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【体験レポ】ヴィパッサナー瞑想合宿に参加してきたよ【2022冬編】

ヴィパッサナー瞑想合宿に行ってきました

僕のツイッターを見ていた方には、あいつ大荷物背負って忽然と音信が途絶えたぞと驚かせてしまっていたかもしれませんが、表題のとおり、このために2週間ほどまるっと予定を空けて、千葉の山中でヴィパッサナー瞑想の合宿コースというものに参加してきました。


ヴィパッサナー?瞑想?合宿??と、怪訝な表情を浮かべた方が多いかもしれません。怪しい宗教の臭いが漂ってきたかもしれませんが、全然怪しくないです。などと、体験してきた本人が言うことほど怪しいものはないのですが、皆さんご存知のとおり2022年現在世間の耳目をある程度集めてしまっている某宗教法人のあれこれもあるし、瞑想=宗教=怪しい!を払拭するのは今の社会全体の空気感を見渡してみてもそれが難しいことは明らかですよねえ。

とはいえ積もる話もありますし、気を取り直して続けたいとおもいます。

索引のようなもの

本稿は主に合宿中の体験記を自分用に細かく書き残しています。しかしながら、”ヴィパッサナー瞑想合宿”などの検索ワードでWEBを探せば大勢の先達の方たちがもっと秀逸なレポートをたくさん残しています。いうて僕はその二番煎じでしかないので、合宿中の1日1日を綴った【いよいよ合宿の開始】の章はすっ飛ばしてもらって全然構いません。めちゃくちゃ長いですし(僕自身推敲の段階で読み返すのが嫌になりました)。

本旨はあくまで最終章近くの【瞑想合宿を終えて】のあたりなので、そこだけでもさら~っと見て貰えたら嬉しいです。

今回初めてヴィパッサナー瞑想というものを知って、興味本位でどんなものかと覗いてみたいなという方は逆に、【いよいよ合宿の開始】に書いてある1日ごとの体験記を読むのをおすすめしたいです。

はじめに


日本ヴィパッサナー協会という非営利団体が運営する、この10日間のヴィパッサナー瞑想合宿には、僕自身もう何年も前からずっと行きたかったのですが、近年マインドフルネスという言葉が一般的にも知られるようになってから、この瞑想合宿の10日間コースの人気がとても高まっていて予約開始とともにあっという間に枠が埋まってしまい何度もチャンスを逃していました。元より、自分自身のスケジュールを2週間空けるというのもなかなか難しく、ずるずると月日が経っていたのでした。

ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、一括りに”瞑想”といっても色々な手法が存在してまして、その数ある瞑想法のなかの”ヴィパッサナー瞑想”という瞑想法の1つを体験しに行ってきました。

約2週間のあいだ、俗世間を離れて千葉の山の中にある施設での修行生活でした。この間、完全に外界からの情報をシャットアウトした状態に身を置き、まさに出家僧に近い生活を体験してきました。

この日本ヴィパッサナー協会が運営する瞑想合宿は決まった参加費用というものがありません(コース費用はもちろんのこと、滞在・宿泊費用や食費もかかりません)。日本ヴィパッサナー協会によって全て慈善事業としてコースの運営がされています。もし、この協会の理念や活動方針に賛同できるのであれば、合宿の10日目と最終日の2日間、寄付という形で直接支援をすることができます。

合宿コースの費用
合宿コースは寄付のみによって運営されております。合宿の参加費用は食費、宿泊費を含めて、一切請求されません。すべての経費は、コースを終了し、ヴィパッサナーから恩恵を受けた人たちの「他の人たちにもこの機会が与えられるように」との思いから行う寄付によってまかなわれております。瞑想の指導者も何ら報酬を受け取りません。また合宿コースの運営メンバーも全員ボランティアとして参加しております

日本ヴィパッサナー協会HPより抜粋

日本ヴィパッサナー協会とは

さきほどから何度も名前の挙がっている日本ヴィパッサナー協会というのは、ゴエンカ式のヴィパッサナー瞑想メソッドを確立し世界中に普及させた S.N.ゴエンカ氏(1924/1/30 - 2013/9/29)というミャンマー出身の在家指導者の理念に基づき設立した非営利団体です。ミソなのが宗教法人ではない、というところかとおもいます。

日本のみならず世界各国に同様の趣旨で瞑想センターがいくつも設立されていて、どの施設に行っても無償で同じカリキュラムの10日間の瞑想合宿に参加することができます。

ゴエンカ氏の略歴やこれまでの活動については下記リンクに詳しく掲載されています。


ヴィパッサナー瞑想とは

冒頭にも書いてあるとおり、今回僕が体験しに行った”ヴィパッサナー瞑想”とは主に上座部(テーラーワーダー)仏教の瞑想法の1つで、日本の仏教諸宗派で行われている坐禅とは、似ているようでまた系統の違う瞑想法になります。

仏教は大別して”上座部仏教”という主に東南アジア(ミャンマー、スリランカなど)で普及している諸派と、もう1つチベットの辺りから、中国、朝鮮半島を経て日本に伝来した”大乗仏教”という諸宗派分類の計2グループが大まかなものとしてあります。

そのうちの”上座部仏教”と言われる東南アジアで普及している仏教諸派において実践されている瞑想法の1つ。それがこのヴィパッサナー(Vipassanā)瞑想というものです。

仏教における修行の到達点として渇愛(taṇhā)を滅尽し、涅槃(nirvāṇa)を目指すという最終目的は”大乗仏教”も”上座部仏教”も同じなのですが、そこに至るまでの手段や思想に違いがあります。

詳しくは下記Wikipediaのリンクを参照ください。

ここ数年、マインドフルネスという言葉をWEB上でよく見かけるようになったり、雑誌やメディアなどでも盛んに取り上げられたりしていますが、このマインドフルネスという概念とセットで登場するのが瞑想(meditation)です。

マインドフルネス: mindfulness)とは、現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程である。 瞑想、およびその他の訓練を通じて発達させることができるとされる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』【マインドフルネス】より抜粋

つまり、マインドフルな状態を目指す為の手段として主に瞑想が用いられるわけです。そしてその瞑想法の1つに仏教を源流とするヴィパッサナー瞑想というものがある。という位置づけで考えるとなんとなくこのヴィパッサナー瞑想の正体がぼんやりと見えてくるのではないでしょうか。


ヴィパッサナー瞑想合宿の概要など

僕が今回参加したこのヴィパッサナー瞑想合宿に参加するにあたり、人によっては結構厳しいと感じるであろうルールが課されます。

合宿中のルール

・基本の5つの戒律(シーラ)
 1.生き物を殺さない。
 2.盗みを働かない。
 3.一切の性行為を行わない。
 4.嘘をつかない。
 5.酒・麻薬の類をとらない。

この戒律(シーラ)と呼ばれる5つのルールは、仏教徒の在家・出家信者のどちらもが、日常的に守らなければならない一番重要なものとしてゴータマ・シッダールタ(仏陀)存命中の2500年前から今日まで脈々と受け継がれてきている基本的な戒律です。これについては現代の日本仏教でも同様の戒律が引き継がれ守られています。

まあ3と5以外は現代においても至極当然な道徳的な振る舞いをあらためて明記しているに過ぎないかなとおもいます。

5番目のアルコールについては、普段からお酒を嗜むので少々の不安を抱えながら合宿に参加しました。
そして思わぬ部分で苦戦したのが3番目の戒律でした。これについては後述します。

続いて5つの戒律(シーラ)以外で合宿中に守らなければならない主な事が以下です。

・指導者と瞑想法に従う
 
あくまで指導を受ける側としてごく当たり前のことかと思いますが、このヴィパッサナーという瞑想法とその指導法の趣旨を十分理解したうえで指導者やコースマネージャの指示に従い、規律を守り、瞑想をおこなわなければなりません。
 ここでいう瞑想法に従うとはヴィパッサナー瞑想において、ゴエンカ氏が確立したメソッドに沿って10日間のコースを履修するということです。

・宗教儀式や祭式、その他の瞑想法やヨーガ、運動などの禁止
 
コース中は、祈祷、礼拝、または宗教儀式(断食、お香を炊く、数珠の使用、マントラを唱える、歌や踊り)は一切行うことを禁じています。これは他の修行法や瞑想法と混同し修行の妨げとなるためです。

その他、筋トレはもちろんジョギングなどの運動も禁止されていて、施設内での散歩程度なら可能でした。あとは、軽いストレッチぐらいなら大丈夫でした。

・聖なる沈黙
 
コースの開始から10日目の午前中まで聖なる沈黙を守らなければなりません。アイコンタクトや身振り手振りのジェスチャーから、メモ書きにいたるまで、他人との一切のコミュニケーションは禁じられます。
例外として、既述の指導者との面談や、コースマネージャとのコミュニケーションのみ許されます。

・男女の分離と身体の接触
 
男性と女性は完全に生活空間も瞑想スペースも分離されます。配偶者やカップルであっても、コース中に男女が接する機会はなく、それに加えてたとえ同性であっても身体の接触が許されません。

敷地の中央に建っている瞑想ホールの中心線を境に、左右で男女の生活スペースが明確に分かれており、それを跨いで反対側に侵入することは禁止。

・外部との接触
 
コース期間中は、コース敷地内に留まらなければなりません。相応の緊急事態(体調不良、災害、身内からの急用)でもない限り外部との接触は起こりません。

・音楽、読書、筆記の禁止
 
音楽、読書のみならず、何かをメモするなどの行為も禁止されます。加えて、生活必需品以外のものはコース受付時にすべて預け、コース終了日まで手にすることができません

上述のとおり生活必需品以外のものはコース運営に預けてしまうので、つまり電子機器の一切(携帯、タブレット、PC、音楽再生機器など)や財布や筆記用具にいたるまで、それに類するものを持っていたら(あくまで自己申告ではあるけれども)施設到着時に運営に預けることになります。
簡単な話が、瞑想実践に不必要なものはすべからく身体に近づけないという徹底した管理がおこなわれています。

勝手にデジタル・デトックスも出来てしまうので、一石二鳥ってやつです。

合宿中の主な生活スタイル

毎日4時起床~夜9時過ぎに就寝というサイクルが最終日まで続きます。瞑想時間は、毎日12時間ちかくひたすら坐るという僕好みのストイックさでした。

コースの時間割は以下のとおりで、常にこのタイムスケジュールに沿って全員が行動します。

4:00             起床
4:30~6:30    瞑想ホールまたは自室にて瞑想 (2時間)
6:30~8:00    朝食と休憩
8:00~9:00    グループ瞑想(必ず瞑想ホールでおこなう) (1時間)
9:00~11:00  指導後に瞑想ホールまたは自室にて瞑想 (2時間)
11:00~13:00 昼食と休憩
13:00~14:30 瞑想ホールまたは自室にて瞑想 (1時間30分)
14:30~15:30 グループ瞑想(必ず瞑想ホールでおこなう) (1時間)
15:30~17:00 指導後に瞑想ホールまたは自室にて瞑想 (1時間30分)
17:00~18:00 ティータイムと休憩
18:00~19:00 グループ瞑想(必ず瞑想ホールでおこなう) (1時間)
19:00〜21:00 ホールにて講話、講話後は指導と瞑想(2時間) 
21:00~21:30 就寝(質問のある人はホールに残って指導者に質問ができる)

