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きっとどこかで

あと、数分で2022年の幕が閉じます。去年の今頃、コロナで分断された世界が、戦争という”人災”で、世界の平和にさらなる危機が訪れるとはだれも思っていなかったのではないでしょうか。
2022年3月、1か月のハンガリー側でのウクライナ避難者支援活動の後、私は、10月後半にも2週間、ハンガリーに行きました。日本からスタッフを送らなくてもこれまで培ってきた信頼関係を元に、ハンガリーやウクライナの関係団体が主導する形で支援活動を行うための準備をすることが目的でした。理由は、続く円安、加えて航空運賃の高騰。日本から人を送るのは、効率的ではないと考えたからです。

3月と10月の違い

3月のハンガリーは本当に一般市民が一体となって、ウクライナからの避難者を受け入れていました。背景には、1956年のハンガリー動乱の歴史やシリア難民受け入れなどの経験もあったと、現地で聞きました。
しかし、10月、2度目の訪問の時、3月とは違った状況がそこにはありました。
 1つは、ハンガリーの人たちの想いの変化です。
ハンガリーの人に支援は受けたくないとウクライナ人に言われたと、実際にウクライナに何度も足を運んでいる医師から聞きました。ハンガリーの中でも、いままで口を噤んでいた人たちが、いつまで支援を続けるのかということを口にし始めたということ、加えてEU各国から、EUの中でロシアよりのハンガリーの立ち位置に対する非難がではじめていることをハンガリー在住の日本人からも聞きました。
 2つ目は、物理的困難が出てきたことです。
実際に物価高騰を目の当たりにしました。私が行っている時、ガソリン代は、外国人価格250/Lでした。(国民は政府の努力で150/L)そして玉子は10個で500円に!これは、真夏の暑さが飼料の生産に打撃を与えた上に、ウクライナからの輸入が止まっていることが原因だそうです。このような様々な要因と長引く支援に、今まで支援を続けてきたハンガリーの人たちも自分たちの生活を犠牲にして、どこまで支援できるのかと、物理的にも体力的にも支援を続けることへの負担に疲れ果てた様子が見て取れました。

あなたオニね!

10月後半、ハンガリーの国境近くの町、キシュバルダでウクライナから避難してきている子どもたちを預かっている幼稚園に行きました。ここでは、ハンガリーの子どもたちもウクライナの子どもたちも一緒になって遊んでいました。日本の幼稚園と変わりない光景がそこにはありました。先に入ってきたウクライナの子どもが後から避難してきた子どもにハンガリー語を教えたりして、子どもたち同士でも助け合っていました。ウクライナに残るお父さんにメッセージを書いたりもするそうです。私はここで、折り紙やパズルをしたりしました。園庭に出てブランコにも乗りました。子どもたちが後ろから私の背中を押してくれるんです。

 一人の女の子が、ウクライナ語で、私を指さして、何かを言いました。こんな時、人間って面白いですね。私はすぐに何を言われたのかわかりました。「あなたオニね!」って。
私はオニババになって、子どもたちを追いかけました。
子どもたちは日本からきたオバサンに追いかけられて、きゃぁきゃぁ!!!
私は久しぶりの鬼ごっこで体力消耗、ヘトヘト・・・。世界が子どもばっかりだったら、こんな戦争は起こらないのに、と。
そして、私は、幼稚園の先生に言いました。
「楽しかったぁ・・・・」と。
そうしたら先生は、
「私たちはこの子どもたちがお母さんの涙をみなくてもいいようにこの子たちを預かっています。」と、私に答えました。
日本の幼稚園と変わりない光景であってもその背景に”光”はありませんでした。

死は常に隣に

 その後、私は、ウクライナ国内にある病院の関係者と支援を続けるための協議をハンガリー側に避難しているウクライナ人とともに電話で行うことになっていました。日本の多くの方々からAMDAに寄せられた募金ですから、大切に使うために、関係団体の会計担当者とのすり合わせは最も大切な仕事です。しかし電話の途中で、会計担当者の息子さんがキーウで戦死したとの連絡が入りました。絶句でした。ウクライナの人たちにとって、死は常に隣り合わせにあると強く思い知らされた一瞬でした。すぐに息子さんの遺体を探すためにキーウに向かうとのことで、電話協議は中断しました。
 数日後、息子さんの遺体が見つかったと、その人の同僚から聞きました。私は、「よかった」と思いました。日本であればせめて遺体だけでも見つかったらという想いは誰にでもあると思います。でも彼女は言いました。
It is just a body not her son.
遺体が戻ってきても、息子は帰ってこない・・・。

10月18日、私の目の前に広がるウクライナの国土。とても静かな時間。幸運なことに爆撃の音もなく、立ち上る黒い煙などは見えませんでした。しかしあの空の下でどれほどの人たちが血と涙を流し、心を抉られるような思いをしてきたのでしょうか。空はずっと続いているのに人々の心を繋げられないのはなぜでしょうか?ほんとにこの惨劇を止める勇気を人はもてないのだろうかと、強く思いました。


これを書いている間に2023年の幕が開けました。
今年は、世界中の人たちが笑顔で過ごせる時間が少しでも多くなることを願っています。そして私の出逢ったウクライナの人たちともきっとどこかで会えたらいいな・・・。自由な美しい空の下で。

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