばれて振り向くとき、きっと重苦しく、相手にけだるい印象を与えていたように思う。それは無意識に、凝り固まった心の澱みが、いつの間にかトレードマークになっていたロングストレートの黒髪に、重くのしかかって押し延べられていたからかもしれない。
ただ長いだけの〈黒髪〉を人は「きれい」だとか「素敵」だなどと形容したが、本人にとってみれば「トレードマーク」と呼ばれる覚えはなく、いつもそれを払拭させてやりたいと常々思っていた。長い髪はつかさにとって「鎧」だったのかもしれない…。
物心ついた頃から、つかさの髪は長かった。小学生の頃はただなんとなく母親の趣向で伸ばしていたように記憶している。中学時代は運動部に所属していたわけでもなかったので、髪を短くする理由もなくそれほど髪形に頓着することもなかった。周りの女の子たちのように、化粧をしたり朝シャンして時間をかけてブローしたりセットしたりというおしゃれに興味がなかったわけではないが、父親が他界し母親が入退院を繰り返すという境遇の中、なによりも「手早く効率的に支度し出掛ける」ということの方が重要だったのだ。
高校進学が決まった際、1度だけボブにしたことがあった。が、惣菜屋のバイトを始め、三角巾をする面倒から長い方がまとめておけるので楽だと悟った。短い髪はどうしてもはみ出る部分があり、それをいちいちピンでかっちりと留めなくてはいけない決まりがある上に、ピン留をしていると頭痛を引き起こすため、まとめ髪の方が都合がよかった。ひとつ結びにして襟の中に入れてしまえば邪魔になることもなかったし、細かい髪をピンで留めてイライラするよりは断然仕事がはかどった。
当時は少しでもお金を残すため、自分の身の回りのことにお金をかけることはしなかった。それゆえ、極度の近眼だったにもかかわらず、眼鏡すら購入しようとは思わなかった。それも三角巾をして眼鏡をすると頭痛の原因になるということでもあったが「人の顔が見えない=覚えないで済む」という利点もつかさにとってはあったのだ。
高校時代のつかさは『孤高』と呼ばれていたそのまま、努めて周りと関わらないようにしていた。どうせバイトに明け暮れていたし、友達と関わって余計な時間を割くよりも勉強している方が気が紛れた…というのが本音だ。黒板が見えなくても授業は耳で聞いたことをその日のうちに自宅で復習するだけで充分だったし、なにより新しいことを覚えるのは楽しかった。そういう意味でもつかさは真の天才だったのだ。だが毎夜、暗い中で勉強していたため、近眼はどんどん進行していった。通学時やバイト先に向かう途中、幾度となく電柱と鉢合わせしたことは言うまでもないが、だがそれを補うために、つかさは得意の勉強を活かし地形を脳裏に描き、歩幅を数えて道路を覚えて歩いていたのだ。
つかさが学生時代を「いやな時期」と呼ぶには、自分を卑下するそれなりの理由があったというわけだ。
(思えばおかしな子どもだったかもしれないな…)
昔を思い出し、今はすっきりとした頭部に「どうしてそうまで頑なだったのか」と、今さらながらに自分に問う。
(ひねくれてた、かな…)
コンタクトを買ったのは高校を卒業した春のことだった。就職した頃は事務職とはいえ、会社が主に営業中心の仕事だったので「人の顔を覚えない」というわけにはいかなかったからだ。
それまで避けていたものを、今度は意識して見なければならなくなり、時にまぶしさにめまいを感じ、見え過ぎることに嫌悪感を覚えることもあった。ただ、夜のバイトの時だけはド近眼のまま仕事に臨んだ。客の顔は覚えなくても声を記憶していれば充分会話は成り立っていたし、夜の仕事で顔見知りを作る気もさらさらなかったので、日中どこかでばったり店の客に出会ってしまっても、こちらは気づかずに世間話をする煩わしさから逃れることができたからだった。
そんなつかさがまともに男性の顔を見、覚えたのは、飲酒可能になった20歳を過ぎ、店に「接客」を強要された頃からだっただろうか。そんなこともなければ、吾郎と親しくなることもなかったのに…などと今さら振り返ったところで現在の状況が変わるわけでもないが、今はとにかく、すべてがどうでもよかった。長い髪と一緒に憑き物が取れたような、実に晴れ晴れしい気分だった。

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(やっぱり思い切ってよかった…)
ついと顎を持ち上げ、軽くなった髪を揺らしてみる。
「…つかさ?」
(…え?)
繁華街で不意に、誰かに呼び止められた。
「つかさ、じゃないのか?」
声に振り返ると、見覚えのある懐かしい顔がそこにあった。
「え? 嘘、けい…ちゃん?」
口元を手で覆い、意味もなくキョロキョロとしてしまう。
(やだ…なんで?)
