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小説『オスカルな女たち』52

第13 章 『 再 起 』・・・4


     《 すったもんだで 》


週明けの月曜日、玲(あきら)の希望通り、娘の羽子(わこ)の検診時に担当医の操(みさお)から〈入院〉の旨、その他が告げられた。血圧が高いことと、食事に対する不摂生が理由だった。
ただひとつ、それには多少の危険も伴った。
「ファミリールームにしてもらおうと思っていたのに、先約がいるんですってね」
「ぁ、あぁ。そうなんだ…わりぃね」
多くを語れない真実(まこと)の態度が、どう映ったのかは定かではないが、
「別に。どっちにしても個室だし、構わないけれど」
玲がいつもより冷静ではないことがせめてもの救いだった。だが、
「なんだか歯切れが悪いわね」
多少なりとも玲の中に、引っ掛かりを残したことは言うまでもない。
「そんなことはない」
そんなことがあるのは、真実だけではなかった。
「真実さん! どういうつもり!?」
我が物顔で噛みついてくる、ただいま〈ファミリールーム〉に長期入院中の女優〈弥生すみれ〉こと、かつての同窓生『観劇のオスカル』と呼ばれていた〈花村弥生子(やえこ)〉の問題だ。年末の騒動以来おとなしくはしているが、気持ちは当然ながら「穏やか」というわけにはいかないようだ。そこに来て玲の娘の入院というハプニングがますます弥生子の不安を煽ることになった。
「まぁ、まぁ、ここには来ないから」
ベッドの上の弥生子をなだめようと歩み寄る真実だが、
当り前よ!
一蹴されてしまう。
「そう興奮するな…」
腫れ物に触るような真実の態度に、
「これが興奮せずにおとなしくしていられるとでも? 織瀬(おりせ)さん、あなたもなんかいいなさいよ!」
捲し立てる弥生子に、織瀬は苦笑いするばかりだ。とはいえ、
「あたしがここで玲に会うことには問題はない?」
少なからず心乱されてはいた。
養子を受け入れる事実を玲が承知しているとはいえ、お互いに毎日病院で顔を合わせることとなるとまた話は違ってくるだろうと懸念したのだ。
「まぁ、織瀬の事情は理解してるだろうから、病院にいることには問題はないだろうとは思う。探られなければ」
真実は今さらながらに自分の提案を後悔した。
「歯切れ悪いわね。せめて、わたしが退院してからでもよかったんじゃない?」
そんなことは言われなくても解っている…と、真実も苛立ちを隠せない。
「あっちもあっちで切羽詰まってるんだって」
「それは聞いたわ。確かに、玲さんも大変なんだろうけど…でも、それとこれとは別問題だわ」
もう…と、半ば呆れ気味にベッドにもたれる弥生子。
臨月を迎え、いつ生まれてきてもおかしくない状態であることと、このところ世間を騒がせている自分の主演映画のことが気がかりで早く病院を出たい焦りが弥生子の気を荒立てていた。
弥生子、つまりは〈弥生すみれ〉の主演映画の監督が亡くなったことで、海外にいるはずの弥生子の動向は世間の注目を集めており、今まさにメディアに露出するタイミングを迫られていた。弥生子の事務所の気転で、現在語学留学中とされている〈弥生すみれ〉は、滞在先で「体調を崩し近々での帰国は厳しい」と発表された。それだけに今後の行動がますますデリケートなものになったのだ。
「悪かったと思ってる。でも」
患者に関してとやかく言うことはできない。それは弥生子も承知している。ただタイミングが悪かったとしか言いようがなかった。
「もういいわ。とにかく、細心の注意を払って貰わないと」
「わかってる。こっちだってそれは承知の上だ。充分気をつけるよ」
