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レッテルを貼られて苦しんでいる人に捧げたい〜西加奈子 キリコについて〜

きりこはぶすである。
誰かを、ぶす、だと感じるのは人それぞれ、千差万別だから、こう、のっけから「ぶすだ」と断定するのは早急だし、きけん!なことかもしれない。(中略)でもやはり、そのきけんを考慮に入れ、早急であると訴えられても、きりこはぶす、である。

この本の書き出しは、主人公がいかにぶすであるかを語るところから始まる。
ぶすを太字で強調しているのも原文そのままだ。そんなきりこの人生は飼い猫、ラムセス2世の視点をかりて軽やかに描かれる。(きりこは猫と喋れるのだ)

世間から見て「ぶす」という「肩書き」をもらった彼女が、自分をどう取り戻していくのか。そして人間社会をからかうように自由気ままに生きている偉大な猫たちの描写にも注目してほしい。

「ぶす」描写のバリエーションの豊富さ

きりこへの見た目の描写はとにかく残酷だ。
「赤ちゃんのようなもの」「おおよそ人間が作ることのできる皺の可能範囲を軽く超えた、線だらけの顔をしている。」「理解不能な岩石の彫刻」などなど

ここまでぶすを多様な表現で連呼している作品は他にない。とにかくぶす、何がなんでもぶす、どう足掻いてもぶす、といった感じである。

でも子供の頃のきりこは、自分のことを可愛いと信じて疑わない。両親はきりこを可愛い可愛いと育てたし、自信満々でクラスの真ん中にいるきりこに楯突く人間などいなかったのである。
しかし、運命はきりこの初恋によって大きく変化する。

初恋の相手こうたくんはきりこのラブレターを受け取り冷やかした同級生に対してこういったのだ
「やめてくれや、あんなぶす」

そこでクラスのみんなは気がついてしまったのだ、きりこはぶすだと。きりこの「女の子」としての薔薇色の人生は幕をとじ、「女」としての最悪のスタートを切った。

自分の見た目のレベルが可視化される瞬間

女の子は特にそうだと思うのだが、小学5、6年生ごろになると段々と自分の見た目のレベルがわかるようになる。ただ威張っているきりこのような女の子が覇権を握る時代は終わり、可愛くて頭が良くてピアノなんかできちゃうようなエレガントな女がスクールカーストのトップに立つ。

親や親戚からの「可愛い」の評価が世間一般の評価違うことがわかり、その差に気づつくのがこのぐらいの年齢だと思う。

だが猫は違う。猫の目に映るきりこは以前と同じ優しいきりこである。猫の世界では可愛いの基準などなく白い綺麗な猫をつけ回していると思ったら、まるまる太った茶トラにご執心になっていたりする。

人間なんかよりも猫は偉大な生き物た。という西さんの一貫した考えが見えるのもこの物語の面白いところだ。

気がついてしまったきりこは睡眠障害になり眠り続ける。
夢の中できりこがみたものは、主に自分の容姿についてだ。でも、クラスで一番可愛い女の子になる夢を見るのではない。きりこは自分が自分の姿のまま、愛される夢を見る。

きりこが自分を取り戻すまで

きりこはやがて女の人が泣いている予知夢を見る。きりこは猫たちに話をして、泣いている女の人ちせちゃん元へ向かう。

ちせちゃんは性に奔放な女性で、出会い系サイトで相手を探しているうちに、そのうちの一人に強姦されてしまう。そんなちせちゃんときりこが共鳴し予知夢として現れたのである。

それでもちせちゃんは自分を貫く。
「あたしは、自分のおっぱいと、足が綺麗やと思うから、出してんの。」といってミニスカートを履くのだ。

やがて文句をいわれずセックスするためにAV女優になったちせちゃんと、きりこは会社を立ち上げる。

自分が自分でいるために必要なこと

ぶす。という言葉は、女性にとって凶器である。それでもこの物語はぶすであることの残酷さと、それを吹き飛ばす軽やかさと強さを持って描き出される。

前述のちせちゃんのセリフを受けてきりこは気がつく。
「自分のしたいことをしてあげれるのは自分しかいない」のだと。

目が小さかろうが、一重だろうが、太っていようが、痩せていようが、どんな服を着ていようが、自分のしたいことをしてあげられるのは自分だけだ。なんてそんな当たり前のことを私たちは忘れてしまう。

周りを気にして、自分の好きな服を着なくなり、言動を控え、調子に乗らないように努めてしまう。それは本当に正しい選択なのだろうか?

この本を読んでいると、きりことともに自分の自分らしいところを取り戻していくような気持ちになってくる。勇気をもらえる。

特にこのちせちゃんときりこのやりとりはぜひ実際に本を読んで体験してみてほしい。

初恋こうたくんとの再会

きりこの薔薇色の少女時代を終わらせた張本人であるこうたくんは、変わり果てた姿できりこの前に現れる。

ちょっと悪くてかっこよくてシャイで照れ屋な彼はいなくなり、構成員時代に喧嘩で潰された左目、流星のような傷跡、があるただのチンピラへの変化を遂げていたのである。

人を中身で見てきたきりこはぶすと言われた理由を理解できなかったが、こうたくんの「容れ物」が変わっていることにがっかりしてしまう。
そこで自分自身もきりこは容れ物に自分自身も囚われていたことに気がつくのだ。

容れ物も、中身、歴史込みで自分

「うちは、容れ物も、中身も込みでうち、なんやな」
「今まで、うちが経験してきたうちの人生のすべてで、うち、なんやな!」

人は中身だけでも、見た目だけでもなく、その経験、歴史すべてひっくるめてその人自身になりえる。

他人からの評価は見た目で変わりうるかもしれないが、その人自身を作るのはその人の中身であり歴史が必要になるのだ。そして「自分のやりたいことをしてあげられるのは自分しかいない」

正直な話、この物語を読んでも、私は肩書きや見た目といった「容れ物」にとらわれている。

可愛らしい同級生には、どんな人なのか考えるより先に「可愛いないいな」と思ってしまうし、学歴のある人はその人がどんな人生を歩んできたか考えるより先に「羨ましい」と思ってしまう。

でも、自分自身が自分を愛する上で容れ物も中身も歴史も人と比べる必要のないものなのだと感じることができた。

きりこは「ぶす」という自縛から解き放たれることで自分を取り戻したが、それ以外にも「学歴」「収入」「家庭環境」「出身地」さまざまなラベルを持った人が少しだけでも自由になれる。「きりこについて」はそんな作品だ。

https://www.amazon.co.jp/きりこについて-角川文庫-西-加奈子/dp/4043944810


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