スパイス

小説『オスカルな女たち』 32

第 8 章 『 進 展 』・・・4


     《 スパイス 》


「それじゃぁ…このまま話を進めていいのね?」
玲(あきら)は机の上の資料からいくつかを抜粋しながら、ソファに腰掛けるつかさをちらりと見て言った。
「うん。お願いします」
膝の上に手をつき、恭しく上半身を倒すつかさ。
吾郎から受け取った貯金通帳の謎が解けてから、つかさは玲の店に頻繁に出入りするようになった。いよいよ経営者として『トリマーサロン』を出店する決心がついたのだ。
「OK! じゃぁ始めましょう」
言いながら玲は店舗の見取り図をつかさの前に広げ、ソファに腰掛けた。
「今日は、事務のコいないの?」
つかさが奥を覗き込むようなしぐさを見せる。いつも満面の笑みでいそいそとお茶を運んでくる事務員〈小森綾香〉を使いに出していたからだが、いないとそれはそれで味気ないと感じてしまうからおもしろい。
「えぇ…。あなたが来るって言ったらえらく張り切っちゃって…。だから、隣町の支店に資料を取りに行ってもらっているの。あなたに『必要なもの』だ、って言ってね。もちろん嘘だけど」
少し呆れ気味に答える玲に、
「あら、随分とあたし待遇がいいわね」
そう言っていたずらに微笑むつかさ。あとで悔しがる綾香の顔が目に浮かぶというものだ。
「最近彼女、ちょっと変なのよ」
「へん…?」
「そう。詳しくはここが済んだら、外で話しましょう」
綾香の帰社を前に事務所を立ち去りたい玲は、早々に打ち合わせを切り上げて外出したいと促した。ちょっと変…その言葉に、つかさは玲の心情を察しそれ以上話題を掘り下げることはせず「OK。それじゃぁさくさく進めましょ」とだけ答え、居住まいを正した。
それを受け玲は、
「場所はこの前話した通りよ」
と、仕事モードに切り替わる。
テーブルの上に資料を淡々と並べ、店舗の見取り図と場所を示す地図を一番上に引き出した。
「鵡河(むこう)町の、うちで所有している店舗・賃貸併用の多層階住宅ね」
外観の写真を指し示す。
「部屋は全部で…9つか。あたしの部屋はどこになる?」
「どこでも。今のところ2階にひとりと3階にふたり、どちらも独身女性が住んでいるだけで後は空き家になってるわ。マンションのエントランスはあえて表からは見えない造りになっているから、お店もやりにくくはないと思うけど…」
そう説明して見せているのは、例の〈赤い部屋〉のあるマンションだった。今まで手つかずに置いていた1階にある店舗スペースをつかさのトリマーサロンに提供するつもりでいるのだ。
「部屋の間取りはみんな一緒?」
「間取りは一番端の部屋が2LDKで、他は2DKよ。便利さを考えるなら2階かしら」
「今までアパートに住んだことがないから、ちょっとワクワクする」
 自立しているとはいえ、つかさは生まれた家を出たことがない。
「なにせコンビニもスーパーもない辺鄙なところだったから…。でもやっとコンビニ付きのマンションが1ブロック先に着工されたから、少しはましになるかしら」
「へぇ。そこも玲の旦那様が?」
「というより、お兄様かしら」
それは以前夫の泰英が、玲の実兄である〈望(のぞみ)〉から『社宅になるようなマンションを建てたい』との相談を受けたことから派生して進められた物件だった。当時の玲が今のこの状況を見越していたかは解らないが、家族用と女性専用マンションの2棟が建てられることとなったのだ。
「お兄さんの会社の社宅?」
「全部ではないのよ。転勤で移動してくる社員の住居を、自分のところで造れば一石二鳥って考えてのことじゃないのかしら。ひとつの選択肢として」
「だから女性専用?」
「それは私が、ね。あったら便利かしらって思ったのよ。…ここね」
場所が記されているA4サイズの簡易地図を指し、流域面積の広い川を境に建物が密集している地域と開発途中の地域とがはっきりと解る部分を示す。鵡河町とは、その発展途中のまだ未開の土地だ。
「へぇ…。1階のフロア、結構広いのね…」
マンションの見取り図を眺めながら、自分が今勤めている店舗との違いを脳裏に描くつかさ。
「あぁそうね、確かに。はじめは飲食店を考えていたから…仕切りがあるのもそのためよ。トリマーサロンにしては広いかしら。でもペットホテルもできるようにすればそうでもないかも…?」