合宿中のタイムスケジュール

こうしてあらためて時間割を見て思うのは、毎日12時間近くひたすら瞑想するっていうのはちょっと気が触れているなあと実社会に戻ってきて感じるところですね。

グループ瞑想の時間は必ず全員ホールで瞑想しなければなりません。なぜかというと、瞑想を始める前にレクチャー音声が毎回流されるのと、グループ瞑想の最後に指導者が「瞑想は上手く出来てますか?」的なことを各参加者一人一人にヒアリングする時間が設けられているからです。

食事は午前中(朝と昼の2回)に主食(玄米、パン、パスタ)と一汁一菜と飲み物のみで、肉・魚・動物性タンパクの類は供されませんでした。
ただし、新しい生徒(僕を含め今回が初参加の人たち)のみ17時からのティータイムに果物(バナナ、柿、みかんなど)が供されました。

飲み物は水、白湯、ほうじ茶、コーヒー、紅茶、牛乳、豆乳などかなり豊富な種類の飲み物が用意されていて(おかわりできます)、水と白湯に限り各自が持参した水筒に入れて自室などで好きなときに飲むことが可能です。




ここからは僕が書き留めて残しておきたいことを時系列にメモしておくだけのものなので、長いです。
合宿での暮らしぶりや瞑想実践に興味がなければ【瞑想合宿を終えて】の項まで飛ばしてしまって全然構いません。

いよいよ合宿の開始

今回ようやく念願叶って参加してきた10日間に及ぶ瞑想合宿。合宿コースに参加しているあいだは生徒(参加者)に様々な制約(戒律)が課され、外界との行き来が遮断されます。そんな閉ざされた世界で一体僕は何を体験し、何を見てきたのでしょうか。

最初にお断りしておかなければならないのですが、なにぶん合宿中はメモの類すら一切出来ない環境下だったので、日付が前後していたり時系列的に辻褄の合わない部分ももしかしたらあるかもしれませんが、そのへんはご容赦いただければとおもいます。
それでは合宿から戻ってきて、約2週間分の記憶を掘り起こしながら記したレポートをどうぞ。

初日:出発当日

今日から早寝早起き(4時起床21時半就寝)の生活になることを見越して、いつもより早く起きました。荷造りをしつつ、2週間近く家を空けるので部屋を片付けて掃除機をかけたりしているうちにお昼になりました。自宅で昼食をとり、合宿が終わって帰宅するときもこの景色のままの部屋に帰ってくるんだなと思いながら玄関のドアを閉めて最寄りの駅に向かいました。

自宅最寄り駅から電車を乗り継いで茂原という駅に到着しました。バスが出発するまでまだ1時間以上時間があったので、駅のテナントに入っていたロッテリアでコーヒーとケーキのセットを食べながら休憩。甘いものを食べるのはしばらくお預け。

茂原駅前

バス停の前には明らかに僕と同じ様に大きなバックパックを背負った人や、大型のスーツケースを転がしている人が何人も待っていました。見た目からしてバックパッカーっぽい人も見かけて嬉しくなりました。

市営バスに乗り込み、下道を20分程進み公民館入口で降ります。そうすると、既に千葉ダンマーディッチャの方たちが車で迎えにきていました。千葉ダンマーディッチャというのは、今日からお世話になる瞑想合宿の施設の名前です。

初めて来た公民館の駐車場に立ってぼーっとするしかない

車に乗れる人数が限られているので、施設まで参加者をピストン輸送することになりました。先に女性参加者が乗り込み、車は目的地の千葉ダンマーディッチャへ向けて出発しました。
公民館の駐車場に取り残された男性陣は見たことのない景色のなかにぽつんと取り残される格好になりました。僕は少し不安な気持ちになって、駐車場を行き場も無くフラフラしていたら、近くにいた男性の参加者に声を掛けられました。お互いに軽く自己紹介をしたり、どういう経緯でこの合宿を知ったのかとかを話しているうちに迎えの車が戻ってきました。迎えの車でいよいよ千葉ダンマーディッチャに入ります。僕は人の名前を覚えるのが苦手な方なので、さっき自己紹介してもらった方の名前をずっと頭の中でリピートしていました。

補足として、京都にも同じ系列の瞑想合宿施設があり、そこは京都ダンマバーヌという名前です。ここは京都北西部の南丹市から更に奥に入っていった京丹波町の山の中にあり、京都ダンマバーヌもとても環境が良さそうなので次はここに行ってみたいと思っています。


ダンマーディッチャの敷地内は想像していたよりも整然としていて静かな場所でした。

千葉ダンマーディッチャ遠景

ダンマーディッチャに到着し車を降りてからすぐに食堂に向かい、合宿のエントリー手続きをしました。

合宿のルールのところでも書きましたが、このエントリーを行う際に携帯や財布などの貴重品諸々、合宿に必要の無い物を貴重品袋に自ら収めてコースエントリーの係の人に預けます。次にこれらに触れることができるのは、最終日の朝ということになります。番号の書かれた貴重品袋に携帯を入れるとき、少しだけ躊躇った自分がいました。まるで半身を他人に預けるような感覚でした。

それから自分が合宿中に寝起きをする合宿施設に行って荷物を置いてアンパッキングしたり、ベッドにシーツを敷いたりしました。これからここで、見ず知らずの10人以上の人たちと一言も発せずに10日以上過ごすのかと思うと、その状況が面白くて自然と顔がニヤニヤしてしまいました。

宿泊棟はA棟とB棟の2棟に別れていて、各棟10名程が宿泊します。

18時から夕食、夕食後は19時からそのまま食堂でオリエンテーションがおこなわれました。
今回コースを運営するにあたってボランティアで参加していただいているコースマネージャを含む奉仕者の方々の紹介だったり、コースの概要を説明するビデオを観ました。夕食の時とオリエンテーションの時に、同じテーブルの人たちと簡単な自己紹介をして少しお話ししました。

その後20時から全員瞑想ホールに移動して、最初の瞑想、アーナパーナ瞑想のレクチャーが行われました。
僕は以前から書籍やWEBで仕入れた情報を元に自己流で座って(瞑想して)いた時期があり、このアーナパーナ瞑想をすでに実践済みだったのですんなり集中することができました。

そして、このアーナパーナ瞑想のレクチャーが終わるとともにこれから10日目までの長い聖なる沈黙が開始され、さっきまで会話をしていた人たちとも一切コミュニケーションが取れなくなりました。

・聖なる沈黙
 
コースの開始から10日目の午前中まで聖なる沈黙を守らなければなりません。アイコンタクトや身振り手振りのジェスチャーから、メモ書きにいたるまで、他人との一切のコミュニケーションは禁じられます。
例外として、既述の指導者との面談や、コースマネージャとのコミュニケーションのみ許されます。

瞑想ホールを出るとみんな無言でいそいそと宿泊施設に戻っていきます。僕ももちろん無言で、誰とも目を合わせない様にすこし俯き加減で歩きました。

自分のベッドに戻ってから就寝の準備をしました。今日はなんだか疲れてしまってシャワーを浴びないで歯だけ磨いて早々に床につきました。僕の自室は宿舎の出入り口に近くて、他の人が出入りするたびに夜風が入ってきて寒くて寒くて、防寒用に持ってきたユニクロのダウンジャケットを着たまま寝ました。

敷布団越しにスノコ状のベッドフレームがごつごつと背中に当たって少し痛かったです。

DAY1:美味しいコーヒー

朝の4時に腕時計のアラームで目が醒めました。僕はスマートウォッチを手首にはめたままだったのですが、これはコースエントリー時に預ける事無く合宿中も特に何もお咎めを受けることはありませんでした。

普段自宅で生活しているときはめっぽう朝に弱くて、午前中なんてほとんど生産性のカケラもないのですが、こういうイベント事や外泊のときは不思議と朝ちゃんと起きれるし、なんなら人一倍早く起きるぐらいのパフォーマンスをみせる。

歯磨きセットと手ぬぐいを持って、まだ真っ暗な宿舎の外に出ると空には大きな北斗七星とその隣にはおおぐま座が広がっていました。

僕は宿舎から20mほど離れた場所にあるトイレ・シャワー棟に行って顔を洗って歯を磨きました。ここはトタンの屋根が被さっているだけの簡易的な建物。吹きっ晒しで寒いので、すぐに宿舎にもどって朝の瞑想の準備をしました。

トイレ・シャワー棟

4時半から瞑想ホールに行って6時半までの2時間みっちりアーナパーナ瞑想をいよいよ本格的に開始します。

昨晩習ったアーナパーナ瞑想とは簡単に言ってしまうと、”呼吸を観察する”という瞑想法です。
そもそも普段一日生活をしていて、呼吸を意識している時間の方がかなり稀。いまこうしてこの文章を読んで咄嗟に自分自身の呼吸に意識がいったのではないでしょうか?

呼吸は起きていようが寝ていようが無意識に24時間絶えずしていることなので、自分が常に呼吸をしているという事実に気がつくという発想そのものに驚くかもしれません。
その無意識にしている呼吸をただありのままに観察することが大事で、この時に意識的に息を強めたり弱めたりといった事をせず、ただありのままに起きている事象(鼻孔を空気が行ったり来たりする感覚)を観察します。

それと目は完全に閉じるように指導されます。僕はこれまで瞑想の時の目は薄目を開けておくのが正しいやり方だとずっと思っていたので、これは意外でした。坐禅のイメージが僕のなかで強く残っていたからかもしれません。

4時30分~6時30分までの瞑想時間は、瞑想ホールには行かず自室で瞑想している人の方が多いのでホール内は人もまばらで静かだし、換気の為に開けてある窓から早朝のキリっとした新鮮な空気が入ってきてとても集中できました。普段の生活においても早起きして朝活などに時間を使うとかそういうのは効果が高いんだろうなというのを改めて考えました。

脚の組み方は特に指定がなく、あぐらでもOKだしもちろん結跏趺坐や半跏趺坐でも大丈夫。

2時間ぶっ通しの瞑想を終え、合宿に入って最初の朝食の時間になりました。食事は食堂の中央のテーブルに食器と各料理が置かれているビュッフェスタイルで、自分で食べるものを食器によそっていくスタイルです。

普段の生活では朝食を摂らずに起きてからコーヒーを3杯程度飲むだけのライフスタイルをずっと続けているのですが、食堂では奉仕者(ボランティア)の方たちが朝早くから心を込めて僕たちの為に作ってくれた食事が並んでいました。僕はご飯の量を大体しゃもじの半分程の量だけよそって、味噌汁と根菜類中心のおかずを少し多めにとりました。

僕が朝食を摂らない理由は、朝から胃袋に食べ物を入れてしまうと頭がぼやっとするし身体がだるくなってしまうからです。

よそったご飯はあっという間に無くなって、おかずもお味噌汁もペロリと平らげました。そのあと、大好きなコーヒーを飲みました。コーヒーは粉末タイプのインスタントなのですが、いつも僕が家で飲んでいる粉末のインスタントコーヒーよりもびっくりするぐらい美味しくて、立て続けに2杯飲みました。