真実としてもここまで来てすべてを台無しにはしたくない。まして状況は、弥生子の出産ばかりでなく織瀬の今後の人生にも関わることなのだ。必要以上に神経質になっていい。そして、
「操先生もね」
弥生子は鋭い眼光を寄せる。
「それはもう、口を酸っぱく…」
一番危ないのはそこだと言わんばかりに否定した。
「とりあえず、あたしもなるべく会わないように気をつけるね」
それが織瀬の精一杯だった。
「そうだな。そこも気を遣った方がいいかもな」
あまり興奮させないよう「今日はこれで」と、織瀬はバッグを手に取った。
「もう、出産まで、来なくていいわ」
そっぽを向いたまま弥生子が答える。
そんな弥生子に、微笑みを返し、
「それじゃぁまた…」
ふたりは静かに病室を後にした。
「大丈夫かな」
「大丈夫だろ」
そうは言っても、不安は拭い切れない。
「玲、毎日くるかな?」
「あぁ、でも今日は午前中で帰ったはずだ、か、ら…」
しかし、
「あら、織瀬。きてたの?」
運悪く、玄関前に出たところで階段の上からの声に足を止められ、ふたりは目を丸くした。
「あ、きら…」
昼食の前に帰った…と思い込んでいた真実は、2階の病室からの帰りらしい玲を認め立ち止まる。
「昼前に帰ったんじゃなかったのか」
「あぁ、そのつもりだったんだけれど操先生と少し話があったから…」
院内にいてもおかしくはないのだ。だが、なぜこうもタイミングがいいものかと、織瀬と真実は目を合わせずにはいられない。
「やだ、なに? ふたりとも、変な顔して」
「ちょうど今、玲の話をしていたから、びっくりして」
「そう。織瀬はこれから?」
「ぅうん。もう帰るところ」
階段を降り切った玲に、無機質な声を発する。
「あら、そう。なら、せっかくだからお茶でもいかが?…マコは仕事かしら?」
外の喫茶店を指して玲が言った。
「それとも忙しい?」
「玲はもういいの?」
断る理由もないが、なんとなく気まずい織瀬は質問に質問で返す。
「えぇ。どうせ病室にいても口も利かないし、ゆっくりできないだろうから」
愁いを帯びたため息をつく。
「そう。でもひとまず安心なのかな」
現状を打破するための手段とはいえ、合宿というわけではない、入院なのだ。
「どうなのかしら…」
入院をさせてはみたものの、それですべてが解決というわけではないのだ。他人の動向に気を配っていられるほどの余裕は、今の玲にはない。
「ふたりともこの後、予定でもあるのかしら」
その言葉から察するに、どうやら玲は「ひとりになりたくない」様子が窺えた。
「ぅうん、平気。今日はもう帰るだけだから」
織瀬は正月明けからしばらく、子どもを迎えるために長期休暇を取っていた。もちろん玲もそれを承知している。
「そ? よければマコも」
どこか探るような目を向ける玲に、
「あぁ、構わないけど…」
反射的にそう答えてしまう真実だった。

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いつも佑介と対峙していた席に、玲と対面する形で織瀬と真実が座った。まるで尋問前のようなその景色に緊張を隠せない。
「おすすめはなにかしら? ふたりとも食事は?」
メニューを眺める玲は普段通りではあったが、真実はその笑顔が怖いと思った。
「あ~あたしはいつも、チキンカレーかサンドウィッチだからな…」
そういえば、ここの「おすすめ」はなんだった?…と店内を見回し、今さらながらに知らないことを認識する。
「カレーは解るけど…サンドウィッチ?」
意外ね…と、玲はメニューに目を落とした。
