髙田忠計

郵便局OB(勤務-郵便局・郵政局・かんぽの宿-愛媛23年・高知4年・徳島、香川各2年・…

髙田忠計

郵便局OB(勤務-郵便局・郵政局・かんぽの宿-愛媛23年・高知4年・徳島、香川各2年・大阪12年・京都1年)  趣 味(グラウンドゴルフ・命の貯蓄体操・書道-洗心書会・岳風会詩吟-80歳の誕生日入会現在2段) 畑仕事(足腰が痛いと言いながら210坪の畑に各種野菜を作っている)

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母の教え№32  〇 おわりに

  ○ おわりに  父は、私が1歳9カ月の時に出征し、3歳3カ月の時に戦死したので、父親に何かをしてもらったという記憶が全くない。   その分、母とは、高校を卒業後、地元の郵便局に就職して、昭和40年4月に京都郵政研修所に入所するまでの25年間余りを過ごして来た。  そこで私は、三人兄弟の中でも、一番多く母の教えを受けており、母の考え方を受継いでいると自負している。  母は、私たちが子供のころから、何かにつけて、自分の経験や世間話・例え話でいろいろのことを教えてくれた。

    • 母の教え№31 嫁と姑たちの戦い(13) 12 母の置手紙

      12 母の置手紙  「嫁と姑たちとの戦い」という項で、いろいろのことを書いてきたが、結局、祖母も伯母も兄嫁もとうとう母の喧嘩相手にはならなかった。  いわゆる母のいう「レベルが違うけん、喧嘩にならん!」というのが、実態だったようだ。  「誠心誠意尽くしてさえおれば、以心伝心と言って、こちらの気持ちが相手に通じるものよ!」「相手に好かれようと思えば、まず、こちらが、心から相手を好きになることよ!」と言うのが母の持論であり、また、「人生は、芝居と同じよ! 芝居は、一時間余りで

      • 母の教え№30  嫁と姑たちの(12) 11 母あての手紙(2)

        11 母あての手紙(2)  私は、昭和40年4月に、京都郵政研修所に入所し、一年間の研修終了後、引き続き近畿方面の郵便局に就職したので、母がその後、祖母の看病や小姑や兄嫁との間に入って、どの様に対処してきたか良く判らなかったが、昭和56年母が75歳で急逝した後、放置されていた倉庫を整理していたところ、母あてに来た手紙等が出てきた。  そこで、母が祖母を看病した、昭和40年1月29日から、昭和41年10月13日まで前後に、母手に来た手紙の中から、母が祖母の看病に我が身を投じて

        • 母の教え№29 嫁と姑たちの戦(11) 11 母あての手紙(1)

           11 母あての手紙等  私は、昭和40年4月に、京都郵政研修所に入所し、一年間の研修修了後、引き続き近畿方面の郵便局に就職したので、母がその後、祖母の看病や小姑や兄嫁との間に入って、どのように対処してきたのか、良く分からなかった。  ところが、昭和56年、母が75歳で急逝した後、放置されていた倉庫を25年経った最近になって整理したところ、母の遺品等がいろいろと出てきた。中でも母が父に嫁いでから、生前いろいろの人から母あてに来た手紙等が全部保管されていた。父が書いた軍事郵

        母の教え№32  〇 おわりに

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        • 身代わり狸物語あらすじ
          3本

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          母の教え№26  嫁と姑たちの戦い(8) 8 盲腸の手術

           昭和35年4月、姑が75歳の時、盲腸で入院し、手術することになった。 姑は、これまで全く大病をしたことがなかったので、入院しなければならないと言うだけで、不安になっているところに、お腹を切ると聞いて、大騒動になってしまった。  しかも、『80歳近くにもなって、盲腸になる人は少ないよ……』と地元の医者に言われ、より一層、ショックを受けたようだった。  母が盲腸を患って一番苦労した時期に、姑達がそんなに真剣に看病していなかったことが、心の隅に残っていたのか、たくさん病気がある中