まるで曳きたての豆で淹れたコーヒーぐらい美味しかったです

起きてすぐに2時間も鼻腔を行き来する呼吸に意識を集中させてたから、鼻の感覚が研ぎ澄まされていたというのもあるかもしれませんが、コーヒーカップから立ち昇るコーヒーの香気がとてもシャープに感じられて、味の立体感も妙にクッキリ感じられました。

夕方の瞑想時間にホールで瞑想していると、しきりに上空を横切っていく旅客機の音が聴こえてきます。

はじめは、地理的に成田空港が近いので成田の離発着機がちょうど真上を通過しているのかなってずっと思っていたのですが、合宿から帰宅してflightradar24というWEBサイトで調べたら、どうやら成田を離発着する旅客機だけでなく、羽田を離発着する旅客機がちょうどこの茂原市上空から回り込むようにして羽田の滑走路へ南側から進入する進路を取っていたり、成田にも羽田にも着陸せずに海外から海外へとただ茂原の上空を通過していく機体もあったりしてこのチーバくんの肝臓のあたりはかなり色々な路線が上空を通るということがわかりました。

千葉県とチーバくん

昨夜は疲れていてシャワーも浴びずに早々に寝てしまったので、今日は夜の講和が終わってから21時過ぎにちゃんとシャワーを浴びました。夏場だとそうはいかないかもしれませんが、変な話し一日中座っているだけなので大して汗もかかないし、食べるものも刺激物や肉類が出ないので、きっと3日、4日ぐらいシャワーを浴びなくてもきっとニオイは出ないんじゃないかなって思います。

シャワー棟は先程もお話ししましたが、トタンが被せてあるだけで吹きっ晒しです。シャワー室の中に居るあいだはよいのですが、シャワー室から出ると外気に当てられてあっという間に湯冷めし始めたので明日からは昼間の太陽が出ているうちにシャワーを浴びようと誓いました。

2日目に続きます。

DAY2:アーナパーナと湯たんぽ

今朝も4時ぴったりに目が醒めました。

歯磨きセットを片手に手ぬぐいを首から下げて宿舎の外に出ると今日も北斗七星がチカチカと冬の空に在りました。僕が住んでいる東京の自宅では夜空を見上げてもオリオン座や金星が辛うじて目視できる程度で、北斗七星や冬の大三角形の場所すらよくわからないぐらい空が明るくて狭い。

合宿中はずっと同じタイムスケジュールで動くので当たり前なのですが、今日も昨日と同様に朝4時30分から夜の講和が終わる21時までみっちりアーナパーナ瞑想三昧でした。

瞑想ホール入り口前に掲示されているタイムスケジュールと諸注意などの掲示物

このアーナパーナ瞑想をしている間はとても気持ちがリラックスしていて、頭の中で色々な事を何時間も考えていたと思います。本来はちゃんと呼吸に意識を向けて絶えず鼻腔の感覚を観察し続けなければいけないのですが、ものの数分で意識が別のことに向いてしまいます。

過去の出来事や、仕事のことだったり、最近全然会っていないような記憶からすっかり抜け落ちていた古い友人や知り合いのことを急に思い出したりもしました。
そうやって頭の中の古い記憶がどんどん出てきたからなのか、この日夢の中で10年以上前の仕事場の夢を見ました。

この日の午後の瞑想からだったと思いますが、アーナパーナ瞑想を更に発展させるやり方を教わります。鼻孔を出入りする呼吸を観察するのではなく、鼻の付け根から上唇うわくちびる上辺の両端2点を結んだ三角形のエリアに意識を向けて、そこに現れる感覚を観察しなさいとのこと。

ざっくりこんな感じに三角形のエリアを仮設する

現れる感覚は、”温かい”、”冷たい”、”痒い”、”ぞわぞわする”、”チクチクする”など何でもよく、その感覚に対して”快・不快”の選別(反応)をすることなくありのままに受け入れ観察する。

僕の自室が宿舎の出入り口から近いこともあり、夜寝るときにあまりにも寒いのでシャワー棟に置いてある湯たんぽを使うことにした。

これが思いのほか快適で、冷え切った足先を気持ちよく暖めてくれてぐっすり眠ることができました。

DAY3:不邪淫戒とは

11時から昼食をとったあと、夜間にシャワーを浴びないと固く誓っていた僕は12時からシャワーを浴びました。そのあと13時のフリー瞑想の時間まで休憩時間です。

シャワーは各一人ずつ20分間が割り当てられていて、3つあるシャワー室の前に【シャワー割り当て表】というボードが掛っていて、空いている時間帯に自分の部屋番号が書かれているマグネットを置いて予約していくという仕組み。

画像向かって左に掛かっているボードの割り当て表に自分のマグネットを置いていく

シャワーを浴び終えてさっぱりしたあと、午後の瞑想の時間まで自室にこもっているのもどうも辛気臭いので宿舎の外に出てみました。

この時間帯は千葉の山の中といえど、お日様がぽかぽかと敷地を温めてくれて半袖のTシャツ1枚で充分なぐらい実に気持ちが良かったです。
宿舎の外周に置かれている木製のベンチに腰掛けながら敷地内の原っぱに咲くたんぽぽをぼ~っと眺めていると、実はすでに僕は死んでいてここが天国なんじゃないかなっていう気になる。それぐらいのどかで静かで平和な空間がここ千葉ダンマーディッチャには広がっていて、正に聖域に包まれているようでした。

瞑想実践の方は前日観察を続けた鼻の付け根から上唇の上辺を結んだ三角形の範囲をさらに狭めていくよう指示がありました。

範囲を鼻腔と上唇の上辺を結んだエリアに絞って観察します

上図の範囲まで観察エリアを絞って、そこに起こる微細な感覚を探ります。最初のうちはただこの部分を行ったり来たりする呼気の感触しかないのですが、しばらく根気よく観察を続けます。
そうすると、鼻の下あたりがムズムズする感覚や、ぞわぞわ、もぞもぞといったような感覚が時間経過とともに移ろいでいきました。

ただ単に3日間伸ばしっぱなしの僕の無精ひげが呼吸によって凪いでいるだけだったのかもしれませんが、「三角形のエリアに起こった感覚がなんであれそれを受け入れて観察を続けなさい」と、指導者からレクチャーがあったのでひたすら人中じんちゅうのあたりを観察し続けました。

ですが僕はやっぱり人よりも堪え性がないのか、すぐに他のことを考え始めてしまいます。前日、前々日のように脈絡もなく古い記憶が蘇ってきたりもしたのですが、僕が普段足繁く通っている地下アイドルの娘達のことがめちゃくちゃ頭の中を占領し始めました。
いつも応援している子たちの顔や姿が頭の中をぐるぐるぐるぐると周り始めてしまい、とてつもなく会いたくなって寂しくなったりと、とても瞑想どころの騒ぎじゃなくなってしまいました。

この夜僕は応援しているとあるアイドルグループの子が、今まで一度も見たことのない見る筈もないすっぴんで夢に出てきました。
合宿を終えた今あらためて振り返ってみると、合宿中の5つの戒律(シーラ)のなかにある3番目の【一切の性行為を行わない。】が僕に重くのしかかって来ていたんだなと思います。

翌日から僕はこの3番目の戒律【一切の性行為を行わない。】の解釈に迷うとともに、脚の痛みに苦しむことになります。

【一切の性行為を行わない。】という文言について少し説明を付け加えさせていただくと、そもそもなんでこの合宿は男女のエリアを厳格に分けているのかというところと、”苦”とはなにかというこれまた仏教の教義に立ち戻れば当たり前すぎるのですが、異性は遠ざけて然るべきであって、それはつまり修行の邪魔でもあり、渇愛を滅尽するためには避けて通れない難所でもあるわけです。

ということは【一切の性行為を行わない。】という文面はある程度拡大して解釈しなければならないかもしれない。と、思いました。直接的な性行為のみならず、異性を見る・会話をする・考える(妄想する)といった一連の非接触的行為も結局は執着を生みそれは”苦”となるわけです。

スッタニパータ第4章「八つの詩句の章」マーガンディヤの句において、仏陀は「糞尿に満ちたこの女がそもそも何なのだろう。わたくしはそれ(女)に足でさえも触れたくないのだ。」と語ったそうです。解説を付けると、マーガンディヤというバラモンが自分の娘を仏陀の妻にどうですかと勧めたところ、仏陀はこう言い放ったそうです。仏陀ですらこんなに激しい拒絶をみせるだけ異性というのは遠ざけた方がよいということ。

僕が真っ昼間に瞑想をしながら好きなアイドル(偶像)のことに耽るというのはやはりこの戒律(シーラ)に反しているんじゃないかという考えが頭をもたげ始めました。
しかしふと、思い出したのですがこの【一切の性行為を行わない。】という戒律、日本の仏教においては【不邪淫戒】ふじゃいんかいという表記で、その説明としては『不道徳な性行為を行ってはならない』であり、一般的な解釈としては”不貞行為”を行ってはならないとされています。

【一切の性行為を行わない。】という字面から僕が連想した禁ずるべき行為と、”不貞行為”が禁じている世間一般のイメージ(不倫)とは大きく乖離してしまいました。

明日4日目からの僕はいったいどうなってしまうのでしょうか…。



DAY4:強い決意

いよいよ4日目の今日、午後のグループ瞑想の時間からヴィパッサナー瞑想が始まりました。

ここで新たな誓いを立てます。

1日に3回ある、各1時間のグループ瞑想の間は以下の3つを守らなければなりません。

1.目を開かない。
2.一度組んだり置いた手を組み直してはいけない。
3.足を崩したり伸ばしたりしてはいけない。

これらを守りながらする瞑想をアディッターナ(強い決意の瞑想)というらしい。

瞑想なのだから身体を動かしたりしないのは当たり前じゃん、と思うかもしれませんが、これが全然当たり前じゃないぐらい辛かったです。

まずヴィパッサナー瞑想について順を追って説明しようと思います。ヴィパッサナー瞑想は具体的に、身体の隅々、パーツパーツに起こる感覚を全てくまなく観察してゆく瞑想法です。
冒頭でも書きましたが、全身をくまなく観察することが目的ではなく、この瞑想法を手段としてマインドフルな状態に徐々に近づけてゆくのが目的です(勿論のこと究極的には渇愛を滅尽し涅槃に到達することではありますが、まずはマインドフルという状態を己に作り出すことが第一歩です)。

観察する順序は頭頂部から始まり、

頭頂部→後頭部→顔→右肩→右腕→右手→左肩→左腕→左腕→首の前→胸→お腹→首の後ろ→背中→腰周り→右脚→右足→左脚→左脚 

といった順序を辿ります。スタートは必ず頭頂部から始めるようにと教わります。


辿っていくなかで、パーツパーツ、部位毎に現れる微細な感覚~強い感覚までどんな感覚であれ、ありのままに観察します。観察していくなかで、感覚が現れない部位があったら1分程度その部位にとどまって観察を続けます。1分程度観察を続けても何も感覚が現れなければ次の部位へ進むというのを、頭のてっぺんからつま先までおこなう。つま先まで終わったら取りこぼしている部位に戻って観察をやり直しても良いし、また頭頂部から順番に降りてきてもよい(飽きないように生徒個々人のやり方にある程度バリエーションを持たせている)。