「あぁ、ここ、甘焼き卵のサンドウィッチがあるんだ。ほら、うちの大学のカフェに売ってただろ? あれと同じヤツ」
「あぁ、あれ」
玲には思い出せる代物らしいが、
「甘焼きたまご?」
織瀬にはピンとこないようだった。
「普通たまごサンドってさ、ゆで卵挟んであるだろ? あれじゃなくて、普通に卵焼きとキャベツの千切りが挟んであるんだ。甘いの好きなら結構いけると思うぜ?」
嬉々として語る真実は、少し前にも同じものを食べたな…と回想する。
「へぇ…そんなサンドウィッチがあるんだ。食べてみようかな…」
感心しながらメニューを捲る織瀬。
「じゃぁ、私はターキーにするわ」
「ターキー?」
そんなのがあるのか…と、織瀬が捲るメニューを覗く。
「じゃぁ、あたしはふたりのをつまむよ」
「じゃぁ、そうしましょう。飲み物は…」
織瀬は〈生グレープフルーツジュース〉を、真実は〈アイスソイラテ〉を、玲は〈ホットカフェラテ〉をそれぞれ注文して落ち着いた。
「大学にカフェなんてあったのね」
部活動もやっていなかった織瀬には、滅多なことで大学の構内に入るような用向きはなかった。〈芸術鑑賞〉や〈文化祭〉等で大学内にある講堂を使用するときくらいだったろうか…と思い返す。
「ほら、マコは毎月大学の学生課に通っていたじゃない?」
真実ばかりでなくつかさのような〈特待生〉や〈学費支援〉を受けて入学した生徒は、定期的に学生課に成績報告をする義務があったのだ。その学生課は、敷地内とはいえ大学構内にあり、
「職員棟の下に購買部があるんだけれど、その奥に小さなカフェが続いていてね。そこで売っていたサンドウィッチがお気に入りだったのよね、マコは」
そう言って目配せをした。
「さすがに日中はウロウロできなかったけどさ、部活上がりの時間なんかは結構高校生もいたんだよ」
「あぁ、だから。わざわざ大学の構内通って帰ってたのはそういうわけだったの?」
当時の織瀬は、親友の萌絵に連れられ真実の動向を窺っていた時期がある。『第九のオスカル』と呼ばれていた織瀬の親友〈立花萌絵〉は高校時代、ソフトボール部で活躍していた真実のファンで、ことあるごと武勇伝を聞かされていたこともあり、話したこともない真実の当時のエピソードをたくさん持っていた。
「そんなことまで知ってるの。悪いことはできないわねぇマコ」
眉をあげて真実を見遣る。
「別に悪いことはしていないさ…」
「そうかしら」
「なんだよ…」
突っかかるな…と、玲を見据える。すると、
「マコ、なにか私に隠してない?」
そこでようやっと玲は本題を切り出した。
「な、なにが…」
「なにがじゃないわよ。聞いたわよ、操先生に」
言いながら水の入ったグラスを口に運ぶ玲。
「操先生?」
弥生子のことについて言及されるかと気が気じゃない真実は、途端に顔をしかめた。
「年明けからずっと、佑介と一緒に住んでるらしいじゃない」
えっ!?
真実と同じように「弥生子の話題」かと身構えていた織瀬には寝耳に水で、意外な追及に驚き口元を抑えた。
「はぁ…? そっち」
予想とは違っていたが、むしろこの状況でその話題を持ち出されることの方が真実には都合が悪かった。
「はぁ…じゃないわよ。そっちって…ヨリ戻したの?」

「ん、なわけ!」

「じゃぁなんなのよ。秘密にしてるってことはそういうことでしょう?」
「だから、それは。…それに、一緒に住んでるのはあたしじゃなくておふくろさん」
「同じことじゃない」
「全然、違う」
「に、したってよ」
真実は言葉に詰まり頭をかき、
「あたしは、あれから家に帰ってないよ」
腕組みをして背もたれに寄り掛かる。
「どういうつもり? 織瀬じゃなくてあなたが結婚でもするつもりなの?」
結婚!?