「やーっぱり。つかさだ…!」
嬉しそうに、昔と変わらぬ笑顔がつかさを捉えた。立ち止まるつかさに駆け寄ってくるその姿は幻かと瞬きをする。
「どう、して…?」
(なんで…嘘…ホントに…?)
自然と顔がほころんでしまうのを必死に制する。
「やだ…。髪型違うからすぐ判らなかったよ…」
言いながら超高速で過去の記憶の引き出しを開けていく。つかさの記憶している彼はいわゆる〈ロン毛〉と言われる髪型だったが、今目の前にいる彼はさっぱりとしたスポーツ刈りになっていた。
「それはこっちのセリフ。…ここでなにしてんの?」
へぇ…と珍しいものでも見るように、上から下へとつかさを眺める仕草。
「あ…ちょっと知り合いのところに」
笑顔でそう返し、こんな格好で…そう思いながら、どんな格好だったら相応しいというのかと自分のおかしな思考にうろたえているのだと自覚した。
「ホント、久しぶり…」
(少し、太った…? でも、相変わらず…)
懐かしい職場の記憶がよみがえる。あの頃のつかさは紺色の事務服を着ていた。今はカジュアルなボートネックのカットソーにジーンズというラフな格好だ。
「仕事の帰り?」
言いながらチラリと、彼の手元に目を落とすと仕事用のリクルートバッグと買い物袋。半透明のその袋から、仕事には不似合いな模様のついた荷物が透けて見えていた。
「まぁ…そんなもん。つかさは今なにやってんの?」
「トリマーよ。…狐来(ここ)駅の『Friendly Hand』っていうトリミングサロンで…」
(あ~そんなことどうでもいいのに…)
心の中で地団太を踏む。
「トリマー? トリマーって犬の散髪屋か?」
「やだ…。せめて犬の美容室って言ってよ…もう」
(相変わらずだなぁ…)
「そんなもん、どっちだって同じだろぉ…」
バツが悪そうに頭をかくこの男は、つかさの元同僚〈藤枝圭慈(ふじえだけいじ)〉である。つかさが高校を卒業してすぐ就職した外車中古販売店での同期だ。
(そんなところも相変わらずだ…)
そして憧れていた。
「いやぁ、懐かしいなぁ…。なん年ぶりよ」
「え~そんなのもう、覚えてないよ…」
口元を押さえて笑顔を隠す。
(…嘘。14年ぶりだよ)
「10年、くらいか…? 懐かしいなぁ…」
つかさが寿退社をして以来ずっと会っていない。
(…そうだよね、覚えてないよね)
「ホント、お互い老けたね…」
(…こんなところで会うなんて…!)
「全然変わってないよ、相変わらず。…スキのない女だな」
「なによ、それ」
(口の悪さも変わらない…)
「誉め言葉だよ」
「誉められてる気がしないけど?」
(嘘みたい…!)
髪を切って、新しい風が吹いてきたような気がした。
「圭ちゃん、も、相変わらず?」
無意識に髪に手が行く。
「あぁ、相変わらずパシられてんの、オレ。…これから営業先の接待だからさ。近いうち顔出すわ…」
進行方向に足先を向けながら、軽く片手をかざした。
(圭ちゃん、笑顔も変わらない…)
「え? うん…」
つられてこちらも右手をかざす。
(また、会えるの? ホントに?)