この時僕がイメージしていたのは、身体が攻殻機動隊でいうところの全身義体になっていて、それを幾つものアーム型スキャン装置がレーザーを照射して検査していくイメージ。つまり、検査台に寝そべっている僕の身体を頭の上から足の指先までくまなくレーザーを照射してスキャンをかけている状態です。そんな想像を頭の中で巡らせながらひたすら身体を上から下まで観察しました。


頭頂部からつま先まで全身の各部分をくまなく観察する(しかも目を閉じたまま)というのは、1セットをこなすだけでも結構な集中力を要しました。アーナパーナ瞑想に関しては、以前独学でやっていたということもありすんなりと順応できたのですが、ことヴィパッサナー瞑想に関しては今日が本当に初体験。単純に慣れていないというのもあったと思うし、先程も書きましたが性格的にあまり堪え性がないというのも絶対響いていると思います。

そして体全体を部分ごとに観察していくと、感覚が鋭い(敏感な)パーツと明らかに鈍い(鈍感な)パーツが各所にあるということが判ってきます。

お腹や背中は比較的感覚が鈍い場所が多かった

毎日24時間ずっと僕の意識下にあり完全に統御できていると勝手に信じ込んでいたこの身体のことを案外知らないということを思い知らされました。マインドフルになるということの第一歩はこういうところから徐々に始まってゆくのだなあ。左脚の痛みがもう限界だなあ。

脚の痛みで一瞬集中が削がれてしまうと、途端にさっきまでどの部位を観察していたのかすら忘れてしまいます。

明日からこの脚の痛みとの壮絶な戦いが待っていました。


DAY5:痛みも無常(アニッチャ)

昨日から始まったヴィパッサナー瞑想。

1時間のグループ瞑想であらたな3つの縛りが加わり、僕の足が悲鳴を上げていました。
左足の股関節の部分から先がガンプラみたいに取れてしまうんじゃないかと思うぐらいの激痛で頭がクラクラし始めます。痛みに反応して身体全体が熱を帯びているのがハッキリとわかるし、正直このとき逃げ出したいぐらい脚が痛かったです。

なのに、周囲の他の人達はまるで痛みなんて感じていない様な平然とした佇まいで座っていたりするので、僕の身体だけが軟弱なのかもしれない。とか、僕だけ堪え性が人一倍ないんじゃないだろうか?などと自分を責め始めました。

我慢比べじゃないけれど、友人たちと一緒にサウナに入って誰が一番最初に脱落して扉の外に出るかのチキンレースみたいに、誰が先に組んだ足を伸ばすか勝負しているような気分になりました。

午後イチのグループ瞑想が終わったあとに新しい生徒(今回初参加の人)だけが、壇上の前に呼ばれて、ヴィパッサナー瞑想の実践は上手く出来ているかどうかを一人ひとりヒアリングしてくれて、それに対して簡単なレクチャーを瞑想指導者がしてくれました。

僕は「足が痛くて全然集中できないし、どうしても我慢できなくて足を崩してしまいます」と正直に告げたところ、
「今夜の講話で痛みについての話があるから」と、とてもゆったりとした口調と仏みたいな柔和な顔で男性の指導者の方が答えてくれました。

夜の講話ではまさに上述の”痛み”についてのことが語られました。
痛みも感覚の1つに過ぎない。
その感覚に対して”渇望”を抱いたり”嫌悪”したりせず、ただその感覚をありのままに観察し続けること。
忌避したくなるような不快な感覚だとしても、それが永遠に続くことはなく、絶えず生成と消滅を繰り返している。
アニッチャ(無常)だと。平静さを保ちなさいと。

この先最終日まで繰り返し講話で出てくる”アニッチャ(無常)”という根本原理、今夜の講話の中でとても腑に落ちる喩えをしていました。

目の前にあるロウソクの火、常にそこには同じ火が存在しているように見えるのだけれども、実際は刻一刻と生成消滅を繰り返している。同じ火がずっとそこにある訳では無い。アニッチャ(無常)だと。

ちなみにこの講話は、毎晩かならず全員が瞑想ホールに集まって行われるものなのですが、ゴエンカ氏の講話を日本語で吹き替えた音声データが流されます。生徒はそれをただじっと1時間半聞き続けるのですが、吹き替えたナレーションがとても単調に淡々と喋るのでめちゃくちゃ眠くなります。

夜の講話が始まるまでにその日一日10時間以上坐っているわけで、その疲れもあって、僕だけじゃなく周りの人たちも船を漕ぎ始める人がまま見られました。

良い感覚を渇望すればそれは執着となり、悪い感覚だと嫌悪すればそれもまた執着となり、どちらも苦(ドゥッカ)を生む。

”痛い”という感覚に対して心がこれまでの傾向性に従って自動的に”不快”という感情を生む。これは感覚と反応が条件づけらてしまっているからだそうだ。
冷静に観察を続けることによって、この今ここに現れている感覚に対して、条件付けられた反応(感情)を自動的に生んでいる心を切り離す手術をするのだということを講話(音声データ)のなかで話していたとおもう。
そして、繰り返し平静さを保ちなさいということをおっしゃってました。

痛いという条件があるから不快という結果が生じる。これも因果であるし、すなわち無常でもある。

この講話(音声データ)を聞きながら、まるで僕だけに優しく諭すように語りかけてくれているような感覚になり、嬉しくてちょっと泣きそうになったし、明日からも瞑想を頑張ろうという活力が湧いてきました。


DAY6:痛み以外の雑念

昨夜の講話を聞いてかなり心が楽になったし、一歩引いた平静な態度で足の痛みと少しずつ向き合うことができるようになってきました。座り方を少し工夫し始めたのも功を奏したのかもしれません。

瞑想をするときは全員が60cm×60cmサイズ5センチ厚程度の瞑想用クッションに座るのですが、更にそこに独自のトッピングを加える人が多いです。この正方形のクッションの他に、座り方をカスタムする為に使う枕サイズのクッションが別に用意されていて、それを各自好きな様にお尻の下に敷いたり、胡座をかいている脚の間に挟んだりしていました。

瞑想ホール後方のクッションラックに立てかけられているクッションたち

青いカバーが掛かっている正方形の物体が瞑想用のクッションで、画像左端にうず高く積まれている枕のような長方形の物体がカスタムトッピング用のクッションです。

僕はとにかく坐骨と股関節が尋常じゃなく痛かったので、60×60のクッションの上に枕型のクッションを笑点よろしく4枚重ねて座ることにしました。

それのおかげなのか、今日の3回のグループ瞑想のあいだは1回も足を崩さずに耐えることができました(決して痛くないわけではないのですが)。
この痛みもアニッチャ(無常)であるということを常に意識しながら、この”痛い”という感覚を少しずつ冷静に捉えることが出来るようになってきました(めちゃくちゃ痛いことには変わりはないのですけどね)。

ただ、そうして少し心に余裕が出てきたのか、周囲の雑音やホールの外の蛙の合唱や鳥の声、空を行き交う旅客機の音が気になりだしました。

飛行機が好きなので旅客機の音に関しては単純にどの機体が飛んでるのかな?とか、どの航空会社かな?とか、何処にゆくんだろう?というのが気になり意識が飛行機の事を考えはじめます。

飛行機雲

他にも、周りの人達の息遣いや、鼻をすする音、お腹が鳴る音や、衣擦れの音だったり、そういった全ての音を雑音として認識しそれに対して”嫌だな”とか”うるさいな”といった負(嫌悪)の感情が呼び起こされます。

カエルの合唱ってホントに合唱するんだな~っておもいました。田んぼとかで泣いているウシガエルじゃなくて、もっと甲高い声で鳴くカエルでした。

ちゃんと身体の観察に意識を集中させていればそういった外部の音に気持ちが引き込まれることは無いのかもしれないのですが、近くで誰かが強めの呼吸音やため息を発するだけでイラッとして瞑想が中断される、気を取り直してあらためて集中し始めるとまたどこかで人の動く音でイラッとして瞑想が中断される。の繰り返しで、脚の痛みよりも精神的な部分でどっと疲れた一日でした。

せめてもの救いは、就寝時に僕の周りでイビキや寝言を言ったり、就寝時間に出歩いたりする人がいなかったので、睡眠を阻害されることがまったく無かったのが本当に有り難かったです。湯たんぽは気持ち良いし。

寝る前に歯を磨きにシャワー棟に行って、歯磨き中おもむろに鏡を見ながら髪の毛を掻き上げたら、びっくりするぐらい側頭部に白髪が増えていて、これはきっとストレスに違いないと確信しました。

DAY7:あの娘と僕と虧月

朝イチの4時半から6時半までの2時間のロング瞑想タイムが僕は好きです。
まだ外は真っ暗で空には北斗七星がキラキラと輝いているなか、早朝のキリっと澄んだ空気に包まれた静かなホールで座るのがとっても気に入っていました。

この時間帯は外の鳥や虫も静かだし、瞑想ホール内も人がまばらなので瞑想を阻害するものが比較的少なく、僕自身も目覚めたばかりなので体力や集中力ゲージが回復しているのでとにかく瞑想の効率が良かったです。

なんだか上手く坐れていて脚も全然痛くないし、身体の観察もめちゃくちゃ効率よく手早くテキパキと周回できるし、微細な感覚をしっかり感じることもできて、自己肯定感が早朝から爆上がりするのです。

朝の2時間の瞑想が終わる30分前ぐらいに瞑想指導者の人たちがぞろぞろとホールに入ってきて一緒に座ります。
瞑想の終盤、途中からおもむろにゴエンカ氏のchanting(詠唱)のテープを流します。パーリー語なので何を言っているのかは全然わからないのですが、ゴエンカ氏がとても気持ちよさそうに詠唱をしていて毎日聴いているとなんとなく節回しを覚えてきます。合宿から戻ってきた今でも、You Tubeにアップされているchanting(詠唱)を時々部屋で流しているぐらい気に入ってます。

朝食後の午前のグループ瞑想からできるだけ感覚を左右同時に感じるようにという指導がありました。左右同時に感じられない部分は残しておいて後で部分部分ごとに観察をするようにとのことでした。
左右同時にとは、身体を中心から左右に分けて上から同時に観察するということです。例えば左右の肩→左右の腕→左右の手指 といった具合に同時に並行して観察するということです。

夕方のフリーの瞑想時間も7日目ともなると脚の痛みに慣れてきて余裕が出てきました。斜めになった夕日が瞑想ホールの窓の隙間から差し込んできてホールを朱色に差しはじめます。

瞑想中に見る妄想の臨場感が高まれば高まるほど、現実がどちらなのか分からなくなるときがある。それはまさに胡蝶の夢を彷彿とさせました。臨場感が高まるほどに身体は正直に反応するし、きっと脳内物質もそれに伴って分泌されているんでしょうね。