結婚の二文字に、真実以上に織瀬が動揺する。 
「しねーよ。断ったし」
「断った? 断ったってなに? プロポーズでもされてたわけ?」
半ば失笑気味に真実を見遣る。
「まぁ、いつものことだ。それに家も出るつもりだし」
もごもごと、言葉にならない声を発する。
「まぁ『いつものこと』…ですって!? そんなにしょっちゅうプロポーズされてるってこと?」
「プロポーズされてるの?」
事情が分かっていない織瀬は、いちいち玲の言葉に目を丸くする。
「口癖なんだよ。ただ…」
「口癖がプロポーズなんて、聞いたことないわよ。バカなんじゃないの」
「そうだよ、バカなんだよ」
苦笑いで体を起こす真実だが、
「あなたのことよ、マ、コ」
なんでだよ!?
不機嫌を露わにする。
「ねぇ…」
恐る恐る窓の外を指さす織瀬。
「なに、織瀬」
「どうした?」
「その、元旦那さまじゃない?」
言われて窓に目を向けると、確かに真実の元夫〈長谷川佑介〉が窓のすぐ外でこちらに影を落としてにこにこと微笑んでいた。
「なにやってんだ、こいつ。ば~か、あっちいけよ」
手のひらを翻しあしらったつもりが、
「やだ、入ってくるんじゃない?」
くすりと笑いながら、佑介を目で追う玲。
「なんだよ、珍しい顔合わせだな」
呼ばれてもいないのにどっかと玲の隣に座り込んだ。
「なんでくんだよ」
「だって呼んだだろ? 今」
どうやら真実のあしらいを手招きと受け取ったようだった。
「はぁ…」
頭を抱える。
「こういう男よ」
呆れ顔で織瀬に目配せする玲。
「なんだよ、玲。相変わらずいい女だな」
勧められもしないのに、メニュー表をつかみあげる。
「殴るわよ」
「そっちも相変わらず…」
ひゅうと口を鳴らし、大げさにのけぞる振りをする。ついと織瀬に視線を投げ、
「こんにちは、織瀬…ちゃん」
佑介はにっこりと微笑む。
やめろっ
当然真実は気に入らない。
「あぁ、えと。こんにちは」
最近、やたらと会うな…と思いながら受け応える織瀬は緊張を隠せない。
「あら、あなたたち面識あるの?」
玲の問いかけに、
「あぁ、ちょっと前にな~」
ニマニマと愛想を振りまく佑介は、まるで気のいいおじさんだ。
「ちょうどいいわ。あなたの話をしていたのよ」
「ちょ…やめとけ」
真実的に、織瀬の前で佑介の話をしたくない。だが、
「なに、なに、オレの噂? 困っちゃうなぁ…」
能天気な佑介は、いよいよ真実が自分を認めたのか…と気を良くする。
「随分、嬉しそうじゃない」
「だって、俺と真実のこと祝福してくれてんだろ?」
悪びれもなく頬杖をつく。
「だれが祝福だ! やめろ」
真実は今にも立ち上がり店を出ていきそうな勢いで噛みついた。
「ほら~。あなたには『マコのすべてが自分のため』なんでしょうけれど。押しかけ女房もいい加減にしないと、マコの血管が切れるわよ」
腕組みして佑介を見る玲。
「押しかけ女房、いいねそれ」

佑介!