「じゃ、またな…」
「うん…」
後ろ姿に笑顔がこぼれる。
(やだ…。こんなところで会うなんて…)
くるりと短くなった毛先を人差し指で躍らせ、
「魔法のおかげかな…」
そう言ってきびすを返し、かかとから音符が弾けそうなほどの軽い足取りで駅へと向かった。
(これから営業先? さっきの荷物は…? 勘違いかな)
買い物袋の中身が気になるところではあったが、ホームで電車を待つ間も車内でも、つかさは思い出し笑いをするほど「一日の終わり」が笑顔であることに浮かれていた。が、そんな気分も帰宅し、中途半端に開け放たれた門扉を見た途端に一変した。
「また…」
(来たのか…)
鍵を開け玄関に入ると、たたきの上にわずかながら土が散らばっていた。造園業を生業としている吾郎は、いくら言っても玄関の外で土を落としてくれることはなく、それは荷物を取りに来るばかりとなった今も同じだった。
「…はぁ」
あきらめの溜息と同時にバッグを玄関先に下ろし、すぐ脇の背の高いシューズボックスの中から箒とちり取りを取り出した。玄関ドアを開け放ち、手早く掃き出しながら、
(夜更けに玄関掃除してるあたしって…せっかくの気分が台無し)
こんなことがあと幾日続くのだろうかと、悔しさに目頭が熱くなった。
(顔を見ないですんだだけ、まだましか…)
思い直して部屋に入ってみれば、相変わらずリビングのテーブルの上の〈離婚届〉は無造作に破られていた。もちろん期待などはしていないが、それが最後の用紙だったのだ。
(またおりちゃんに頼まなきゃ…)
とは言え、役所も一度にそう何枚も用紙をくれはしないだろう。これからは破られるたびに市役所に通わなければいけないのかと思うと、それだけで気が滅入るつかさだった。

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翌日曜のこと、いつも通り早朝に継がやってきた。
「姉貴~」
そう呼ばれ玄関が開く前から、気配を悟った愛犬たちがそわそわと騒ぎ出す。
「ほ~ら、きたわよ~」
甘えた鳴き声を発しぐるぐる回る〈つぐ(ブルテリア)〉立ったり座ったりを繰り返す〈かじ(パグ)〉ぴょんぴょん飛び跳ねる〈さと(ダックスフント)〉愛犬たちに微笑むつかさ。
「あれ? 今日は早いね…」
ドアを開けた継が、既にリードをつけ玄関先で待機していた姉にそう告げた。
「たまにはあたしも一緒に行こうかと思って、さ」
玄関先に腰掛け、スニーカーのひもを結びながら答えた。
「そっか。ちょうど良かったよ、オレも相談があって、さ」
(相談…?)
「珍しいわね」
「まぁ…いろいろ」
なんとなく心持ち重い感じが否めないが、
「そ? じゃ、いこっか」
つかさは気にせず、立ち上がった。
つかさの家から歩いて10分もしないところに結構な広さの公園があった。季節を彩る様々な花の花壇に、サイクリングロードや遊歩道。池の周りを一周するにも30分を要する距離で、ウォーキングやランニングを楽しむ人の数も少なくない。
いつもはひとりで走るその池の周囲を、今日はふたりと3匹で並んで歩いた。
「髪、切ったんだな…」
「うん。気分転換。…変?」
いい歳の弟を見上げてつかさが不安な顔をして見せる。
「いや。若返った…」
「まだまだいける?」
「いける、いける、」
軽く笑いながら答える継。
「よく言うよ。たいして変わりないと思ってるくせに…」
だが、姉弟とはいえショートヘアの姉の姿にそれほど馴染みがあるわけではないはず。
「じゃ、聞くなよ。そう思うなら…」
「女はいくつになっても人目が気になるのよ…」
「そんなもん?」
「そんなもん、そんなもん。みさきちゃんだってそうでしょ」
「どうかな…」
一瞬顔を曇らせる弟に、なにかあったのか…と怪訝な顔をするつかさだが、
「そうなんだってば…! 女なら誰でも、女はいつでも、自分だけ見ていてほしいものなのよ。見られなくなったら、いないと同じだもの」
「おおげさだな」
「おおげさじゃないのよ、それが。でも…髪切るみたいに、簡単に身も軽くなれればいいんだけどねー」
だが、現実はそう簡単にはいかない。髪を切るだけでもどんなに時間を要したことかと思い直す。
「そっちは、まだまだかかりそう…?」
「相変わらずよ…。でも、ストックがなくなっちゃって。これからどうしようかなーっと思ってさ。そろそろ、弁護士でも立てた方がいいのかなって」
今はまだ夫婦だとはいえ、いい加減、自分のいない間にバスルームを我が物顔で使われることも、その都度大量の洗濯物を放置されていることも、いちいち空き巣のように寝室を散らかり放題にされることにもうんざりしていた。むしろそれがストレスとなり、最近では洗濯物を扱うのにも嫌悪感を抱き、気が変になりそうなくらいだ。つかさにとっても今の生活は限界だった。
「それもありだな。吾郎さんもなに考えてんだろうな。戻ってくる気もないんだろ?」
「まさか…。嫌がらせしてるだけよ。今さら戻ってこられても、こっちも困るけどね…。それより、相談て?」
愛犬の背中を見ながら静かに答えた。
「あぁ、実は…」
継は少し考えてから、立ち止まり、
「…みさきに3人目ができたんだ」
「あら、おめでたいことじゃない」
