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感動を見る「目」、感動を作る「手」

私の母は、書道有段者です。
そして、「努力の人」でもあります。

母が小学校低学年の頃、書道のコンクールがあったんだそうです。
書道を習ってはいなかったものの、母は字を書くことが好きでした。

で、コンクールに応募。
しかし、あと一歩のところで、入賞を逃したんだとか。

そのコンクールに入賞したのは、書道を習っていたクラスメイトでした。
母の心に火が付いたのは、その時でした。

母は即、書道を習いに行きました。
名の知れた書道教室ではなく、お寺でひっそりと開かれていた書道教室です。

毎週日曜日、雨が降っても嵐になっても、母は教室に通い続けました。
そしてとうとう、有段者(4段)となりました。

そんな母ですから、「書」を見る目を持っています。

夫が千手観音菩薩像を出展した作品展には、書もたくさん展示されていました。
私は書はよくわからないので、作品を拝見しても「すげぇな」としか思っていなかったのですが…

「今回、『ぐっと来る作品』はなかったなぁ」

と、母は言っておりました。
母、なかなか厳しい。

私「そうなん?どれもすごいと思ったけど」

母「いや、それなりに体裁を整えて、きれいに書くことはできてるねん。でも、なんかこう…感動できる作品はなかった」

私「書道の先生の作品とかもあったやん」

母「書道の先生が良いとは限らんで。○○(地元の書道教室)みたいなのも、あるやん」

…地元の書道教室の看板文字について、母は酷評しております(笑)

母「字がきれい、それだけやないねん。字の流れ方とか、そんなんも大事やしな」

うーむ。
奥が深い。

そんな母が、

「これより良い作品は無いな」

と言ったのが、こちら。

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私がかつて、京都の穴穂寺にていただいた御朱印です。
母はこの墨書を絶賛しておりました。

「かかる世に 生まれあふ身の あな憂やと 思はで頼め 十声一声」

と書かれています。
穴穂寺のご詠歌です。

そして、私が母の言葉にドキッとしたのが…

「ぐっとくる作品」

…コレです。

仏像も、まさにそうだと思ったのです。

私もこれまで、たくさんの仏像を見てきました。
仏像彫刻の展示会にも、よく足を運びました。

そこで、「見た目は確かに良いんだけど、『来る』ものがない」という仏像も、たくさん目にしました。

完成度も高い、一分の隙もない仏像でも…
「違うな、これ」と思う仏像もありました。

おそらく、「違うな、これ」と思った作品は、「仏像とは拝むもの」という概念がないのではなかろうか。
そう、感じたのです。

「工芸」の分野で見れば、確かにすごい作品なのかもしれない。
でも、「拝む」という観点から見れば、どこか鼻につく。

母も同じことを感じたのではないでしょうか。
「純粋に書に臨む」のか「カッコをつけている」のか。

すごいなと思わせる「仏像」なのか。
思わず手を合わせたくなる「仏」なのか。

夫には常々、

「拝みたくなる仏像を彫ってほしい」

と言っています。

やはり仏像は、「拝んでナンボ」と思うからです。


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