その情景がなんとなく放課後の教室に似ていて、今の僕は瞑想をしているんだけれど、実は中学生の僕が放課後にひとり教室でうたた寝をしていただけで、大好きだったあの娘が忘れ物を取りに今にも教室に入ってくるんじゃないかっていう妄想をしました。

他にも、好きなアイドルの子とご飯を食べに行ったり一緒にお酒を飲む妄想が楽しすぎて、気がついたらあっという間に1時間近く経っていたりと、妄想に耽るとは正にこのことか!といった感じでした。
瞑想中に感覚が研ぎ澄まされた状態で好きなアイドルの子の事を考えていると、普段よりも臨場感たっぷりでめちゃくちゃ楽しい。ですが、身体中が徐々に熱を帯びてくるのが手にとるようにわかるので、別に誰かに見られてるわけでもないのに少し恥ずかしくなりました。

夕方で思い出したのですが、決まって日が落ちた頃に遠くの方で犬なのかまた別の獣なのか定かでは無かったのですが、犬だとしたらずいぶん尋常ならざる鳴き声でず~っと泣いているのが1匹いたんですよね。その声にもだいぶ気が散らされました。

そういえばまだ瞑想ホールの紹介をしていませんでした。瞑想ホールは内外装ともに白ベースに統一されていて、建物の作り自体はいかにも宗教施設らしく綺麗な左右対称に作られています(あくまでも宗教施設ではないんですけどね)。

瞑想ホール外観です。こういった建物もすべて寄付(ダーナ)によって建てられているようです。

内装はとても清潔感のある空間で無駄なものは一切なく整然としており、出入り口や窓、通気孔に到るまで全てに遮光カーテンが付いていました。初日に初めてこの瞑想ホールの中に入ったときの第一印象は、映画『ミッドサマー』の宗教施設になんとなく似ている、でした。まあ、『ミッドサマー』に限った話ではなく、海外の宗教施設ってこういう造りのものが多い印象があります。

他にも特筆すべき設備として、床暖房が敷かれています!換気の為に随時窓が空けられ寒風がホールに入ってくるのですが、床暖房が効いているお陰で幾らかは寒さがマシになります。
換気が終わり窓が閉められると床から上がってくる熱気で身体がポカポカしてきて眠気を誘うほど心地よくなります。

瞑想ホール内部

正面の一番前に白い布が掛けられた祭壇と大きな椅子が左右に1つずつ見えると思いますが、そこに瞑想指導者が座ります。画像では椅子がむき出しになっていますが、瞑想中は椅子にも白い布が掛けられていました。
瞑想指導者の人たちもこの白い布と同じ様に白装束?を纏って毎回瞑想に参加していました。

目のマークは無かったし帽子も被っていませんでした。

僕は白い布が掛けられた祭壇みたいなこの場所がDJブースに見えてしまい、もう少し高さを出してDJ機材を置いたらこのホールでDJイベント出来るよな~とか妄想していました(天井にスピーカーも付いてるしね)。

DJブースにもっていこい

中央に貼られた2本の白線を境に左側が男性、右側が女性のエリアという風に座る場所が分けられます。
男女それぞれ横に4人ずつが座れるように瞑想用のクッションが常時置かれていて、各自座る場所は初日に指示された場所に最終日までずっと座ります。場所の移動はできません。脱落者が出るとその人が座っていた場所の瞑想用クッションが取り払われ、そこだけぽっかりと寂しい空間ができます。

瞑想ホールの略図、脱落した人のスペースがぽっかりと空いたままになります。

そういえば2日目と6日目に男性の方が1人ずつ脱落していきました。何日目の事か忘れましたが夜の講話(録音素材)で、この10日間のコース合宿で脱落者が一番出るのが2日目と6日目です。という話をしていてまさに的中していることにビックリしました。


DAY8:日常からの逸脱と農作業

とにかく毎日毎日起きている時間の大半を坐って過ごすので、いい加減身体を動かしたくなる。
他の人達も昼食後の休憩時間中にどうやら敷地内を散歩しているようだったので、僕も昼食を摂り終えてシャワーを浴びた後に敷地の後ろ側の方へ散歩に行ってみた。

施設の敷地後方 雑木林を望む

散歩といっても、男性が入れるエリアをぐるーっと歩いて周って、ものの10分も経たずに周りきれてしまう。その程度の距離しか無かった。けれども、裏山の雑木林や竹林を眺めながらブラブラと歩いているだけでも、気分転換には十分でした。

空には定期的に飛行機が通るし、普段公園にでも行かない限り土や草を踏みしめて歩くこともないので、足の裏から伝わってくる感触が新鮮でした。瞑想実践で煮詰まったり、気分転換がしたいなと思ったら敷地内を散歩するのがいいですよ。雨上がりなんかはきっとぬかるんじゃいますけどね。

午後からも前日と同じように瞑想ホールで瞑想をしていて、外はいつの間にか日が落ちて月明かりが差し込みそうな時間帯でした。今年の春先に某南の島で真夜中に同僚と二人でジャングルの中に作った畑のことを瞑想中にふと思い出しました。

ジャングルを開墾して作った畑。右上の耕し済みの部分には種芋を先に植えました。まだ耕していないそれ以外の場所を真夜中に全て耕して種を植えました。

2時間近く真っ暗闇のなか小さなシャベルで畑を耕したり、根っこを引っこ抜いたりして、数種類のタネを植えました。
あの時から数ヶ月経過し、冷静に考えてみたら真夜中に畑を耕すことの異常さがあまりにも滑稽に映ってしまい、思わず声を出して笑いそうになるのを必死にマスクで押し殺しました。

よくよく考えれば10日間も言葉を発さずに毎日10時間以上瞑想しまくるというのも十分に正常からは逸脱しています。僕はもしかしたら、毎日繰り返される日常を少し逸脱して、異常性のなかに生きている実感を覚えているのかもしれません。そこまでしないと普段の自分自身の生活全般が実はとても尊いものだということに気付け無いぐらいには閉塞しているのだなあとも思いました。

瞑想実践の方はというと、今日から更に難しい要求が増えました。左右対称に同時に身体を観察していくだけでも結構大変なのに、微弱な感覚を感じられる部分は全身を流れるように感覚を上下に動かしながら感じなさいという、最後に一気にレベル上げてきたな感があった。むしろ、10日間しかないから最後に帳尻合わせたんだろ!感が一気に出始めました。

ただし、微細な感覚が感じられずに、もやがかかっていたり凝り固まった粗雑な感覚がある部分は残しておいて、後で以前と同じ方法で部分部分個別に観察をするようにという指導でした。

明日の9日目が本気で一日中瞑想できる最後の日なので、瞑想の時間以外も瞑想をしましょうということを夜の講話の時間に言われました。
瞑想以外の時間というのはつまり、食事の時や休憩時間、ひいては就寝時も瞑想をすることが出来るそうです。

涅槃(ニルヴァーナ)

たしかにどの動作をしているときも常に身体には感覚が起こっていると言えます。その1つ1つを丁寧に感じて観察することはそれこそマインドフルネスな状態だなと思いました。

講話の音声は毎日かならず1時間半ひたすら聞かないといけないのですが、内容はジャータカやスッタニパータに書いてあったような話がよく出てきた気がします。仏教を噛じったことことの無い人でもわかりやすいようにだいぶ噛み砕いているので親切だなあとおもいました。

にしても、早朝からずっと瞑想しっぱなしで集中力も体力もギリギリのところにきて1時間半ただただ座って流れてくる音声を聴くというのはこれはこれで辛いもので、僕は3割ぐらいの時間居眠りしていたかもしれません。


DAY9:ビューティフル・ドリーマー

9日目にもなってくるとこの早寝早起き瞑想三昧の生活が苦じゃなくなってくるし、自分なりのペースが分かってくるのでまだまだ1週間2週間ぐらいこの生活が続いてもいいなという気にすらなってくる。時間割も実によく考えられているなあとおもいます。

他人と会話をしないで瞑想実践の事と自分の内面の事だけを考えていればよいというのも、実はとっても楽。

2日目や3日目が終了した時点では、「まだ1週間以上この瞑想三昧がつづくのか・・・」と、途方もなく思えるゴールにゲンナリもしたのですが、今やこの生活に身体が順応してきて、むしろ残りたいとさえ思い始めていることに気がつく。

しかし忘れてはいけないのが、そういった安心して瞑想実践に没頭できる万全の環境を整え、迎え入れてくれているたくさんのボランティア・奉仕者の方たちがいて成り立っているということにあらためて気づかされた。

結局のところ、誰とも話さず黙々と10日間独力で瞑想できていると思っていても、その没頭できる環境づくりをしている沢山の人がいて成立している。
なんだ、やっぱり世界中どこに行ったってきっと人間一人では生きていけないんだろうな。ありがたや、ありがたやです。

瞑想実践は更に難しいことを要求してきました。身体の表面のみならず、身体の内部にも意識を向けて観察をするようにということでした。表面ですら、鈍くてなんにも感じることができずに焦っているのに、内部?内臓ってことか?となる。
レクチャーの音声を聞くに、それこそCTスキャンをかけるように身体の内部も含めて上下に流れるように観察をすることが出来るらしい。そして、いつものお決まりの、平静を保つようにと念を押すように言われる。

8日目あたりから感じていたのですが、この10日間の合宿が初参加だとまずここまでの要求を満足に実践できる人は殆どいないんじゃないかと思った。

休憩時間に外に出ると相変わらずのポカポカ陽気でとても気持ちがよかったです。シャワー棟の横には洗濯物を干すスペースが作られていて、僕の知らない衣類がたくさんそこに掛けられていた。

普段僕の洗濯物のすぐ隣に知らない人の洗濯物が掛かっているなんてことは無いので、この光景が不思議でもあり、普段の一人暮らしの寂しさを打ち消してくれるようでもありました。

シャワー棟に隣接している物干しスペース

僕が滞在していた合宿期間は1日ほどしか雨が降らなくて、それ以外の日は概ね太陽が出てくれて洗濯に困ることがありませんでした。

男性の洗濯物干しスペースは東側の山の斜面に掛かっている関係で、午後を過ぎないと日差しが当たらないのが少し難点ではあったものの、朝食後に洗濯をして干しておけば、夕方頃には厚手の衣類も乾いていました。


DAY10:Be Happy

朝食後の朝の瞑想(8時~)を最後に聖なる沈黙が終わり、最後にメッタ―ヴァ―バナーという慈愛の瞑想を習った。
周りの人、モノ、全てに感謝を捧げ、幸福を願うというのがこの瞑想の目的。

レクチャーのテープから聴こえてくるゴエンカ氏の声が瞑想ホールに響いていて、詠唱の最後に「be happy… be happy… be happy…」と繰り返す優しい声が印象的でラブリーでした。

1日3回のグループ瞑想時、開始前にかならずゴエンカ氏が瞑想法の指導をする音声データが流されるのですが、肉声データと吹き替え音声が交互に流される関係で、ゴエンカ氏の優しい柔和な声が聴けます(ゴエンカ氏は英語で話しているので何を話しているのかほとんど判りませんでした)。

