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母の教え№31 嫁と姑たちの戦い(13) 12 母の置手紙

12 母の置手紙
 
 「嫁と姑たちとの戦い」という項で、いろいろのことを書いてきたが、結局、祖母も伯母も兄嫁もとうとう母の喧嘩相手にはならなかった。
 いわゆる母のいう「レベルが違うけん、喧嘩にならん!」というのが、実態だったようだ。
 「誠心誠意尽くしてさえおれば、以心伝心と言って、こちらの気持ちが相手に通じるものよ!」「相手に好かれようと思えば、まず、こちらが、心から相手を好きになることよ!」と言うのが母の持論であり、また、「人生は、芝居と同じよ! 芝居は、一時間余りで、悪人が善人に変わるが、人生では、何十年もかかる。どんな人でも、誠心誠意尽くしてさえおれば、薄紙を剥がすように変わるものだ!」 
 と母は、自分自身の身を削って、私たちに実践して見せてくれた。

 祖母も伯母も、「花子、花子……」「花子さん、花子さん……」と信頼させ、兄嫁にも「お母さん、お母さん……」と頼りにされながらこの世を去って行った母を、私は誇りに思っている。
 その母のあて名人のない便箋四枚の置手紙を最後に紹介して、この項の終わりにしたい。

 
  母の置手紙(原文のまま掲載)

 次郎が五藤光学につとめて、初めての月給を美鈴さん(次郎の妻)の言葉で、お母さんに差し上げますと1万7千9百円送って来ました。
 丁度、年寄りの日の前頃だったので、9百円のはしたは、ウメノ祖母ちゃんに、私達母子4名の名前で、焼酎を一斗、木原酒店から買って、木原のおじいさんに持って行ってもらった。
 木原のおじいさんは、よろこんで、お前等は感心だ、老人を大切にすると涙を流して、自分の事のようによろこんで、まけて呉れました。
 其の時の1万7千円 定期貯金に入れて、むろん次郎の名前にして、私のお金として居りました。次郎の何かの入用の時、大事な時でも有ったら、次郎等のために使うのだと大切にしまって居りましたが、ウメノばあちゃんの約2年間の大病のため 私の金も太郎や三郎が呉れて居た金も使ふてしまいました。
 どうしても足りなく、お上(かみ)からもらう金(戦争遺族年金)も間に合わなくなりましたので 仕方なくつかって居りました。
 それでも、金がなくなったと言っても、ばあちゃんの金をつかえとは よしえ姉もばあちゃんも言って呉れなかった。
 でも、ばあちゃんは、おらが死んだらあの金はやる、10万は有ると 度々言って居りましたので、死んだから其の金を取りました。
 定期で額面7万円ありました。現金がばあちゃんのねどこの下に 1万5千円余り有りました。其の現金は、いぞくねん金と養老年金の集まりでした。
 何もかもやつす(みすぼらしくする)ような事はきらいだから 仕上げも 別にだれをよべ かれをよべと言い置きだったので、葬式費用も たくさん入りました。貧乏人にしては、立派な葬式だったそうです。人もたくさん来て下さってお供え物もたくさんいただきました。
 四十九日も善家鮮魚店の二階をかりて、立派にしました。
もらった金を入れても、1万5千円も不足しました。でも、お寺様は、村でも最高の四十九日だったとほめてもらいました。
 こうして後、残った金の中から(もしも使わなかったら)定期の利子が付いてと、局員(駄場さん)に計算してもらい、本日、また、次郎の名義で 2万3千円定期にして預金した。私にもしもの事が有った場合は、次郎に此の金をやって下さい。母として、同じ子で有りながら 何もしてやれなかった次郎が、初めて一家を作り 初めてつとめた初めての月給を私に金で孝行するつもりの此の金。(太郎や三郎は、返してやれ)と言ったが、せっかく呉れた金(金はほしくわなかったが)、此の気持ち、特に二人(美鈴さん)の心使ひがうれしくて はなしにくかった。死ぬまでもって居たい気持 うれしかった気持 こんな事を書く時は、なけてなけてかなしい。だが、まだ なみだがでるからよい。
 利美(夫)の死の電報を受け取った時は、なみだは出なかった。からだの中の血が上がったり下がったりしたのを身に感じたのみ。
 こんなにたくさん書くつもりはなかった。
ただ、(2万3千円の定期は、次郎が呉れた金だ)と記したかったのだが、 ついつまらぬぐちやら何やら書いてしまった。
 是を読んで笑う時がくればよいが
     
 昭和42年1月13日                  山 田 花 子

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