Z世代が頑張らない風潮について異議を唱える。

呟き

オヂサンたちの愚痴を聞きながら日々を過ごしている。
変わらない体制、変えようとしない現実を文句を垂らすことで凌いでいる。
いつもお勤めご苦労様です。
最近は愛想笑いはせずに、面白かったら笑う、面白くなかったらスルーの方針で対応しているが、勝手に喋ってくれるみたいだ。


頑張りを拒絶する社会

ホワイト企業、ブラック企業という呼称が普及して久しい。
労働環境の水準によってそれらは決められるようだ。
学校教育や部活などにもその波紋は及んでいて、厳しすぎる指導にストップを止める人たちもいる。
他に、頑張ったことを美談にすると押し付けるなという意見も飛んでくる。
大前提として、心身に悪影響を及ぼすようなことは良くない、という意見にも同意はできる。だがしかし、頑張らないことは本当に歓迎されるべきことなのだろうか。

そもそも頑張るとは

がん‐ば・る〔グワン‐〕【頑張る】
[動ラ五(四)]《「が(我)には(張)る」の音変化、また「眼張る」の意からとも。「頑張る」は当て字》
1 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して—・る」
2 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我(が)を張る。「—・って自説を譲らない」
3 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が—・っているので入れない」
デジタル大辞泉 https://www.weblio.jp/content/頑張る

記事を書こうとして上記を調べたら、今日書きたい内容は全て書いていた。
1の意味ではなく、2の意味があるのを忘れてはいけない、むしろそちらをメインにすべきという話をしたかった。

頑張るのは当たり前である。

上を目指すなら、だが。

自分が好きで始めたことなのに、頑張りすぎないように言ってくる人たち、世間の潮流がある。頑張るのは当たり前だし、そもそも好きだから勝手にやっているだけなのに。
頑張らないとその環境で目立った存在になれない。目立つことが目的でなくとも、結果がついてくるとその分自分に優遇的な措置が取られやすい。

社会は主体性の有無で歴然とした差が開くようになってしまった。

自分でコントロールできる範囲内で全力を尽くす=頑張るであり、こちらは自分の意思で勝手に成長していくから、どんどん先へ進んでいく。
他人に決められたことを必死にやる=やらされた事に心身を尽くすのは、頑張るとは言えない。やらされまくっているの間違いだ。
だが、やらされでやっている人は向上心がなく、何もなければ現状維持に留まる。となると、無理にでもさせる必要があり・・・。と悪循環である。
このように、頑張ることが受け入れられにくい社会では、主体性があるかないかで差がひらきやすい。

これまではやらされだったとしても、無理強いのスパルタ教育で何とかレベルの底上げがされていた。しかし、現代ではそういった無理強いはコンプライアンス的にNGである。だから、自分が自分を育てるしかないのだ。

正直、やらされの人たちしかこういった文句は出てこないとも思う。
夢中になっていたらきついかどうかなど気にしないし、気が付かない。

指導する側はどうするべきなのか?

兎にも角にも主体性を育てることに尽きる。
が、やらされと思わせないようにするためには、やりがいを強調しがちである。
となると、やりがい搾取と言われてしまう。偏見だが、やらされがちな人々はやりがい搾取に強いアンテナを持っているような気がする。
押し付けではなく自然にそう思わせないといけない。

主体性の有無による好循環/悪循環

そもそも人生のターニングポイントがある人は強い。
強い内発的動機付けが自己の中にあると、他人の決めた尺度ではなく自分との対話の中に答えを見つけようとするから、主体性がそだちやすい。

一方で、やらされの人生を歩んできた人は、他人の尺度で生きているから常に文句がでがちであるし、人生のターニングポイントに出会うことも難しいと感じる。
ターニングポイントに出会える道を避けようとするし、出会っても気付かないからだ。ターニングポイントというのは往々にして、面倒臭いことの先にある。

たとえ周りから何と言われようと、自分が勝手にやったことだ、と何の曇りのない目で言えたら、それが一番いいのかもしれない。
結局は誰が自分の人生を決めるのか、である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?