          母の教え№26  嫁と姑たちの戦い(8) 8 盲腸の手術

          母の教え№28  嫁と姑たちの戦い(10) 10 姑の大病

          9 姑の大病  母は、50歳を過ぎたころから、親譲りの高血圧で、実母のように中風で寝込んで、長兄の嫁さんに看病させるようになってはいけないと、常日頃から、自分自身の身体には随分と注意していた。その一方、床屋の仕事や母屋のことは、長男夫婦に任して、畑仕事の合間に遺族会や母子福祉会の世話をして、時には、会員の皆と一泊旅行にも行けるようになっていた。  母と姑・小姑との間は、前にも書いたとおり、昭和35年の盲腸の手術の 看病を境に、一変して、何事にも、「花子、はなこ……」「花子

          母の教え№28  嫁と姑たちの戦い(10) 10 姑の大病

          分葱の球根が沢山取れ、次回植える分を残しました余分の球根の有効利用方法を教えます。

           分葱(わけぎ・アサツキ)の球根が沢山取れて、次回、プランターに植える分を残しても余りました。  分葱は、年に4~5回も収穫ができ、ぬた・チジミ・卵焼きに細切れにして入れるなど、利用方法は沢山あります。  ところが、最後に収穫して残ったの球根で、次回植える分を残した余分の球根は、捨てるしか利用の方法がありません。  そこで残りの球根の利用方法を教えます。

          有料
          100

          分葱の球根が沢山取れ、次回植える分を残しました余分の球…

          母の教え№27 嫁と姑たちの戦い(9)   9 長兄の嫁

          9 長兄の嫁  長兄は、中学校を卒業すると、父の職業を受け継ぎたいと、宇和島に在る床屋に弟子入りし、昭和28年、四年間の弟子修行(途中、身体を壊して一年足らず自宅療養した)と一年間のお礼奉公を終えて帰省し、後を受け継いだ。  その時、次兄は、どうしても自分の力で高校に行きたいということで、中学校を卒業するとすぐに宇和島の知人宅に住み込みで入り、畑仕事を手伝いながら、夜間の四年制定時制高校に通わせてもらい、三年生になっていた。  一方、私は、中学三年生で、卒業したら大阪方面に

          母の教え№27 嫁と姑たちの戦い(9)   9 長兄の嫁

          母の教え№25  嫁と姑たちの戦い(7) 7「ンコ」のおばちゃん

           小姑が通ると、「ンコのおばちゃんが来た」と言って子供達が陰口をたたいていた。  母は、不思議に思って、小姑の唯一の友達にその理由を聞いたら……、 『近所の年寄りが、井戸端会議をしているところに、生コン車が来て停まったらしい。  ところが、この車が、何をする車か誰も分からず、ワイワイガヤガヤ騒いでいるところへ、丁度、小姑が通りかかり、『ヨシエさんだったら字が読めるから、分かるだろうと呼び止められて、聞かれたそうだ』  小姑が、『この車は、横に “ンコ” と書いてあるので、ウン

          母の教え№25  嫁と姑たちの戦い(7) 7「ンコ」のおばちゃん

          母の教え№24  嫁と姑たちの戦い(6) 6 畑 仕 事

           戦後数年たった頃、床屋も次第に、母の丸刈りの技術だけでは追いつかなくなり、長髪のできる職人さんを雇うことになった。  職人さんを雇うと母の手が空くので、自分達が作っている、三段四畝の畑を手伝ってもらいたいと、姑と小姑が言い出した。  母は、これまでに畑仕事などをしたことがなかったのに二人には、そんなことは関係なく、強引に申し出てきた。  『今まで気になっていても、店の仕事が忙しくて行けなかったが、これからは、少しは手伝いができる。祖母ちゃんも、65歳を過ぎたので、畑仕事は

          母の教え№24  嫁と姑たちの戦い(6) 6 畑 仕 事

          母の教え№23  嫁と姑たちの戦い(5)  5 嘘(うそ)

          〝嘘は泥棒の始まり〟と言われ、一般的に子供が嘘をつくことを戒めていたが、母は、よく私たちに嘘をつくように指示していた。  母の持論は、『自分が得をしたり、自分の意見を通すための嘘は駄目で、相手を擁護したり、相手のためになる嘘は、時にはついても良い』というのである。「嘘も方便」というのが母の方便である。  姑たちは、芝居や見世物が大好きだったが、全然収入がなかったので、正月と旧正月にある小中学校合同の学芸会と青年団主催の演芸会以外は、ほとんど見に行くことはなかった。  私の家の