真実と玲の声が重なる。
「はいはい…。でも俺仕事辞めたから、官舎にもいられないし」
「警察を辞めた? なんでよ」
玲も初めての事実に目を見張る。
「主夫だから」
「しゅふ!?」
「な、ばかだろ?」
苦虫を潰したような表情で玲を見る。
「どっちもどっちよ」
何度となくそんなやり取りを見てきた玲には、呆れれてものも言えないといった様子だ。腕組みしたまま、ちらりと佑介に冷ややかな視線を送り、
「それにしても…。最近のあなた、ちょっと強引なんじゃなくて?」
「まぁ、そう言うな」
「な、この調子で話も聞きやしない」
真実の心意としては、とにかく「本意ではない」というところを強調したい。
「とりあえず、の弥縫策だ」
苦し紛れの佑介だったが、
「得策とは言えないわね…」
玲の前ではたじたじだ。
「まぁ…。でも、おふくろさんが望んでるし、美古都(みこと)も。父親の方がいいんだろ?」
確認するように真実を見るが、
「しらねーよ」
当の真実はそっぽを向いたままだ。
「バカね。母親って、そういうものじゃないわよ」
どこまでが本気なのかわからない…と、玲も呆れ顔だ。
「母親? どっちの」
言いながら佑介は手を伸ばし、真実の水を飲み干す。
「おい!」
「なんだよ、のど乾いてんだ」
氷までもを頬張り、無遠慮にがりがりと音を立てて噛み砕いた。
「美古都は、操先生のために承諾したんでしょ。…操先生、そんなに悪いの?」
秋口から腰痛を訴えている操のことは聞いていた。だがそれは、年齢的なもので急を要するものだとは思っていなかった。
「ん~どうなんだろうな」
言葉を濁す真実。
「おい、あれ、」
今度は佑介が遠く窓の外を指さした。
「あのずんぐりむっくり加減は…玲の旦那じゃねーの? もしかして」
「え?」
言われて道路向こうの病院に目を向けると、ずんぐりむっくりのスーツの男性が自動ドアの前で身体を上下させているのが見て取れた。
「あら、ホント。早かったわね」
見覚えのある容姿に玲が前屈みに身体を傾けた。
「連絡したのか?」
仕事が早いな…と玲を見る。
「えぇ。こっちは入院する気満々で出掛けてきてるから、ついてそうそう留守電に」
「準備いいな、そういうのは」
「入れないのかな?」
話に混ざれない織瀬がポツリと言った。
「あぁ、時間外だから、自動ドア止めてあんだ」
そう言って立ち上がる真実。
「あぁいいわ。私が行くわ。こちらにも言いたいことは山ほどあるのよ」
そう言って立ち上がった。
「サンドウィッチどうすんだよ」
「3人で食べて」
気持ちが病院に向かっている玲は気もそぞろに、言い残してその場を立ち去った。
「なんだよ…忙しない」
おいてくなよ…真実の本音はそう言いたかった。
「無理もないよ」
それは織瀬も同じ気持ちだった。
あまり面識のない佑介と、機嫌の悪い真実を置いていかれても、さばけるはずがない。
「なんだよ、玲、なんかあったのか? 夫婦喧嘩か?」
「おめーじゃあるまいし。ぁ、でも、そうなのか…?」
思い直して織瀬を見る。
「ケンカっていうか、すれ違い?」
「入院て、だれよ?」
「羽子だよ」
「やばいの?」
「どうでもいいだろーが。おまえも帰れ」
「だって、サンドイッチくるんだろ…?」
「おまえが食べれないヤツな」
そんなふたりのやり取りに、思わず笑みを浮かべる織瀬。
「なに?」
「ぁ。…仲いいな、と思って」
全然!
憮然と答える真実に対し、
「ほら、俺たち夫婦だから…」
悪乗りして答える佑介。
「やめろよなぁ、ホントに!」
「でも、ホントに、真実が好きなのね」
心なしかしゅんとする織瀬に、
「好きならこっちの言い分無視していいのか?」
真実が即座に言い放つ。
「まぁね。俺、真実のことしか考えてないから」
むしろ娘より妻…と、気持ちがいいほどはっきりと言い切った。
「素敵~!」
お花畑を行き来できる脳を持つ織瀬は、すっかり佑介のペースにのせられていた。
「だろ? 織瀬ちゃん、わかってる~」
「いい加減にしろよ…! なれなれしい!」
「なんだよ、妬くなよ」
だれが!
