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母の教え№19  嫁と姑たちの戦い(1)                   1 はじめに


 母は、『お姑さんが、村一番難しいと言われる人である』と言うことは、結婚前から聞いていたが、『姑は、母屋から4~500m離れた一軒家に住んでおり、同居ではないこと』と『旦那になる人さえ立派な人物であれば、お姑さんは、何時までも長生きする訳でもないから……』という、仲人さんの口車に乗せられて、『それもそうだ……』と納得してから結婚した。

 しかし、『これほど難しい人だとは、想像もつかなかった』と子供の頃、何度も面白おかしく笑いながら話してくれた。おまけに、姑にもう一つ輪をかけたように気難しい、母より5歳年上の父の実姉(未婚の小姑)が、同居していることは、仲人さんからは聞かされてなかったそうだ。

 母は機会あるごとに、姑・小姑とのやり取りの中で、いろいろと苦労した話をしてくれたが、これは、私たちに〝人間としての付き合い方や考え方〟を、実例を交えて教えるためのものであったようだ。
 それは私たちが、母から “いじわるされたり、苦労した” 話をいくら聞いても、決して祖母と伯母を憎んでなかったし、今から考えてみれば、どこかに祖母たちを憎まないような、母の仕掛けがしてあったように思う。
 それは、母が亡くなったあとの15年間も、長兄が、見る人のいない伯母(92歳まで)の面倒をみたことからも伺える。

 『人には、誠心誠意仕えてさえおれば、〝以心伝心〟といって、いつかはこちらの気持ちが、相手に伝わるものだ』というのが、母の信念であり、持論であったように思う。
 『物事は考えようで、親の面倒を見ているとか、見らされていると思えば、辛くてしんどいことも、どんな時でも、自分のためにしているのだと思えば、少しの労も苦にならない』とどんなに疲れた時でも、ニコニコしながら世話をしている姿を、常に私たちは見せられていた。

 『いちいち自分の子供に教えなくても、常日頃から、年寄りを大切にしている姿を見せておけば、今度は自分が年取った時に、同じように大切にしてもらうものよ。自分がろくに親の面倒を見てもいないのに、自分が親になった途端に、子供が見てくれないと嘆き悲しむ人もいるが……』と隣近所の知っている人の実例を出して話してくれた。

 父は、昭和7年2月の上海事変から昭和12年の日中戦争・昭和16年の太平洋戦争と3回も出征した。母は、父が3回目に出兵したころに盲腸を患ったが、1歳の幼児を筆頭に3人の子供がいたので、手術せずに散らしながら無理をしているうちに腸壁に癒着してしまい、命に係わるような大病となって、これが元で入退院を繰り返す日々を過ごすようになってしまった。

 父の戦死の公報を受けた時も、盲腸で入院中だったので、村葬を何ヶ月も遅らせてもらったそうだ。
 母が初めて入院した時には、父が出征中で、6歳・4歳・1歳の三人の子供の面倒は、姑と小姑が仕方なく見てくれてはいたが、いかにもあてつけがましく、嫌々見ていることが分かるような仕草が方々に感じ取れた。 
 特に、母が嫌だったのは、跡取り息子の長兄と他の子供への対応が、歴然と違っていたことだった。

 また、このことは別の項でも書いたが、母が病気で臥している襖の向こうで、長兄と次兄の着替えをさせながら……、
 『病気ばかりする母ちゃんは要るまいが、お前らの世話は、伯母ちゃんがしてくれる。宇和島に帰しても良かろうが……』と姑が子供達を説得している声が聞こえてきたりした。また、次兄が『母ちゃん要る!』と言って、地団駄踏んで泣くのを、小姑が必死になだめている声も漏れ聞こえてきた。
 病気が長引いてくると、『ヨシエもわしも病弱で病人の世話まではできんので、母の実家から看病に来てもらわんと困る。宇和島には、弟妹も多いことだし……』と姑が言い出した。

 母は、8人弟妹の長女で三人の妹がいたが、次女は既に結婚していた。二人の妹は、それぞれに勤めながら、母が結婚する前から中風で寝たきりになっていた実母の看病をしており、当然、弟達は出征していたので、実家には、よその看病に手を貸すほどの余裕など少しもなかった。
 姑たちも、このことは、母が結婚する前から当然知っているはずだし、無理難題としか思えなかったので、母が実家への依頼を渋っていると、しびれを切らした姑が……、
 『毎日、嫁の看病をしているが、三人の子供の世話もあり、私もヨシエも身体が弱いので困っている。嫁を宇和島に連れ帰って見るか、誰かを看病に来させてもらいたい』と直接、実父に連絡したものだから、とりあえず実父自身が看病に駆けつけたりした。
 実父は、実家に寝たきりの妻をかかえながら、何時までも、嫁ぎ先の娘の看病についている訳にもいかないので、やむを得ず、苦肉の策として他家に嫁いでいる次女の応援を受けることにした。

 小姑は、姑の家で三人の子供達の世話をしてくれていたが、時々、母屋を訪れて監視しながら、妹に対しても、母に対するときと同じように、あれこれと細かいことを指摘したり指図したりしていた。
 小姑は、人里離れた一軒家で姑と2人で暮らしており、ほとんど近所付き合いもなく、これまでに地元の製糸工場に2~3年勤めたくらいで、直接、他人の飯を食べたこともなかったので、一般的な常識にも疎く、相手の気持ちを思いやったりすることも少なかった。また、こんな事をしたり、言ったりしたら相手が傷つくというような配慮にも欠けていた。

 例えば、妹が炊事洗濯をするときに、母の普段履きの下駄を借用していると、わざわざ母の下駄と下駄箱に保管していた妹の〝よそ行きの下駄〟を黙って交換するなど、細かいことで相手の気分を害していた。
 また、妹がわざわざ看病に来てくれているのに、『都会は、食べ物が少ないが、田舎では美味いものが食べられる……』とか、『ここにいる間は、食事が助かるだろう……』などと、妹が地団駄を踏んで悔しがるようなことも平気で言ったりした。

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