          母の教え№23  嫁と姑たちの戦い(5)  5 嘘(うそ)

          母の教え№22  嫁と姑たちの戦い(4)       4 養  子

           8歳2か月と6歳7か月・3歳3か月の男の子3人を残して、父が戦病死したので、当然、親戚や周囲の人々から、〝子供を養子に出したら〟という話が起きてきた。  母が元気を取り戻し、村葬が終わって少し落ちつくと、母の実父からも、父方のごく近しい子供のいない金持ちの親戚に、「せめて次兄だけでも、養子に出したら……」という話が持ち上がってきた。  姑達にも、長兄の後取り息子さえ残れば、後の子供はどうでも良いという気持ちがあり、「病弱な嫁はもういらん」という態度がありありと見え隠れしてい

          母の教え№22  嫁と姑たちの戦い(4)       4 養  子

          母の教え№21  嫁と姑たちの戦い(3)  3 嫁いびり

           当時は、嫁と姑の確執は、何処の家庭でも日常茶飯事の出来事だったが、特に我が家は、おまけの小姑がついていたので、よその家庭よりもより複雑だった。姑たちと別居だといっても、しょっちゅう小姑が家に出入りして、箸の上げ下ろしまで、くどくどと文句をつけていたが、父は、床屋の店の方に常時いたので、裏方のことについて、姑達がどう言った、こう言ったといちいち報告もできず、母は、困ってしまったそうだ。  『よくまあ、こんなことまで思いつくものよ』 と感心することもしばしばであった。  また、

          母の教え№21  嫁と姑たちの戦い(3)  3 嫁いびり

          母の教え№20  嫁と姑たちの戦い(2)  2 火 事

           ある日、この上に妹を激怒させる事件が起こってしまった。 その日の朝早く、『二人とも風邪を拗らしてしんどいから、今日は、子供の世話ができんので頼む……』と4歳の次兄と1歳の私を小姑が連れてきた。  『長兄は、学校から帰ったら母屋に来るように言ってある』ということであった。  昼を過ぎたころ、集落内の火災を知らせる半鐘が鳴り響いた。実妹が飛び出して確認すると、姑が住んでいる家から、少し川下の朝鮮人(朝鮮半島から帰化した人)の一軒家が燃えているということであった。しかし、姑の家

          母の教え№20  嫁と姑たちの戦い(2)  2 火 事

          母の教え№19  嫁と姑たちの戦い(1)                   1 はじめに

           母は、『お姑さんが、村一番難しいと言われる人である』と言うことは、結婚前から聞いていたが、『姑は、母屋から4~500m離れた一軒家に住んでおり、同居ではないこと』と『旦那になる人さえ立派な人物であれば、お姑さんは、何時までも長生きする訳でもないから……』という、仲人さんの口車に乗せられて、『それもそうだ……』と納得してから結婚した。  しかし、『これほど難しい人だとは、想像もつかなかった』と子供の頃、何度も面白おかしく笑いながら話してくれた。おまけに、姑にもう一つ輪をかけ

          母の教え№19  嫁と姑たちの戦い(1)                   1 はじめに

          母の教え№18 しつけと子育て(4)             6 うちの重喜ちゃん

          6 うちの重喜ちゃん  近所には、いろいろと豪快なおばさん達がたくさん住んでいた。特に、戦後間近の私達の地域には、各家庭にたくさんの子供がいて、夜遅くまで戸外で遊んでいる姿がよく見られた。  子供達が危ないことや悪い事をすると、どこの子であろうと、近くにいた大人が厳しく叱るのが常識となっていたように思う。  隣の八人の子供を持つおばさんは、特に、豪快な人で、自分の子も他人の子も同じように怒ることで有名だった。  ある日の夕方、戸外で皆が遊んでいると、そのおばさんが来て……

          母の教え№18 しつけと子育て(4)             6 うちの重喜ちゃん