「ペットホテルか…できなくはないけど」
「いっそのこと隠し階段でも作って2階と行き来できるようにしちゃう? ちょうど2階は店舗の上が空いてるから」
確かに…とつかさは少し考え、
「なるべく余計な工事は避けたいんだ…予算も限りないわけじゃないし」
と付け加えた。
「もしくは、この仕切りの部分を半分にして…ちょっとしたカフェスペースを設けるとか、ね」
「あ、いいかも。中にはトリミングじゃなく、爪きりだけとかちょっとした手入れのお客さんもいるだろうし。今のお店だと、狭いからそういうお客さんもみんな外に出てもらってるんだよね…」
そこがちょっとね…と、今いる店の混雑した店内の様子を語る。今の店舗の不便さを全部改善できたなら良いサロンが作れるだろうと。
「なら、いいじゃない。おやつやおもちゃの小物販売でもいいしね」
いろいろ広がるわね…と微笑む玲。久しぶりに自分が携わる仕事だけに、楽しくてしょうがないといった様子だ。
「でも、資格とかいらないのかな? お茶出すだけにしても…」
「オフィスと一緒よ。セルフのカフェスペースを設けるだけならいらないと思うわ。気になるようなら一応調べておくけど、おいおい考えましょう。…それより、今のお店だけど、円満退社できそうなのかしら?」
その言葉を受け「そうそう…」とつかさは前かがみだった体制を起こした。
「それが、オーナーが。あそこは2年ごとの契約なんだけど、賃貸契約の値上げを提示されてるらしくて、立ち退きを考えてたらしいの。ただ、サロンは赤字なわけじゃなかったから言い出しにくかったんだって。あたしにとっては死活問題にもなるからね。早々に『出て行ってくれ』といわれちゃぁね、」
「あら、そう。なら、ちょうどよかったじゃない…?」
玲は眉を上げ、口の前で両手を合わせ拍手するように指先を動かした。
「そうなの、希望があればスタッフもそのまま連れて行けるし、ね。ただ場所が場所だから…ついてきてくれるかはまだ…」
「まぁね…問題はそこよね」
玲はそういうと、少し考えるようなしぐさを見せ、
「…つかさの引っ越すマンションもなんだけれど、ペットOKの女性専用マンションにしようと思っているのよ。それとコンビニ付きマンションの方もペットOKで話を進めてもらっているわ」
「えぇ! それはありがたい…」
「だからお客さんには事欠かないと思うんだけれど…今までの顧客も引き継げるわけだし」
「そこまで考えてくれてるなんて、持つべき者は不動産屋の友ね」
「だって、そもそもあなたのワンちゃんたちのことがあったから…どうせならって思ってね。一緒に引っ越すのよね? 弟たち…と、同じ名前のワンちゃんたち」
上目づかいでつかさを見る。
「そのつもり」
「それに。辺鄙な場所だけに、女性には『安心して住める』っていうことが第一条件ですものね。真実の元旦那様に言って交番の件も検討してもらおうかと思っているのよ」
それはここ数年、この地域に通い詰めている玲ならではの視点からの意見だった。
「そんなこともできちゃうの?」
「市民の味方でしょ? 第一に考えてもらわなきゃ」
「確かに。でも、確か藻鳥(もどり)町の方になかったっけ? 交番」
そう言って地図にある橋の手前辺りを指し示す。
「橋の向こうじゃ、いざって時に間に合わないわ。それにこの、日の江橋? ラッシュ時には渋滞が酷いのよ。この先家屋が増えることを考えたら交番設置はなるべく早い方がいいと思うのよ」
「へぇ~」
さすがによく知ってるなぁ…と、つかさからみれば業務上のことゆえ当然なのだろうと解釈するが、まさか頻繁にその橋を渡ってマンションに通っているとは言えない玲。
「佑介がダメなら、主人の方から関係者に打診してもらうわ。そう言えばここ日の江川の下流で、来年から花火大会も予定されているのよ」
「やだ素敵じゃない」
「でしょ? そういうことを見越してうちの主人も土地を買っていたのだろうけど、なかなか開発が進まなくてね…少し地価が下がったのよ。それでちらほら住宅が建ち始めたわけなんだけれどね」
「へぇ~」
「現段階では美容室と歯医者が契約まであと一歩ってところなの…このスペースが商業施設を許されてる区域でね、橋を降りてすぐのこの道と蛙土(あつち)市からのここの道とが繋がるわけ、」
と、話し終えたタイミングで店の自動ドアが開いた。