グループ瞑想が終わり、瞑想ホールから出るや否や、敷地のいたるところでちらほらと生徒同士の会話が聞こえてきました。
ああ、会話が漏れ聞こえてくる感じってこういう景色だったなあと思い出す。

宿舎から瞑想ホールを望む

僕も、初日にお話しした方たちと昼食後に結構がっつりと自己紹介も兼ねてお喋りを楽しんだ。
話すってこんなに楽しいものなんだなと再認識したひとときでした。

10日目は聖なる沈黙が解かれたり、メッターヴァーバナー瞑想のレクチャーがあったりする関係で、9日目までのタイムスケジュールとは少し違うのですが、昼食後、午後からまたヴィパッサナー瞑想を夕方まで行いました。

瞑想中や瞑想ホールの周辺ではこれまでと同じ様に会話は厳禁なのですが、さきほどまで堰を切ったようにおしゃべりをした後だったので、とにかく落ち着かなかったです。ずっとそわそわしてしまって集中モードに入りません。

全然集中できないのに、ヴィパッサナー瞑想で要求されていることは高度なことを7日目あたりから要求されているので、とてもじゃないけれどまともに坐れなかった…というのが10日目の正直なところです。

このことからも分かるように、沈黙を守るというのはやはり大事なんだなあと実感した瞬間でした。

今夜の夕食は食堂のあちこちで談笑の声が溢れとても賑やかでした。特に女性エリアから楽しそうな話し声が常に聞こえてきていました。

夕食後に全員が食堂に集まって最後のミーティングタイムがありました。ここでこれまで僕たちのお世話をしていただいた奉仕者の方々やコースマネージャーの方から最後の挨拶がありました。コースマネージャーの方が、今回奉仕者として参加して本当に良かったということを熱弁されていて、僕も少しだけ奉仕者として参加してみたいなという気持ちが湧いてきました。きっと奉仕者側からしか見えない景色というのがあるんだろうなとおもいます。

この日だけは夜の22時まで食堂を開放しているということだったので、夜の講話が終わった後に、ふら~っと食堂に行ってみました。
そこにはすでに数人の生徒さんが集まって楽しそうにおしゃべりに興じていたので、僕も混ぜてもらいました。

奥の緑っぽいトタンの建物が食堂、右端のコテージが奉仕者棟

数年来の友人じゃなくても、仲の良い同僚じゃなくても、共通の趣味を持っている友達じゃなくても、そこにお酒や美味しい料理がなくても、ただ同じ想いを分かち合える人に囲まれて会話をするだけでこんなに楽しいんだなというのを久しぶりに思い出しました。

話していくうちに色んなバックボーンを持っている人がいるなあと改めて感じました。そのなかでも印象的だったのは、心理学やコーチングを学んでいる人や、やはり仏教やヨガに以前から興味がある人が多かったです。そんな方たちと22時までめいいっぱいおしゃべりをしてから宿舎に戻りました。

シャワー棟に歯を磨きに行って、毎晩お世話になった湯たんぽにお湯を注いで自室に戻りました。
ベッドに入ってから、早く東京に帰りたい気持ちと、まだここで瞑想合宿を続けたい気持ちとがせめぎ合っているのがよくわかりました。


最終日:お別れの日


最終日もいつも通り朝の4時に目が醒めました。

顔を洗って歯を磨いてから、最後の瞑想をしに瞑想ホールに向かいました。瞑想ホールは昨朝と何も変わらず、仄かな間接照明だけがホールの隅を照らしているだけで、他には何もなく、静かに入り口の扉を閉めて片手にストールを持ちながら足を踏み入れると足の裏を伝って床暖房のぬくもりが感じられます。

もう慣れた手順で瞑想用のクッションの位置を直して静かに坐ります。やっぱり名残惜しい気持ちと、帰りたい気持ちとがずっと心の中でまぜこぜになっているようでした。

最後の瞑想が終わり、ゴエンカ氏の最後の詠唱を聞いてこれで本当に全てのカリキュラムが終了しました!

その後、朝食を摂りに食堂へ向かいました。宿舎エリアからこの食堂までの道も何度も往復したなあと、少しだけ感慨深いものが去来してきました。

食堂から宿舎エリアを望む

食事を摂る前に、係の方から貴重品類を返却してもらいました。手放すことにかなり戸惑いがあったハズの携帯電話なのですが、いざ返却してもらえる段になったとたん、手に取るのが怖かったです。

貴重品袋から取り出した自分の半身とも言える携帯、手に取った途端身体全体がズシンと重くなったのを感じました。

僕は電源を入れるのがまだ怖くて食堂に居る間はずっとズボンのポケットに入れたまま一度も触りませんでした。触れられませんでした。

そういえば、この合宿期間中僕はず~っと便秘でした。一回もお通じがありませんでした。ある程度予想していたことなので特に驚きも無かったし、よっぽど辛くなったら下剤飲めばいいやぐらいの気持ちでした。
なぜそんなに焦っていなかったかというと、昔から自宅以外の場所に寝泊まりすると決まって便秘になるというのが分かっていたからです。1週間程度の旅行ならお通じが無くて当たり前ぐらいなもんです。

食事を摂り終えてから宿舎に戻り、荷物のパッキングと自室の片付けをしました。

僕は旅の最後に片付け終わった部屋を必ず写真に納めるのが通例となっていて、今回もしっかりと記録に収めました。

こざっぱりとした自室と、パンパンになったリュック、何かこう対象的な感じが寂しさを誘うようでやっぱり名残惜しい気持ちが沸き上がってきました。

このスノコの様なベッドフレームとペラペラの敷布団が毎晩僕の背中をゴリゴリと削ってきたなあと懐かしさもこみ上げます。

リュックが載せてある台、一見すると椅子のようにも見えるのですが実は自室で瞑想するときに使う瞑想台です。ですが僕は一貫して瞑想ホールで瞑想していたので1回も使うことはありませんでした。

この後、送迎の車が出発する9時前頃まで有志で各施設の清掃をするのですが、僕はその前に寄付(ダーナ)をしに行きました。

この瞑想合宿の運営は全てボランティアで、指導者ならびに奉仕者は一切の報酬を得ていません。
そして運営費用(維持管理、食費等)はすべて寄付・喜捨によって賄われています。
つまりこの理念のお陰で僕は一時的な出家修行を体験できているわけです。ここで行う寄付はこの合宿を運営してくれていることへの感謝と、次にこの合宿に参加する新しい生徒の方たちへ恩送りをするという意味も籠められています。

食堂棟の前にテーブルが置かれ係の人が寄付の受付を行っていて、そこで少額ではありましたが気持ちを収めてきました。ちなみに現金でも各種クレジットカードでも大丈夫でした。

ほとんどの人が残って宿舎や瞑想ホール、シャワー棟の掃除をしました。僕もみんなと一緒に最後に清掃をしてきました。

どの場所も今日までず~っと使ってきたところばかりだったので、愛着もあるし、思い出もあるのでお礼の気持も込めて丁寧に清掃させてもらいました。

清掃が終わった頃合いを見計らって、行きと同じように帰りも公民館の駐車場まで車で載せていってくれました。

バスが公民館の駐車場に滑り込んできました。僕には、バス=娑婆の象徴のように思えました。

バスに乗り込むと僕たち以外の地元の人達もバスに乗っていて、外界に降りてきたことを実感しました。と、同時にまたこうしてこれが当たり前の日常として流れて行くのかと思い、さっきまで居た千葉ダンマーディッチャが急に恋しくなりました。

20数分の後、初日に降り立った茂原駅にバスが着くと人の多さと騒々しさに明らかに僕の身体が強張っているのが感じられました。とにかく情報が一気に目と耳に飛び込んできてしまい怖かったです。

合宿中はひたすら身体の微細な感覚を感じ取ることに注力してきたので、急に外界から受ける情報量が多くなりオーバーフローを起こしそうでした。

電車の中で一緒の方向に帰る方と1時間ぐらいず~っとお互いのこれまでのあれやこれやを話しました。電車のなかでひと目も気にせずあんなに身の上話をずっとしたのは初めてかもしれません。
会話をしている間は意識を相手に集中させておけるので、電車の騒々しさや目まぐるしく変わる車窓の景色に心がざわつくこともなかったです。

空の景色は合宿施設と変わらないハズなのに、娑婆に戻ってきた途端どうしてこんなに心がざわつくのでしょうか。

途中、JRの駅でお別れをして、僕はひとり電車を乗り継いで自宅に無事帰ってきました。帰宅した自宅は僕が出発した日と同じままそこに在りました。クッションどころか、リモコンすら寸分違わぬ同じ場所にありました。長期で家を空けるといつも不思議な感覚だなと思います。

座って一息ついてしまうとしばらく何もやる気が起きなくなってしまうので、そのままアンパッキングをして荷物を全部元の位置に戻したり、洗濯をしたりしました。

洗濯物を全部干し終わってから、近所のスーパーに行ってしこたまお酒とおつまみを買い込んできました。2週間ちかく禁酒をしたので、さぞかし一口目のビールは美味しいだろうなと期待していたのですが、案外そうでもありませんでした。

ビールを飲みながらPCモニターをぼーっと眺めていたら、合宿中に髪の毛切りたいなとずっと思っていたのを思い出して、行きつけの美容院にホットペッパーから予約を入れました。白髪も少し気になっていたのでカラーも頼みました。

これで今回の僕の体験談は終わりとなります。お読みいただきありがとうございました。ここから先は、この合宿の体験を通して感じたことや読者の方々に伝えたいことを書かせてもらいました。もしお時間が許すようでしたら一読いただけると幸いです。


瞑想合宿を終えて

この記事は瞑想合宿から戻ってきた翌日からさっそく取り掛かり始めて、すでに数日が経ちました。薄れゆく記憶と感覚、それと同時に実社会に戻ってきてからの違和感やそうした日々の生活から感じたことをここからは書いていこうとおもっています。

この項からが本稿のメインコンテンツといってもよいかもしれません。


合宿の意義など

同じ目的を持ちながらも、赤の他人が数十人わっと1つの施設に詰め込まれて、しかもコミュニケーションを一切とらずに集団生活をするという可笑しさ、異常さを”面白い”と思えるかどうかは僕にとっては非常に重要なエッセンスでした。

僕自身、音に結構敏感だったり変なところ潔癖だったりもするのですが、こういう合宿生活や住み込み生活、共同生活が好きなので(本質的には人間が好きなんだと思う)、振り返ってみるとこの貴重な集団生活体験は全てが楽しく、瞑想実践を抜きにしても集団生活そのものが驚きと発見の毎日でした。

集団生活・共同生活の何が好きかというと、自分自身の価値観や価値判断が他人とこんなにも違うのかというのを痛感するからです。他の人達には僕が知り得ないそれぞれの人生、物語を経てここにたどり着いているんだというのをまざまざと目の当たりにするからです。自分が普段いかに偏った独りよがりなものの見方をしているかを省みることのできる貴重な時間です。

