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母の教え№28  嫁と姑たちの戦い(10) 10 姑の大病

9 姑の大病

 母は、50歳を過ぎたころから、親譲りの高血圧で、実母のように中風で寝込んで、長兄の嫁さんに看病させるようになってはいけないと、常日頃から、自分自身の身体には随分と注意していた。その一方、床屋の仕事や母屋のことは、長男夫婦に任して、畑仕事の合間に遺族会や母子福祉会の世話をして、時には、会員の皆と一泊旅行にも行けるようになっていた。

 母と姑・小姑との間は、前にも書いたとおり、昭和35年の盲腸の手術の
看病を境に、一変して、何事にも、「花子、はなこ……」「花子さん、花子さん……」と慕われるようになり、後は、長兄の嫁と姑達が直接衝突しないように間に入って操作するくらいで、これまでの状態からすれば、随分と過ごし易く、平穏な日々が何時までも続くかに思えた。

 ところが、昭和40年1月29日、祖母84歳の時、子宮癌の宣告を受け、急遽、宇和島市立病院に入院することになった。
 何しろ高齢者の入院でもあり、これまで盲腸の手術以外に入院をした事がなかったので、レントゲンとラジウム治療には耐えられず、我が儘放題で、付き添いの母や小姑を困らせる毎日だった。
 特に、実娘の場合は、お互いに遠慮がないのか、病人にも少しは我慢するようにずけずけ言うので、小姑の看病を嫌がるようになり、母の付き添う日々が、どうしても多くなった。
 母は、血圧が高くあまり無理が出来ないのに、病人の言うとおりに気遣い、誠心誠意看病していたので無理が重なり、見舞いに来た近所の人が、『誰か早く花子さんと交替せんと、病人よりも看病人の方が先に逝ってしまうぞよ!』と母の体調を心配してくれる人も出てきた。

 そこで、実娘に交替さしても、祖母が、『花子じゃないといけん! お前は、早く帰って、畑をしろ!』と我が儘を言って、母の看病を望むので、そんなに長くは身体を休めることができなかった。
 母は、『あれだけ嫌われた人に、これだけ望まれて、ありがたいことよ!』と言って笑っていた。
 結局、祖母は、毎日、毎日のラジウム治療とレントゲンの撮影に耐え切れず、一ヶ月半を過ぎたころ、家に帰りたいと言い出し、地団駄を踏んで暴れて付添い人を困らせるようになった。

 『年齢も年齢なので、これ以上良くなることはないので、自宅で様子を見ますか……』と医者に言われ、自宅療養することになったが、四ヶ月後の7月17日に局部に痛みが出るようになり、近永の県立北宇和病院に、急遽、再入院することになった。
 もちろん、看病人は、母と小姑の二人だったが、前述のとおり、祖母が母の看病を強く望むので、どうしても母主体の付き添いになってしまわざるをえなかった。

 その後、5ヶ月半の年内一杯入院していたが、年齢的にも全治する見込みがないので、病人が望むように、自宅に帰した方が看病人も楽だろういうことになり、大晦日に退院して、正月は自宅で迎えることになった。
 自宅療養に切り替えてから、昭和41年10月13日、祖母が永眠するまでの10ヶ月半は、母が付きっ切りで看病し、祖母は、相変わらず、『花子、花子……』と言い続けていた。
 『花子さんがおらんと、母ちゃんは夜が明けん……』と実娘に言わせるほど、足掛け1年9ケ月の看病の間、母を望み、母に感謝して、祖母はあの世に旅立ったそうだ。

 『人生は、芝居と同じよ! 芝居は、一時間余りで、悪人が善人に変わるが、人生では、何十年もかかる。どんな人にでも、誠心誠意尽くしてさえおれば、薄紙を剥がすように変わるものだ!』と母は、自分自身の身体を削って私たちに実践して見せてくれた。

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