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「戻りました~」
軽く肩で息をしている綾香は、駅から走ってきたのか頬を紅潮させていた。
「あら、綾香ちゃん。早かったわね…」
姿を捉えた途端に手元の資料をまとめだす玲。
「そりゃぁもう、超特急で引き取ってきましたよ」
茶色の封筒を胸に抱え、息を切らしながらソファに駆け寄る綾香。
「こんにちは。…つかささん!」
意気揚々とした笑顔でつかさに微笑む。
「こんにちは」
そう答えながらつかさは圧倒されながら、違和感を覚えた。人払いの為に用を申し付けられていた綾香の態度に思いのほか勢いを感じ、
「いつになく元気ね」
と、微笑んだ。
「そうですか? いつもと変りないですよ」
心なしかいつもよりハイトーンな綾香の言葉を合図のようにして立ち上がる玲。
「それじゃぁ、あと頼むわね」
「え~、どこ行くんですか?」
なにを期待しての「え~」なのかと、玲はあからさまに溜め息を隠さず、
「これから現場よ」
当然でしょ…とばかりにそう言って、綾香の胸の中にある封書を受け取った。
「これを待っていたのだから…」
と、わざとらしく、いかにもその封書が重要であるかのように答える玲。
「そう、なんですね…」
机の上の資料と今受け取った封書とを大きな仕事用のトートバッグに詰め込み、つかさに目配せする玲。なんと手際のいいことか、つかさはあっけにとられながらも苦笑いで従った。
「南茶良(みなさら)ホームに連絡して、明日にでも秋山くんに来てもらうよう手配しておいてちょうだい。それが済んだら今日は上がっていいわ」
「は、…い」
しゅんとして見送る綾香を、少なからず気の毒だと後ろ髪ひかれながら思うつかさだった。
「これから行くの?」
現場に行く…とまでは聞かされていなかったつかさは、玲の顔を覗き込む。
「行ってもいいけど…。今日はそれより、気になることがあってね」
そう重たそうにトートバッグを上下させ、先ほど受け取った茶封筒を取り出し顔の前で軽く振って見せた。先ほどは気づかなかったが、封筒の表面に「重要」との赤い印字があり、下の方に「猿渡相談所」と記載されていた。
「相談所…?」
「そう。どうやらあのコ…。妻帯者とつき合ってるみたいなのよ」
「妻帯、者? 不倫?…ってこと」
「そうなるかしらね。…気づかなかった? 彼女のメイク…濃いと思わなかった?」
「そう、言われてみれば…」
先ほどの違和感はそれかと納得するつかさ。
「へぇ…やるもんね」
「外でやる分には構わないけれど…」
そこまで言ってため息をつく玲に、
「え? 旦那さま?」
まさか…と、つかさは玲の夫と不倫関係になるのかと尋ねた。
「それはないわ…。さすがに20以上の歳の差じゃね…。それに、あの風体で今さら若い子相手にする体力なんてもうないわよ」
そう言って失笑し、机の上に飾られた家族写真に写る姿を思い返すように鼻を鳴らした。
「え、じゃぁ…」
「取引先か、うちの支店のだれか…。べつに不倫をどうこう言うつもりはないのだけれど、仕事に支障があるのは困るでしょ。だから…」
「だからって、当事者である彼女にそんな資料を取りに行かせて、見られたらどうするつもりだったの?」
「見てくれることを期待した…って言ったら?」
「え?」
「わざわざ隣町の支店に届けさせたのには他にも理由があってね…。このところ外出したがる傾向があるからちょっと試してみたの」
そう言って意地の悪い笑みを浮かべる玲。
「なるほどね~」
それを受けつかさも、玲同様に口元を歪めた。
「中を見れば、良識ある人間なら自分でどうにかするでしょう? でもあのテンションで帰って来たところを見ると、覗き見なかったみたいだから、仕事としては正解になるわけだけれど…さて、どうしようかしら」
「なかなか策士ね、玲」
「まぁね…」
「こわい、こわい、」
「不倫は…男と女じゃどちらが陥りやすいのかしら…?」
ポツリといった玲の一言が、つかさには織瀬(おりせ)と真田を連想させた。
「女がフリーの場合、妊娠させられたり結局捨てられたり、泣くのは目に見えていたりするじゃない? でも男がフリーで相手が既婚者だと…それでもやっぱり、泣くのは女なのかしら」
ひとりごとのように話す玲を横目に、今織瀬の話をしたら「玲はどういう反応をするのだろう」とつかさは考える。急に無口になったつかさに、
「どうする? 現場に行く? 飲みに行く?」
玲はいたずらっぽく笑って見せた。
「当然。…飲みに行く!
不倫がいいとは思わない・・・・。が、時と場合によるのではないか…と考えてしまう自分は「身内に甘いだけなのだろうか」と自分を嘲笑するつかさだった。