色んな価値観、生活様式があって、みんなそれが正しいと信念して行動している。と、僕は思うので、例えば相容れない価値観の人が側にいたとして、すぐに拒絶したり遠ざけたりするのではなくて、一旦話をしてみようという姿勢ではいたいなと思わせてくれる。

どれだけ月を説得しても月が登り沈む位置を僕は変えることができない。ならば僕が動いて気に入る景色が見える場所に移動すればいい。

これも結局は気づき(マインドフル)なんですよね。色んな価値観の人がいて当たり前、理解できない言動をする人が居て当たり前。そう思えるようになると、排除する方向じゃなくて如何に共生できるかという方向にマインドが向くので、人に優しくなれると僕は思っています。そしてこのマインドは社会福祉にも通じる部分が大きい。

実生活では、立ち止まってこういうことを改めて考え直す時間ってなかなか難しいので、ある程度行動が制限されてパーソナルスペースやプライベート空間が侵害される環境にあえて身を置ける集団生活というのが僕には定期的に必要だとあらためて感じた次第です。

飛行機雲と電線

上述のような部分(パーソナルスペースが限られる、プライバシーが制限されるなど)が無理でなければ、この瞑想合宿には向いていると思います。ヴィパッサナー瞑想を習いに来ているという共通の目的を共有している(かつ同じ釜の飯を食った)仲間なので、聖なる沈黙の期間が明けてしまえば初対面とは思えないほどみんな口火を切った様に会話が弾むし、あっという間に打ち解けられます。ある意味苦行を生き抜いた戦友のような感覚なのかもしれません。

かといって無理に会話をしなきゃと気負うことも全然無いですし、そういうのはみんな空気感で伝わるので(会話が無くても2週間もずっと側にいたらなんとなく分かります)大丈夫です。それに、実社会の様にお互いが探りあって変に壁を作ったままジャブを打ち合ったり、距離を取って他愛のない話しから始めなくても良い楽さはとても感じました(この先関係性が続くわけでもないというのも肩に力がはいらなくて楽でした)。

僕も最初から全開で好きな仏教の話しや心の内面の話しだったり、普段絶対にしないような立ち入った(ナイーヴな)過去・現在の身の上話を、つい今しがた自己紹介をしたばかりの人に思う存分聞いてもらえて共感してもらえる嬉しさ・ドキドキさを体感し、それはとても気持ちの良いものでした。
エピソードトークとして、瞑想中に脚が股関節からもげそうだった話しや、ゴエンカ氏の詠唱のネタ、湯たんぽがこんなに快適だとは思わなかったとか、そういう共通の話題を思う存分話して共感しあってとても楽しかったです。

初日も含め、聖なる沈黙が解かれた10日目と最終日合わせて10人ぐらいの方たちとお話ししましたが、皆さんとっても穏やかな表情をしていて、語り口も優しい方が多かったです。そのなかには外国籍の方たちもいて多くの刺激を受けましたし、そろそろふら~っと1ヶ月ぐらい海外旅行に行きたいなとも思いました。

趣味や内面のはなしを思いっきりできるコミュニティは、その良し悪しはあると分かりつつも、1つ2つは実生活のなかで自分の周りに確保しておいてもいいのかなとは思いました。


さて、そろそろこのヴィパッサナー瞑想合宿の総括をしたいとおもいます。

この瞑想合宿によってバチン!とスイッチが入り、のめり込む人がいるのも分かる気がしました。

僕ももしかしたら順序が違えば更に延長して滞在したり、すぐに次の合宿の予約を入れていたかもしれません。
けれど、僕にとってスイッチがバチンと入って人生観や死生観が変わった瞬間が3年ほど前にあり、その時のインパクトを今回の瞑想合宿では上回ることが無かったのが、そうはならなかった(バチン!とスイッチが入らなかった)要因として1つあります。

もう1つは、のめり込むという状態そのものがそもそもマインドフルネスな状態では無いという立場に立ってこの10日間を過ごせたからだともおもいます。何か1つのことに信奉し執着する、それはつまり渇愛が起きているという視点で考えると、1つの瞑想メソッドに頼り切るというのはどうもバランスが悪い。

このヴィパッサナー瞑想がたとえとても素晴らしい瞑想法だったとしても、そこにしか目が向かなくなってしまうのは本末転倒ではないのかなと考えました。

この合宿をきっかけに今後の人生を宗教者として生きていく道を選択するのなら、特定の宗派宗教の教義をちゃんと信奉するということは必要になってくるのかもしれませんが、そうでないのなら自縄自縛して選択肢を狭めることもないんじゃないかな~って思っています。

井の中から出てあくまでも平静に観察すること

そもそもがこういう合宿に興味を持ってわざわざ2週間ものスケジュールを作ってやって来るぐらいなのですから、人生の岐路に立たされていたり、生きづらさや解決できない大きな悩みを抱えてくる人が多いとおもいます。

後述しますが例に漏れず僕もそうですし、聖なる沈黙が解かれた後に実際に参加者の人達と会話をしていてもそう感じました。なので、そういう心の隙間が大きくなっている状態だと余計に間隙を縫って感化されやすいというのは、誰しもがここまで現実社会を生きてきて大なり小なり経験的に理解できるところではないでしょうか。

それに、僕/私を救う唯一の方法はこれしかない!という仕方はやはりあまりにも盲目的すぎるので、それこそあくまで自分の身に起こる感覚(vedanā)、そしてその感覚に反応してどこからともなく湧いてくる感情という反応(saṅkhāra)を観察(vipassanā)しているという瞑想実践における大事な部分を忘れず、常にそれを意識することが肝要かとおもいます。

そして、どれだけ偉い人が心に響く有り難い話をしていたとしても、眉に唾をつけつつ話し3割ぐらいで聞き流す程度の、冷静な観察(vipassanā)と距離のとり方をしたほうが僕は良いとおもいます。心酔するという字義はまさに読んで字のごとく心が酔うと書きます。心が特定の感覚(vedanā)に酔っている状態では正しい観察(vipassanā)は到底できませんし、八正道の正しい集中(sammā-samādhi)と正しい思考(sammā-saṅkappa)を保たなければなりません。

人生観を変えてしまうほどの宗教体験をしてしまったのが運悪くカルト的な宗教だった場合、取り返しの付かない事になりかねないですし、やはりどこか冷静に客観的に自分が置かれている状況を常に見張っている心の余裕は残しておくほうが賢明なのかもしれません。

心の拠り所はなにも宗教に限った話ではない



街を歩くだけで色々な感覚に敏感になっている自分に気がつく

自宅に帰る道中から既にそうだったのですが、街中の様々な音、靴底から伝わる地面の感触、髪の毛や肌に当たる風、目に入ってくる光、耳に届く音。
これらに敏感に反応してしまい、それまでは人一倍歩くのが早かった方だったのに、だいぶゆっくりな歩みになりました。むしろゆっくり歩くことによって、これらマインドフルな感覚をじっくり味わいたいという気持ちになってきました(いつまで続くかわかりませんが)。

歩行禅という言葉が日本仏教にはありますが、このマインドフルな状態のまま歩くという感覚は通ずるところがあるのかもしれません。

マインドフルネスによるライフハック

対象から何かしらの刺激を受けて身体に感覚が起こる、それに対して心が反応する。というサイクルを知っていることは、実生活において様々なメリットを享受できるなとおもっています。

簡単な例を挙げると、これはアンガーマネジメントに応用できそうです。今僕はとても嫌な気持になり、怒りがこみ上げてきているとする。嫌な気持ち、嫌悪する気持ち、忌避する気持ちがどこからともなく湧き上がってきているということに自覚的になり、その反応を客観的に観察することによってその一時的な反応は潮が引くようにすーっと収まっていきます。これは呼吸に意識を向けるだけでもかなりの効果があります。

それとやはり物への執着や人への執着が減ったなあというのは如実に感じているところです。物質的な充足は突き詰めていくとそれもやはり無常(アニッチャ)であって、僕が求めるところの幸せからは逆に遠ざかっていくというのを改めて感じました。
人への執着も同じで、”好き”や”嫌い”という心の反応にも平静な気持ちで一歩引いた視点で観察をすることで、いかに自分が得体の知れない”感情”というあやふやなものに操られていたかがよく見えてきます。僕/私から湧き上がってくるこの”感情”や”気持ち”に素直に従うことが僕/私らしい生き方だと勘違いしてしまいそうになるのを、「いやちょっとまてよ」と立ち止まらせ気づかせてくれたりなど。

読み返したくなった書籍

僕がこの合宿に参加するよりもずいぶん前にWEBや書籍から瞑想のやり方を学んで自己流で坐っていた時期がありました。

その頃に出会った本で、『自由への旅: 「マインドフルネス瞑想」実践講義』という書籍があります。

以前はページが進むにつれて書いてある内容がチンプンカンプンで、さいごまで読み終えることが出来なかったのですが、瞑想合宿を終えた今なんとなくこの書籍を読み進めることが出来るんじゃないかという前向きな気持ちになっています。
合宿から戻ってきて、さっそく書籍を枕元に置いて寝る前に少しずつ読み直しているのですが、今のところびっくりするぐらい読みやすく内容が頭に入ってきています。瞑想実践をした恩恵がこんなところにもあって嬉しいです。

デジタル・デトックス

休みの日だけデジタルデバイスを手放しましょうとか、仕事が終わって帰宅したら携帯を触るのを止めましょうとか短時間のデジタル・デトックスは普段の日常生活であっても、覚悟を決めれば実践することが可能だと思います。
しかし今回のように長期間デジタルデバイスを遠ざけた生活というのは、たとえ本人が望んだとしてもそれが可能な環境づくりがほぼ不可能なのが現実的なところではないでしょうか。

故にその効果はとても大きかったです。

スマホを手放して気持ちの面で覚悟が決まったあたりから、身体が軽くなるのを感じます。
逆にスマホが返却されたときの何とも言えない、手に取ったときのズシンと全身に鉛がまとわりついた様な嫌な重さは今もなんとなく記憶に残っているぐらいです。

この合宿を終えてからあらためて心がけようと思ったことがあります。せめて外出しているときぐらいは携帯に目線を落とすのではなく、外の景色や風景、通行人、環境音など外側の世界をなるべく見よう、です。

最近空を見上げていますか?僕は飛行機の音が聞こえると反射的に空を見てしまいます。

これを意識するようになってから明らかに携帯を触る頻度が減ったし、イヤホンで音楽を聴く時間も少なくなりました。いつまで続くかは分かりませんが…。

瞑想技法うんぬん

繰り返しになりますが、僕はこの合宿に参加する何年も前に独学で瞑想を勉強してテクストやWEBから得た知識をベースに自己流で坐りはじめました。

その頃主にやっていたのが数息観すそくかんという坐禅の技法を取り入れていました。呼吸に合わせて数をカウントしていくという、初心者にもわかりやすい瞑想法でした。
これもヴィパッサナーと入りは一緒で呼吸を観察するのですが、じゃあその次の段階はどうなるのが正解なのか?どういうことが身体や思考に現れるの?というところでつまずいてしまいました。
ネットで検索してもその先のことを順序立てて素人にもわかりやすく説明しているテクストが僕には見つけることが出来なかった。