そんな真実をモノともしない佑介は、実に楽しそうだった。
「真実が太刀打ちできない相手は玲じゃなくて、旦那さまなのね…」
織瀬はしみじみとそのやり取りを見ていた。
「おりせ~」
「ほらほら、玲のバトルが始まるぜ…?」 
真実の憂いをまったく介さず、佑介は窓の外を顎でさした。

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「時間外の面会はどうかと思うけど?」
必死に自動ドアの前で身体を上下させる夫に声を掛ける。
「え?」
振り返った男は半ば半べそ状態で玲を振り返った。その姿を見るなり、
(やだ、鞭欲しい…)
むずむずとSの血が騒ぐ玲だったが、そこはぐっとこらえ、
「それとも…わざとなのかしら?」
「時間外? そ、そんなの知らないよ。そんなことよりあきらちゃん、そんなにのんびり構えてていいの? 羽子ちゃんは? 大丈夫なの?」
それまで散々玲を無視してきたことなどなかったかのような態度に、
「呆れた人ね…」
と、玲はすがる夫の手を払う。
「だれのせいでこうなったと思ってるの? 少しは反省なさって、羽子をここまで追い詰めたのはあなたよ!」
そう言い放ち、僅かな自動ドアの隙間に掌を滑り込ませて力を込める。
「あ、あれ? いいの、入って」
「時間外ですからね。許されるかは解りませんけれど、マコも承知しているし…」
語尾を濁して院内に入り込む。
「それよりあなた、今さら羽子にどの面下げて会うつもり? この私に対しても、なにか言い訳を持ってらして?」
冷ややかで刺すような視線を夫にくれる。これで今、鞭を握っていたのなら、夫〈泰英〉にとっても最高のシチュエーションだったことだろう。
「あ、いや…」
その鋭い眼差しの前には泰英も、夫婦の営みの間で交わされる「ごめんなさい」をいう時の表情で返した。
「で、でも、だって。羽子ちゃんは僕の娘なのに…! あいつにとられるなんてっ!」
「そんなこと!?」
おどおどと子どものような言い訳をする夫を振り返り、
「だったら婿養子にすることだってできるでしょう」
「だ、だけど…」
おだまりなさいっ!
静まり返る院内に響く自分の声に驚きながらも、
「はい…!」
玲の一括で直立不動の泰英の態度がたまらなく愛しい。
「もう…。こっちよ」
仕方ないわね…と言った様子で階下を目指す。
「羽子の病室は2階の奥よ」
さてどうしてくれよう…と、考えあぐねて階段を昇る。と、なにやら後方からかすかにすすり泣く声がする。
「え?」
階段を昇り切ったところで振り返ると、泰英が子どものように顔をぐしゃぐしゃにしてべそをかいているではないか。
「ちょ…ちょっと、なに? こんなところでやめてよ、」
小声で答える玲だが、喉まで出掛かる「鞭持ってないのに…」という言葉を飲み込んだ。
「だって…ぼく」
「ぼく…じゃないわよ」
階段を昇り切ったところにはナースステーションが構えている。ちんたらとやってくる泰英の手を引いて、すぐさま病室の方に折り返す玲。急いでショルダーバッグから、シルクの上品なハンカチーフを取り出して泰英の手に持たせた。
「いい加減になさいな、こんなところで…。蹴り上げるわよ!」
つい、本音が出てしまう。だが、取り乱している泰英には逆効果どころか、土砂降りの面を持ち上げにんまりと微笑む始末だ。
「蹴って…」
こんなところで冗談よして…!」
かすれた声で一括し、腕を掴んで一番奥の病室へと急ぐ玲。
こんな会話を看護師にでも聞かれたら…と、辺りを見回す。それ以上に、大の大人が鼻水垂らしてすすり泣いているなど、みっともないことこの上ない。
「バカじゃないの」
鞭を振るいたい衝動から苛立ちを隠せない。
「だって、あきらちゃん…ぼくたちの『赤い部屋』なくなっちゃったんだよ」
人気のないことをいいことに、子どものように手を引かれながらただをこねる仕草を見せる泰英に、
(今、それを言う!?)
そんなに打撃だったとは…と、
だから…!