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「…こ、このたびはぁ、仕事をいただきまして…。ま、まことに、え~」
翌日、来店するなり威勢よく頭を下げたあと、自称「玲(あきら)ファン」のハウスメーカー勤務の営業マン〈秋山忠征(ただゆき)〉は直立不動でしどろもどろ語り始めた。
「ちょっとどうしたの?」
そうなった理由を知っていながら、絵に描いたようにうろたえている秋山の姿に当然呆れ顔の玲。
先日強引に玲を抱き寄せ唇を奪った男とは思えないしおらしさ。もう少し骨のある男と思っていたが、この様子では自ら「なにかやらかしました」と暴露しているようなものだ。
「やだ、秋山さん。なにどもっちゃってんの?」
給湯室に向かおうとした綾香は足を止め、挙動不審な彼を笑った。このところあまり顔を出さなかったことを思えば「仕事をまじめにやっていた」と判断するのが正しい受け取り方なのだろうが、これまでの秋山の態度からそれほど「仕事のできる男」とは受け止めていなかった綾香は、玲が呼び出したのは「お小言を言うため」と決めてかかっていただけに、口元が緩くなるのも当然だった。
「まぁ、座ったら…?」
クスリと失笑し、ソファに座るよう勧める玲。
「あ、…は、はい」
ちらりと上目遣いに秋山を見遣る。
即座に顔を赤らめ目を伏せる秋山。
(バカな男…)
あからさまな態度にため息をつく。
「鵡河町の件なんだけど…」
「は、はい」
「そうかしこまったものでもないでしょう。いつもの得意のお調子はどうしたのかしら」
「ま、まぁ」
「仕事よ。うわの空じゃ困るわ」
言いながら玲は、内心楽しんでいた。秋山の怯えたような態度がおかしくてたまらないのだ。
「はい…」
秋山はしずしずとソファに腰掛け、綾香が給湯室に入ったタイミングで、
「先日は、す、すいませんでした!」
激しくビンタを食らった左頬をさすりながら、秋山は気まずそうに小声でうつむいた。
「やめてよ。聞こえるわ…」
ちょっとからかってやろうと思っていた玲だったが、思いのほか真面目腐った秋山の態度にそんないたずら心も面倒になった。
「ぁ、いや、その…」
「べつに気にしちゃいないわよ」
もっと堂々としていればいいのに…と、玲はため息を漏らした。
「ぁ、はぁ。そう、ですか。てか、それもそれで、…落ち込むっていうか」
大いに気にしてほしい秋山としては、いつも通りの玲にさらに気落ちせざるを得なかった。
対し玲は「バカね…」と前置きし、
「逆にたいしたものだと思っているのよ。昔は昔で父親のせいで、寄ってくる男は将来を気にするやわなおぼっちゃんばかりで…ちょっと粋がっていると思うと、口先だけで逃げ腰だったり、女遊びでトラブル抱えていたり? そんなのばかりだったから」
「はぁ…」
頭をかきながら緊張を誤魔化す秋山。
「20歳過ぎればなにかが変わるかと思っていたら、この派手顔と高飛車な性格のせいでどこかのおじさんの愛人扱いで、むしろ私を口説こうとする男はいないに等しかったの。強硬手段はどうかと思うけど、」
と、最後に「いきなりのキス」に対する皮肉を込め、それでも「今までにないタイプの男」だと玲なりの励ましではあった。