今回の合宿でがっつり実践してみて、文字でわかりやすく順序立てて説明するのが難しいのもよくわかるんですよね。やっぱり感覚の部分が大きいので。

現在だとマインドフルネスと瞑想がだいぶ言葉として一般に広がった影響もあって、僕がつまずいてしまった当時よりもわかりやすい解説サイトやハウツー本なんかも沢山あるとは思うんですが、それでもテクストだけで実践を進めるというのは落とし穴が多い気がします。
自分自身では上手く出来ていると思っていても、実は全然間違った道を進んでるというのは、こと瞑想実践においては陥りやすいところかもしれません。

なので独学だけで突き進むのはちょっと危ないかなと。まかり間違って偶然とんでもない神秘体験(神を見てしまったりとか)をしてしまうとそれこそ抜け出せなくなってしまったりもあるんじゃないでしょうか…。

なかなか2週間ちかくスケジュールを空けてこの合宿にというのはハードルが高いのは仕方がないとしても、1日瞑想会とか、オンライン瞑想会、定期的に通える瞑想サークルみたいなのに行って、ちゃんとした指導者にみてもらいつつ軌道修正してもらえる場所はあった方が良いとおもいます。



最後に昔のことを少し話そうと思います。

参加することにした経緯について

昔のこと

今からさかのぼること6,7年ほど前になります。当時、私生活がかなりぐちゃぐちゃしていました。
細々と続けていた仕事が続けられなくなるぐらいメンタルがやられてしまい休業状態に陥ったり、ほぼ時を同じくしてパートナーとの離婚があったり、親しい幼なじみの突然の死に直面したりといった事が続きました。

仕事も順調でこれからというときに道半ばでこの世を去った幼なじみの死を受けて、「あいつの分まで生きないと」と考えたりもしたのですが、たくさんのことが立て続けに起きて、正直生きるのもめんどくさいなという時期がありました。

そらにもこもこいるあの白いふわふわの雲は近づいていくとそれはただの水の粒子に過ぎず、では雲ってどこから雲なのかなという疑問があります。どれだけ近づいたら粒子でどれだけ離れたら雲なのでしょう。

仕事もしなくなって、一日中家に引きこもっている状態でした。なかばセルフネグレクト状態な生活が続き、アルコールでぼやっとした頭のままパソコンのモニターを一日中眺めながらただ座っていると一日が終わる。そんな無為な日々を何ヶ月か消費した頃だったでしょうか、何か現状を打破する糸口は無いものかともがき始めた(生きようとした)のが始まりです。

とはいえ、なにも急に真っ当な社会人として再生しようとかそういうのではなく、幼少期に漠然と想像しては怖くなっていた、”人間は死んだらどうなるんだろう”とか、中高生の頃に考えては悶々としていた”生きる意味・目的ってなんだろう”や、”僕が産まれる前の世界や死んだ後の世界ってあり続けるの?”とか、謎の”生きづらさ”みたいなのとかそういう疑問の数々に、大人になったいま、もう一度焦点を当ててじっくり考えてみたら子供の頃と違って、一定の答えが見いだせるんじゃないだろうか。
そして、その答えがこの消化試合のような生活から脱却するヒントにならないだろうかと考えたわけです。

仏教との出会い

それから吸い込まれるように宗教に答えを求めていきました。仏教に限らず、キリスト教やイスラム教といったメジャーな宗教を手始めに、東洋哲学、西洋哲学にも手を伸ばしました。けれど、やっぱりしっくりくるなと思って腰を落ち着けたのが仏教でした。

かといって、別に特定の宗派や団体に属しているわけでも傾倒しているわけでもありませんし、仏教徒でも宗教者でもありません。
ただ、生きづらさを抱えたこの人生をより良くする為のツールの1つとして捉えているに過ぎません。
今目の前にぶら下がっている難問に対して、ポケットの中にある手駒から「ど~れ~にしようかな~」と選ぶ攻略アイテムの1つに仏教の教義や教え、瞑想や哲学があるに過ぎません。

とはいえ、「宗教なんてそんな胡散臭いもの俺/私には必要ない!現実を直視しろ!」と言っている人ほど他の何か(現実教や金パン教)を熱心に妄信していたりもするので、僕はあまりそういう人の言動を真に受けないようにもしています。僕の父親がまさにそういう人なので、特に気をつけている部分は大きいかもしれません。

一定の答えが見つかってから

宗教の教義を理解したり、簡単な哲学を勉強していくなかで、先述の”人間は死んだらどうなるんだろう”とか、”生きる意味・目的ってなんだろう”という疑問に一定の答えを自分なりに見出し始め、それからというものずいぶんと肩の力が抜けてマイペースで人生を歩めるようにはなりました。

他にも、あるべき自分の姿、本当の自分、みたいな自分探しのようなことをしなくなりましたし、そうやって自我そのものの存在に固執しなくなってから生きやすくなったのは言うまでもありません。

幼なじみの死後、告別式には参列して骨も拾ったのですがそれを受け入れられずに墓参りには行けてませんでした。けれど3回忌の年にようやく墓前に手を合わせに行くことができました。これでだいぶ前を向けた気がしました。

この合宿に参加を検討している方たちへ

検索結果等からこの記事のタイトルを見かけて辿り着いたということは、おそらく大なり小なりヴィパッサナー瞑想に興味があったということと仮定して書かせていただきます。

僕は上述のように、半ば人生を投げ捨てた生活から仏教に答えを求め、瞑想法を調べているうちにある日たまたま『30代引きこもり男のヴィパッサナー瞑想合宿体験記!』という体験記を発見するのです。この体験記を読んでこの合宿に参加してみたいという気持ちを後押しされました(現在この体験記は残念ながらウェブから消えてしまっています)。

今回本稿を書くにあたり、ウェブアーカイブからデータを拾ってきて数年ぶりにメインページだけ読み直したのですが、合宿を終えてから読むこの『30代引きこもり男のヴィパッサナー瞑想合宿体験記!』はまた格別にノスタルジーを誘うものでしたし、この著者の淡々とした文章の書き味が当時淀んだ僕の心にすーっと染み込んできたのを思い出しました。

30代引きこもり男のヴィパッサナー瞑想合宿体験記!

この頃の僕は仕事もせずに昼夜関係なくただただPCの前に座って過ごす生活を1年ちかく続けていた頃で、この体験記を読みながらまさにこれは僕のことなんじゃないか!という強い共感をこの体験記から感じました。

今から10年も昔の体験記ですし、もちろん僕はこの時まだこの瞑想合宿に参加したことがないわけですが、未来の僕が体験するであろうことを先取りしているような錯覚を覚え、この体験記に強く背中を押されたのでした。それと、感じたことを正直に書いているところに著者の誠実さが垣間見れてとても好感が持てました。

だから現在2022年にこの記事を読んで興味を持ったり、元々このヴィパッサナー瞑想合宿の情報を調べていてこの記事に辿り着いた人の背中を数ミリでも良いから後押ししたいです。かつて僕の背中を優しくそっと押してくれた『30代引きこもり男のヴィパッサナー瞑想合宿体験記!』を書き残した著者のように。

なんでこんなに長ったらしいレポートをここまで書いてきたかというと、つまるところは”今合宿に行こうかと迷っている人や、二の足を踏んでいる状態の人の背中を少しでも押したい”からですし、”今生きるのが辛い人や、生きることを諦めかけている人に1つの道筋を提示できたらいいな”という僕の願いからです。
だいぶおこがましい事を言っていますけれど、これが僕の願いです。

勇気よりは覚悟

月並みですが、もうこれで死んでもいいかなぐらいの気持ちで飛び込んでみると結構あっさり道が開けたりしました。実際に行動に移す前ってどうしてもネガティブな想像が頭を埋め尽くすと思うんですけど、そのうちの98%ぐらいは現実には起こりませんでした。

あと、脳みそがやらなくてもよい理由を探し始める前に行動してしまうというのが僕には効果てきめんで、ちょっとバカになって「命まで取られる訳じゃないしとりあえずやってみるか」ぐらいのノリでバカになって好きなことにどんどん首を突っ込んだら、少々不格好でも独力で結構出来ちゃうし、世間って案外捨てたもんじゃなくて、動き始めると有難いことに色んな人が手を差し伸べて助けてくれるんですよね。

だから、思い切って飛び込んでみたらいいと思うんですよねー。

無職やニートなら日程調整すら必要無いですし、学生ならバイトさえどうにかしちゃえば休み期間に合わせて行けちゃいますよね。休職中や転職中ならいまこそ行くべきだと思います。

とりあえず、この記事を見たノリでコースの申込みだけでも先にやっちゃうというのはアリですよ。それからまた考えましょうや。やっぱり無理かもしれないと思ったらいつでもキャンセルできますし。


さいごに

今ほぼ全ての文章を書き終えてこれを書いているのですが、合宿から戻ってきて自宅で瞑想をしたのは翌日の朝たったの1回だけでした。正直なところ、集中して瞑想をする環境づくりから整えていかないと日常生活と並行して瞑想を習慣づけるのはやはり難しかったです。

どんどん薄れてゆく瞑想の手応えや感覚に少しは焦ってみたりもしたのですが、そこで一旦立ち止まって環境を整えたり気持ちをもう一度瞑想に向かわせてくれるほど、僕の日常生活には案外余裕が無かったのが正直なところ。

ただ、合宿中に体験した己の身体に生じた様々な感覚や、瞑想しながら考えたこと、思い出したことは決して無駄ではありませんでした。

手作り感のある物干し台

先ほども書きましたが、以前読んだことのある仏教書籍をあらためて読み返してみると「わかる!わかる!」という、瞑想実践をしたからこそ得られる共感や気づきがありました。

いくら書籍で勉強しても、どんなに高名な僧侶の説法を聞いたとしても、実践において我が身で体験しなければ理解できないことは確実にあるとおもいます。逆もまた然りで、実践ばかり修していて教学が疎かになっていては理解の及ばない部分があるのもまた事実だと思います。
教学と実践この2つが両輪のようにキレイに回り始めてようやく”悟り”へのスタートラインに立てるのではないでしょうか。

ここまで、長々とお付き合いいただきありがとうございました。久々にボリュームのある記事を書いて少々疲れました。

記事を分割することも考えたのですが、文庫本1冊の文字数がだいたい10万文字前後と考えると、分割するまでもない量だなとなったので一本で掲載させていただきました。その分細かく章立てしました、これで勘弁してください。

千葉ダンマーディッチャ遠景。京都のダンマバーヌにも一度は行ってみたいですが、気が向いたらまたこのダンマーディッチャにも再訪してみたいです。あとは、世界中にダンマがいくつもあるので、海外旅行ついでに滞在するのも楽しそう。行きやすいのはアジア圏かなあ。

最後になりますが、素晴らしい体験を合宿で共有した仲間たちと、この記事を読んでいただいた皆さん、そして現在までヴィパッサナー瞑想を伝えてこられた方々、ならびに公私共に今日まで僕に関係したすべての人に幸せが訪れますように。

2022年冬

万が一サポートして頂けるような神がいらっしゃいましたら、取材費としてありがたく使わせていただきます。