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ヤム - 鬱の話 -



ヤム



今から十数年前、次女が生まれてすぐのこと
ぼくはフリーのイラストレーターとして独立して三年目


不安定な仕事の波に飲み込まれ
浮いたり沈んだりの毎日
明日のお金は運次第
妻と幼子二人の将来を保証するには
余りにも頼りない大黒柱

今にも沈没しそうな手漕ぎの小舟は揺れに揺れて
僕の頭は休む間も無くぐわんぐわんと周りつずける


はやく何者かにならなければと
絵を描くたびに破り棄て
焦れば焦るほど深く沈む
底なし沼

頭は常に痛く
瞼は常に重く
耳は常に水中のよう

呼吸は常に浅く
動悸は常に速く
心は常にぼくを責める


才能などなかったのだ
繰り返し襲いかかる無価値観
井の中の蛙が家族を養えるほど
成功できるほど世の中は甘くない
すべてが勘違いで
すべては叶わぬ夢なのだ


世間知らずの綱渡り人生だと
みんなが僕を見て笑う
だから言っただろうと
あの日の父が笑う

闇の渦は果てし無く拡大し
ぐるぐるぐるぐる目が回る
ぐるぐるぐるぐる僕の光が吸い込まれていく


あぁもうダメだ耐えられない
僕が僕を殺そうとする
このままでは大切な家族も守れない
妻に話して病院に行こう





僕はどうやら心を病んでるみたいだ
情けないけど、心配かけてすまないけれど
ちょっと近くの精神科に行ってこようと思うんだ


やっと言えた
ついに言ってしまった
何かに負けたような
何かが終わったような
脱力感


妻は行ってきたらとだけ言った
特に気にもしてない様子で
特別なことも何も言わずに
僕が行きたいのなら行ってきたらとだけ言った


家から一番近い病院にした
何を基準に探せばいいかもわからないからどこでもよかった
薬でも貰えたらきっと今よりはマシになる
やけに重たい不気味な扉を
僕はとうとう開けてしまった






待合室には先客が一人座っていた
どこにでもいる普通のおじさん
他人から見たら僕も同じように見えるのだろう
まともに見える病んだおじさんが二人
平日の昼間に精神科の待合室で向かい合って座っている

なんてシュールな空間だと他人事のように思った
異世界に迷い込んだような気がした


おじさんより先にぼくの名前が呼ばれた
恐る恐る診察室にはいったら男の先生がいた
優しい口調でどうしましたかと尋ねられ
僕はここ一月ほどの鬱々とした状態を冷静に話した

先生は僕の話を聞きながらまるで関心が無いように
ああそうですかと機械的に相槌を打つ...



上手く説明のつかない心と体の不調を
淡々と打ち明けるおじさんと
ロボットのようにああそうですかを連発するおじさんが
平日の昼間に向かい合って座っている
またふとシュールだなぁと他人事のように思った





ぼくが一通り話終わってしばらく沈黙がつづいた
ああそうですかと頷いてた割には長い沈黙
やっぱり僕の話を聞いてなかったでしょと思っていたら
おじさん先生が話しだした


わたし最近歯が痛くてね
どうにも寝られないんですよ
おかげで寝不足になって辛いんです
だから今朝歯医者に行ってきたんです
昔から凄く歯医者が苦手なんですがね
仕方ないから行ったんですよ


はぁ?

僕は戸惑った返事をしたが
おじさん先生は話し続けた


そしたら歯医者さんがね
虫歯はとくに見当たらないって言うんですよ
僕がどんなに細かく痛い所を説明してもね
そんなはずはないって言うんですよ
まったくひどい話でしょう
当の本人が痛いっていうのをね
否定するんですよそのヤブ医者!


おじさん先生は吐き捨てるように言った
次第にヒートアップしてくる


僕はもう頭にきてね
とにかく痛いんだからちゃんと調べてくれって
何度も何度も言ったのにね
そのヤブは全然信用しないんだよ
私が嘘をついてると思ってるんですよ

そりゃ誰だって頭に来るでしょ
こんな思いして嫌いな歯医者に来てんだよ
痛くないわけ無いじゃない
そうでしょ?
そうですよね?
あなたも私の立場だったらそう思うでしょ?