掴んでいた腕を振り払う。
「50過ぎたおっさんが、情緒不安定なわけ?」
足早に廊下を進む。
「あきらちゃ~ん…」
「いい加減にして!」
羽子の病室の前に来たところで振り返り、その反動でたまらずピシャリと裏手を返す玲。すると、タイミングよくドアが開き、
「え…。ママ?」
(は…)
翻した右手を口元に、更にその手を左手で抑え込んだ。
「あ、違うの…」
言い訳をしようにも適当な言葉が浮かんでこない。だが気まずい玲とは裏腹に、がっしりと羽子がしがみついてきた。
「ママ…」
「あら…」
(結果オーライ?)
転機と確信した玲が安堵した途端、
「どうしたの? 羽子ちゃん、気分悪いの…!?」
その体を引きはがして、ボディチェックよろしく泰英がおろおろしだす。
「やだ、パパ。平気…」
「もう~羽子ちゃん。『入院した』なんていうから~」
鼻水をたらしたぐちゃぐちゃな顔で羽子に迫る。
「ちょっと、パパ。鼻水…」
「あぁ、ごめんよ…」
「とにかく中に…」
羽子の病室はいちばん奥で、向かい側にはガラス張りの食堂が位置していた。にわかに騒がしくなった病室を、食堂にいた看護師が訝しんで出てくるところだった。
「どうしました?」
「あぁ、すみません。ちょっと、夫が取り乱しまして…」
愛想笑いをして無理矢理ドアを閉める玲。
「もうっ…恥ずかしいったら」
「ごめん。つい…」
しゅんとする夫にムラムラと鞭を振るいたい玲の指が、手持ち無沙汰のように小刻みに動く。
「私だって、あの部屋がなくなることに憤りを感じているのよ!」
八つ当たりとばかりに言い放った。
「そうだな。それは問題だ。早急に手を打とう」
「は?」
羽子を前に我を取り戻した泰英は、すっかりと家庭内の寡黙な男に戻っていた。
「もう~」
先ほど持たせたシルクのハンカチーフが泰英の手の中でもみくちゃにされている。
(羽子の前だとすぐカッコつけて…)
心で舌打ちしながらも、そんな夫をかわいいと思う玲だった。
「とにかく、羽子をここまで追い詰めたのはあなたですからね。きっちりとケジメつけてもらいますからね」
「あぁ。いつまでも大人気なかった…すまない」
そう言って踵を返し、両親の奇異な行動にただならぬものを感じベッドにおとなしく戻る羽子を見た。
「体調はどうなの? 入院、かかりそうなの? 主治医はなんて言ってるの…」
矢継ぎ早に問い詰める泰英に、
「そんなにいっぺんに言われても…」
口ごもる羽子。
「とりあえず今は落ち着いているわ。詳しいことは帰り道で話すとして…今日はもう、休ませてあげましょう」
早々にその場を切り上げたい玲は早口で、
「それじゃぁ、羽子。また明日くるわね」
そう言い残し、泰英の背を出口に返し外に促した。
「な…なんだよ。まだ話が」
物足りない泰英は名残惜しそうに羽子を振り返る。
「とにかく、お大事に…」
言い終わらないうちに廊下に押し出し、さっさと階段の方に追いやる玲。
「ちょ、ちょっと、あきらちゃん。どうしたの」
合点の行かない泰英を、玲は仰ぎ見、
「あなた、車でいらした?」
鞭を放つときと同じ厳しい目つきでそう言った。
「あ、あぁ。急いでいたから自分できたけど…」
その言葉に「にやり」といい顔をして見せ、そしてそうする玲の行動に泰英もまた、その考えを瞬時に悟ったようで、真面目な顔つきで足早に階段を下りた。
「仕事は?」
あとから追いかけてくる玲の声に、
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう」
なにを急ぐことがあるのかふたりは、我先に…と言わんばかりにてきぱきと、スリッパを脱ぎ捨てどちらともなく差し出した手を繋いで玄関を後にした。


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