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第8話 夜

 それから……あたしはどうしたんだろう。

 薄ぼんやりとした記憶の中では、りさが、おにぎりみたいな頭をした男の子と話している。

「お嬢さん、まいりやしょう」

 ハチというそのおにぎり頭が、あたしを促す。

「テツジの旦那に会ったら、もう吉原には出入り禁止だと、伝えなさい。知らなかったとはいえ、盗賊を今までうちにおいていたなんて……」

 ハチさんの背中越しに、親父様が心底悔しそうな顔で、そう呟いた。あたしは「あい」と頷いて、ハチさんに連れられて、吉原を出た。



 連れて行かれたのは、北町のお奉行所。

 ふと、正気に戻ったとき……。あたしは見たこともない部屋で、桃源楼でも花魁と親父様しか使えないような上質な布団に、りさと枕を並べて寝かされていた。

「……眠れる?」

 見慣れない天井を見上げているあたしに、りさが声をかけてきた。

「……あちきら遊女は、夜はねむりんせん」

「ああ、そうか」

 りさはそう言って、身体をこちらに向ける。あたしも、りさの方に顔を向けた。

 息をのむほどに、綺麗な顔。

 今日の満月のように綺麗なその瞳が、あたしを見つめている。

「ごめんね、色々、驚いたでしょう」

 りさの言葉に、あたしは素直に頷いた。

「あたしも、色々ありすぎた……」

 りさは溜息を吐いて、小さく首を振る。そして、身を起こすので、あたしも身を起こしてりさのほうに向き直る。

「身体、痛くない? 大丈夫?」

 りさが、かが水《み》に打たれた肩や足を心配してくれる。あたしは「大事ござんせん」と、首を振った。

「ぬしさまのお顔のことを……」

 あたしは、思っていたことを素直に口にする。

 りさは、覆面のないぬしさまに向かって、間違いなく「テツジさん」と呼びかけた。あたしは、ずっとそれが気になっていた。

「ああ、あの覆面ね。ばっかよねえ。あれ、あんな大きな目立つ身体で、覆面だけしたって……分かんないわけがないじゃない」

 りさが……まるで、親父様をからかうときのお袋様のように、親しげに、愛おしげにぬしさまを嘲って……クスクスと笑う。そのなれなれしさにカチンときて、あたしはりさを睨み付けた。

「ぬしさまとは、いつから?」

「……去年の、年末くらいかな。変な男の人に拐かされそうになったところを、助けて貰ったの……覆面のないほうのテツジさんに。それからすぐに、うちの家が赤鼠に襲われた」

「……赤鼠?」

「盗賊、赤鼠の噂は、聞いたことある?」

 りさの問いかけに、あたしは頷く。

「それが……覆面のある方の、テツジさん」

 ぬしさまが、赤鼠であることを知らなかった……と言えば、嘘になる。

 あたしは多分、ずっとずっと前から、それを知っていた。知ってて、それに気づかないフリをしていた。

「二人で赤鼠を追っていたつもりだったのに……下手人が、その本人だったなんてね」

 りさが、哀しげに目を伏せる。

「ぬしさまは、何故、赤鼠に?」

「お華ちゃんのため……」

「お華?」

 それは……ぬしさまの、娘の名前。

「盗んだものを売って、お華ちゃんの薬代を稼いでたんだと思う」

「薬……?」

 ここでやっと、あたしのなかで、ぬしさまと佐平がつながった。

「越後屋佐平……」

「えちごや? 薬問屋の? うちのおとっちゃんも、よくそこから薬を買うのよ」

「ぬしさまは、越後屋から……薬をもろうておりんした」

 思わず、りさの腕を掴んで、あたしは……頭の中の言葉を必死で伝えようとするのに、うまく、言葉にならない。

「落ち着いて、さち香さん」

「ぬしさまは、薬代の代わりに、盗みを……?」

 あたしと、りさが顔を見合わせる。しばらく、あたしを見つめていたりさは、やがて小さく溜息を吐いた。

「あした、テツジさんが約束通り、ちゃんと奉行所に来れば……お奉行様直々の御調べがあると思う。あなたにはそこで、色々とお話をして貰うことになると思うの」

「あちきのお話次第で、ぬしさまは……」

 あたしがそう呟くと、今度はりさがあたしの手を握る。

「あなたのお話次第で、テツジさんが牢獄に行っちゃう!!」

 あたしは、りさの瞳を見つめる。りさも、まっすぐにあたしを見つめた。

「お奉行所で、嘘は吐かないで。でも……テツジさんが牢獄に行ったら……お華ちゃんが……お華ちゃんがひとりぼっちになっちゃう」

 りさの大きな目から、ボロボロと涙がこぼれる。

 あたしは、泣いたことがない。

 千代菊姐さんが好いた男と駆け落ちしたときも、ひな美姐さんが死んだときも、哀しかった。哀しかったけど、涙なんて流せなかった。誰の涙も見たことがないから、あたしは涙の流し方を知らない。

 だけど、りさは……こんなにも……感情豊かに泣けるんだ。

「あちきは……見たこと、聞いたことしか、お話ができんせん。それが、ぬしさまの……お華さまのためになるか……ならざるかは、存知《ぞんじ》んせんが……。せいぜい、話させていただきんすよ」

 なんであたしが、りさを慰めなくちゃいけないのかわからない。

 だけど、目の前のりさは、それくらいに頼りなくて……。小さくて、可愛かった。

 自分の気持ちに素直で、純真で……あたしにないものを、りさは全部持っていた。

「さあ、お嬢様は、寝る時間でありんすよ」

 あたしはそう言って、まだ、頼りなく泣き続けるりさの身体を、布団に横たえさせた。

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