突然求められる同意
先生の目は血走って空を見ている
僕は目が点になって


は、はぁ

と生返事を返すことしかできなかった


悩んでるのは僕だから
患者は僕のはずなのに
なんなのこのシチュエーション
おじさんむちゃくちゃ怒ってるし
心が500メートルくらい引いてしまっていた僕は
とりあえず先生を落ち着かせようと

まぁ虫歯がなかったのはよかったですね

と言ったら
火に油を注いでしまった


なにーーーっ!!!
あんたも私を疑っているのか!
突然叫びながら立ち上がり
デスクの引き出しを力任せに引き出した
そこにはカラフルな錠剤が大量に散乱していて
先生はそれをワシ掴みにしてまた叫んだ


私はこんなに痛み止めと睡眠薬を飲んでいるんだぞ
痛く無いわけが無いじゃないかーっ!
そしてさぞ無念そうにバーーーンと机を叩いた



ドン引きである



平日の昼間に精神科の診察室で
激昂後に放心しているおじさんと
目が点になって固まるおじさん
その日一番のシュールタイム




二人の間にしばらく沈黙が続いたあと


で?
と先生


は?
と僕


それで今日はどうされましたか?
と先生


え?
と僕


ああそうですか はい はい
と先生


えええーーーっ?
と心で叫ぶ僕


今日はまあね あれなんで
またなんかあったら来てください
はいっ 今日はもういいですよう...

そう言ったきり先生は窓の外に目をやった


まじか...
まじなのか...
異世界すぎる...
なんなんだこれは...
心の中でいかりや長介の声が響く

だめだこりゃ












僕はわけがわからず診察室を出た
待合室のおじさんはもういなくなっていた

会計のときに受付のお姉さんが診察券を手渡しながら
次回はこちらをお持ち下さいねと言った
次回という言葉に妙な違和感を覚えながら
僕は放心状態のまま病院スリッパから
懐かしさすら感じる自分のスニーカーに履き替え
病院の扉に手をかけた


ガチャンと病院の扉を閉めた瞬間
僕の中で何かがはじけた...


世界が一瞬で変わったのを感じた...


そしたら突然この一連の出来事が
可笑しくてたまらなくなってきて
自然と笑顔が込み上げてきた


外の景色は来た時とは別世界のように全てがまぶしい
まるで生まれ変わったような心地がした
悩んでいたこと全てがバカバカしく思えて
すべて大丈夫なんだという根拠のない安心感に包まれた


僕は今もらったばかりの診察券を気持ちよく破いた

もうここに来ることはない
それよりも早く家に帰って
この奇妙な体験を妻に話したくてたまらなかった

きっと呆れたように笑うだろう
そして何事もなかったかのように
これからも変わらず
僕の不確かな才能を信じて
支えてくれるに違いないと思った



僕の心は完全に復活していた



人は誰でも病むんだ
病むことは普通のことで
自然現象のようなものかもしれない

病むことは悪いことでもなければ
まして恥じることでもない

陰がなければ陽もないように
病まなければ気づかないことがあり
病むことで初めて見えてくる景色がある


待合室のおじさんは病んでいたが
あれはおじさんの全てではない
彼は美しい蝶になる前のサナギ


先生は僕のために芝居をしてくれたのかもしれない
血走った目と吹き出すツバキ
迫力の独り舞台は僕の心の奥まで響いて
大切なことを覚らせた


病院の外へ出たあのとき
僕の内側からクスクスと笑うささやき声が聞こえてきた

そうだよ 人生は自分が主役の喜劇
自己否定なんてもったいない
不器用な方が面白いんだ
すべてはうまくいくのだから
自分を愛して素直に進め



まぶしく輝く景色はさっきまでの闇の世界ではなかった
僕はまた一つ新たなパラレルワールドへ移行したと感じた







title:  After the long rain, you will shine as the sun.

〜 長雨のあと、君は太陽のように輝くよ 〜


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