「じゃ、じゃぁ俺にも少しは…」
秋山の笑顔もつかの間、
「ないわね」
そこは冷たく言い放つ。
「そんなっ、即答っすか~」
落胆するも、オーバーリアクションのいつもの秋山節に、
(やっと調子が出て来たわね…)
ふふ…と小さく笑って、
「あたりまえじゃない。あいにく私は主人に愛想もつかしていなければ、不満もないの。ヨコヤリ入れられたところでなびく要素はひとつもないわ。…本気で口説く気がないなら、そのやる気を他の娘(コ)に向けなさい」
そう言って叱責した。
「本気で口説けば…」
「それは今さら時間の無駄ね。努力は認めるわ。でも、いまいちだったわね」
少なからず心揺さぶられたことは当人には言うまい…と、秋山の醜態に玲はつまらなさを感じていた。
(でも…久しぶりに、楽しませてもらったわ…いい刺激にもなったし)
もやもやとした秋山の行動は、次の〈赤い部屋〉への原動力に繋がる。このイライラは「鞭を振るうにはいい材料になる」と、玲は秘かに思うのだった。
「はぁ…」
大げさに落ち込んで見せる秋山。
「どうしたんですかー?」
お茶を運んできた綾香が、いつになく神妙な面持ちの秋山の様子にあからさまに興味を示し目をきょろきょろさせる。
「ちょっと、気合を入れてあげたのよ」
そういう玲の言葉に、お茶を差し出しながら、
「そうなんですか? 秋山さん、仕事でも玲さんに愛想つかされちゃったんですか~」
そう言ってからかう綾香。
「仕事っていうなよ! 仕事もって…」
ムキになって答える秋山。
「じゃ、な~に? 仕事は愛想つかされてないとでも?」
「そういう、わけじゃないけど。…いや。最近、生意気だぞ…!」
「やだ。そういうこと言うんですかぁ、往生際が悪~い」
「う、うるさい」
勝手が解らない綾香の言葉はますます秋山を落ち込ませるだけだった。
「ねぇえ? 綾香ちゃん。最近、メイクが濃いようだけれど、なにかあった?」
そこで玲は助け舟を出すつもりで綾香に話題を振った。
「え? そんなこと…もぉ、ないですよ~。いつも通りです。だなんて、やめてください、玲さん~」
触れられたくないのか、本音は大いに突っ込んでほしいのか解らないようなふにゃらけた顔を、綾香はトレーで隠して見せる。だが隠したいようで隠せていないその心の動揺は、明らかに「」という言葉に現れていた。思いのほか素直に、誘導尋問に引っかかってくれたというわけだ。
「そうじゃなくて、…お化粧が」
濃い~っちゅーの!!
綾香にはまったく堪えていない様子に、そう強く言いたいところを笑顔で受け流す玲。
(…解りやすい子だわ)
もっともそんな風に男のために努力できる綾香の姿が、今の玲には新鮮でもあった。かつては自分にも、好きな男のために…と努力を惜しまない日々があったはずなのだ。今現在、白髪染めや体型維持に気を使ってはいるものの、それは夫の為ではなく自分の為だ。
(あなた色に染まる…ってところかしらね)
いずれにせよ綾香の様子を見て「早急に手を打たねばなるまい」と改めて思う玲だった。
「さ、秋山くん。仕事して」
「はい。よろしくお願いしまっす…!」