思わぬ出来事につかさは笑顔で返す。
「うん。それで、ゆあも高校生になったら一人部屋が欲しいって言いだしてさ。今のマンションじゃ手狭だし、…引っ越しを考えてる」
〈ゆあ〉は継の長女で今年15歳になる。
引っ越し、と言われてひとりには広い今の家を思うつかさ。
「そうかぁ…そうだよね…」
(そうか。あたしがあの家を出れば、わざわざ新しいマンションを探さなくてもいいんだよねぇ…)
それは自然な流れで出た答えだった。しばらくの沈黙のあと、歩き出し、
「そろそろ身の振り方考えないとね…あたしも」
言い出しにくいであろう弟を気遣い、自ら口火を切ったつもりのつかさだが、
「なにが?」
合点のいかない様子の継の表情。
「そういうことじゃないの? あの家を出ろってことよね?」
違うの?…と継の顔を見上げる。
(言い方悪かったかな…)
継にとっては「申し訳ない」気持ちもあるのかもしれないが、別段不思議なことではない。あの家はもともと家族で住んでいた家だし、たまたま仕事を機に継は家を出、つかさは残った。しかし本来ならば長男の継が継ぐべき家であっただろうし、現実問題、継の家族の方が人数も多い。対しつかさは吾郎のことがなければ、子どもがいるわけでもなく身軽だ。むしろ「家を出るべきだろう」と常々考えていたつかさは、とうとうその時が来たのだと思うのだった。
「なに言ってんだよ、違うよ。一緒に住まないかって話。2階空いてんだろ? 姉貴今、下のお袋たちのいた和室に寝てんだよね?」
「そう、だけど…」
2階には寝室として使っていた10畳と、当時はつかさの一部屋、弟たちの一部屋と、小さい納戸がひとつの計4部屋があった。それだけあれば夫婦の寝室、娘ふたりそれぞれの部屋に収納と、これから子どもが増えるにしても充分一家が暮らせる。だが。
「今さら一緒になんて、みさきちゃんだってやりにくいと思うよ」
「みさきがそうしたいって言ってるんだ」
「みさきちゃんが…?」
「さすがに3人目で産休じゃ仕事もなくなるだろうし、家事に専念するからって…その方が姉貴も楽だろうって。だいたいこいつら連れてどこ行くんだよ」
そう言って目の前をぷりぷりと歩く3匹のお尻を指す。
「まぁ、それはそうだけど…」
(足かせにはなりたくない…)
ふと、そんなことがよぎった。それに潔癖症のみさきは、室内犬に対しあまりいい顔をしていないだろう。
「…この仔たちは最悪、お店に置いておけば…」
「あんな狭いとこ、今さらこいつらが我慢できるかよ。…まぁ姉貴が、今さら賑やかになるのが嫌だっていうなら考え直すけど。正直、オレも心配だしさ…」
「ご心配どうも…」
どっちが年上か解らない。
「吾郎さんのこともあるし。…考えてみてよ」
それは解っていた。 
気にかけてくれているからこそこうして、犬の散歩を理由に様子を見に来てくれているのだ。だがそれも、嫁の立場からすればどうなのだろう。いくら義理の姉だとはいえ、一緒に住んでいないからこそ我慢できるのであって、同居となればまた違う感情が湧いてくるのではないだろうか。
「はっきりと離婚が決まったら、もともとあたしはあの家を出ようと思っていたのよ。一家の長(ちょう)でもないあたしが、いつまでもあそこに居座るのはおかしいもの。あんたが戻ってこなかったとしても、舵か郷がいるし、どっちにしてもあたしには広すぎるもの…」
「姉貴…」
途端に継の顔が曇った。
「そんな顔しない。もともと考えていたんだって…。車があるっていっても、これから仕事を増やすつもりでいたから、もっと職場に近いところに越そうって。ただ、吾郎がいるうちはあたしが家を離れるわけにはいかないじゃない?」
吾郎があの家をどうにかするとまでは思ってはいないが、万が一ということもある。つかさはそれを懸念していた。
「なんかごめん、オレ…」
追い出すみたいで…という言葉を飲み込んだ。
「謝ることなんかないわ。いいのよ。言ってくれてよかったよ。いずれちゃんと話さないといけないことだったしね」
(あたしも、踏ん切りつけるきっかけになる…)
離婚届のストックもなくなったことだし、いい加減決着をつける時が来たのだと改めて心に強く思うつかさだった。
その様子が継には沈んでいるように見えたのか、
「すぐって話じゃないんだ」
と、慌てて言いなす。
「それはこっちも同じよ。引っ越しとなれば吾郎と話もしなきゃならないし…これから先のことも、ちゃんと考えないとね」
そう言ってつかさは、継の背中を軽く叩いた。
(そう。慎重に、ね…)
風向きはいつも同じではないのだ。これが追い風なのか向かい風なのかは判らないが、とにかく新しい風が吹き始めたことは確かだった。
「まぁそう心配しないで。いろいろ考えてはいるんだから」
意外にも不安はなく、むしろいいきっかけになったと笑顔を返す。
「無理はしないで…」
それでも心配性の弟は、最後の最後まで優しい言葉をくれるのだ。
「わかってる。ありがとね」



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まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します