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前日に入手した〈素行調査書〉には、しっかりと綾香の不倫現場の写真が添付されていた。さすがの玲もひとりで見る勇気がなかったために、つかさの来店に合わせて書類を届けさせたのだが、相手は「水本(旦那)ではないのか」とのつかさの言及に不安がないわけではなかった。そんなことはあり得ないと頭では解っていても、実際綾香の相手が自分の夫であったのならどうしようか…とも考えないわけではなかった。反面、そんなことに「どうしよう」と考えている自分自身にも玲は驚いていた。「どうしよう」と考える自分は、夫との生活が当たり前になっている自分の心を試すいい機会でもあったのだ。未だ夫を愛しているのか、それともただの独占欲の延長か。

『自分が夫に愛されているってことはありありと解るの…』
とは、昨日つかさと出掛けた先での玲のセリフだった。
『でも自分は、主人ほどアピールしているとは言えないわ』
と、これもまた本音だった。
愛情表現はいくらか歪んでいるとはいえ、自分(玲)をつなぎ留めておくためにと結婚記念日に〈赤い部屋〉をプレゼントしてくれたり、頼んでもいないのに鞭やボンデージを玲好みの特注で作ってくれたり、もちろん家のことも子どものことも夫の泰英(やすひで)はよくやってくれている。だがそれに対し玲は、ただ感謝を示すのみだった。
欲しいものは特にない、なぜなら全部持っているから…
仮になかったとして、玲なら容易に手に入れることが出来る。そんな境遇に置かれている者が欲するのは「不自由」。それは「愛情」や「信頼」といった「形のない物」と同じだった。玲が幼い頃には持っていなかったもの。
『愛情は冷めたってこと?』
『よくわからないわ。でも、昔ほどのときめきはないわね…』
『ときめき…ねぇ。やっぱりそれは夫婦間には求められないものかしらねぇ』
つかさ自身、自分に置き換えて考えようとしても思い当たるふしがない。
『でも、嫌いじゃないわね』
よくよく考えて、さらに自分の胸に聞いてみれば、行きつくところはとりあえず「嫌いじゃない」だった。
『やだ、のろけ?』
そう微笑むつかさに、適当ではないと感じつつも玲は「そう、かしら…」と答えた。
(うまく言えるものじゃないわね…)
人はいつも自分のことには疎いものだ。
『つかさはうまく行ってるの? 例の彼と』
『あぁ、それもよくわからない。ときめきもない。でも、嫌いじゃない』
『なにそれ。のろけ?』
『ん~どうだろ。この次聞いてみて』
『なんだかはぐらかされてるみたい』
『あたしもね、そんな気がしてるの』
『はぐらかされてるって?』
『うん…』
つかさの方はまだまだこれからのようだ。
『それより…その写真の人は、知ってる人?』
目の前に重ねられた写真に目を落とすつかさ。
『…えぇ。よく知っているわ』
綾香の不倫相手は玲の憶測通り隣町の支店長だった。玲の中では想定内であったため「あえて」調査報告書を支店に届けさせたわけだったのだが、果たして支店長はどのように受け取っただろうか。
〈重要〉と赤い印の押してある「相談所」と書かれた封筒を受け取り、なにか感じはしなかったのか。さらには、その書類を取りに行った綾香に対しどのような態度であったのか、大いに興味をそそるところでもある。
当の支店長は最近子どもが生まれたばかりの新婚で、新妻は300Km離れた実家に里帰りしている最中だった。つまり支店長と綾香の関係はオフィスにありがちな安っぽい関係ばかりでなく「妊娠中の浮気」だということが解ったわけだ。
たいして忙しくもない自分の支店で、扱いやすいというだけで綾香を手元に置いておいたのが仇になったのかと、玲は反省せざるを得ない。そんな気遣いは無用であるとは承知しながらも、あまり人付き合いのない玲なりに考え、自分のわがままがこのような不始末を招いたのではないかという結論に思い至ったからだ。9月も終わりに近いというこの時期もあり、玲は近いうちに「人事異動を行う」旨を社長である自分の夫に進言した。
(今後、どう出るかが楽しみだわ…)
ちらりと綾香を横目で窺い、そう思いながらも怖いもの知らずの若さを羨む玲だった。

観葉植物

数日後・・・・。
ぴんぽ~ん♪
宅急便以外来客の少ない玲のマンションのインターフォンが鳴った。
(え?)
のぞき穴から見えるその姿に玲は目を疑った。なにやらステキなお出かけ服に大きなボストンバッグが見える。いやな予感がする…とはいえ出ないわけにはいかないと、ひとつ咳払いをし、
「あら、明日香さん。どうなさったの?」
あるはずのない来客、さらにあり得ない相手に動揺を隠せない玲。だが、
「玲さん。…わたくし、家出してまいりましたの!」
「え?」
新しいトラブルが、玲の目の前に現れた。
なんですって?




まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します