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厭世家にも人に褒められたい感情が残っていたはなし。

noteに書いたりすることだけじゃなく、まあ20代からいろいろあったから、社会の冷たさとか、支援ビジネスの薄っぺらさとか、承認欲求のなれの果てとか、とかく「普通」の生活、ビジネスで成功することや、起業や、コミュニティに関して、参加はするものの、温度感は違っていて、その温度感を認識して、鬱状態になる、っていう社会不適合者だなと思うわけだが。

不適合といっても、「適合できないのが悪い」とは思っておらず、今の社会に適合できる人は逆にもっと病むか、人のこころがわからない人になると思っているのでそれはそれでカテゴライズとしては嫌ではない。

このイヤではない、っていう感覚(罪悪感まみれにならない)がどうにか、バランスを保ってこれたポイントなんではないかと思ってる。
最初は普通になれない自分を責める時期もありました。

でも、生物のホメオタシスを考えたら、

・世の中のバランスに合わせたら→からだ壊す
・自分のバランスを崩さないようにする→社会に適合できなくなる


ってことだと思うので、まあどっちを優先するかだな、と。
前者を若いころにやってからだを壊してきたわけだから、後者を選択するしかないわけで。自分的には。

で、なんというか苦労はもうしたくないんだけど、
だからといって、社会起業とかそういうことで活躍したい、とかもあまり思わない。
支援というか、世の中の課題について、そういう起業がおこなわれたりするけどさ、「ビジネス」の得意な人たちであって、社会課題については実感できないままやっている人が多いと思うんだよね。
それって、ニーズわかってないのと同じだと思っていて。
当事者経験があったりすると、ニーズはわかる。それにビジネスセンスが加わればうまくできそうなもんだけど、なまじ当事者経験があると苦しいのがわかるからお金をどこから取るか、当事者から取りたくはなくてビジネスにはならないという堂々巡りになってしまう。

ホントは大きい会社がCSRとして、どんどんやっていくべきだと思うんだけどね。
っていう、認められたい(実働分の報酬は必須だとしても)があまりない自分でもほのかに残っていた感覚を今月実感しまして。

長年、シングルでフリーランスやら何やらで、精神的にも生活的にも「普通」まで行きつかない毎日を送ってきてて、今月急に企業に所属することになったんだよね。

自分の人生ずっと知っている人が周りにひとりもいないから、共有できなんだけど、この「企業に所属する」という普通っぽいこと、普通に(笑)考えたら、体調・環境含めてここに繋がるのって結構難しいことだったと思う。

ずっと、動けない時期とか、変えられない環境とか、いろいろ抱えた状態で「普通」のエリアに入り込むのって、ものすごく常に気を張って、全方向意識してたからだと思っていて、すごく長い間疲れてきていて、そのなかでも一応折れずに、ではなく折れまくりつつ、ただ投げださなかった、というだけなんだけど、それはそれで20年近くもやれば、心理的負荷は相当なわけで。

だから、その「会社に所属」という普通っぽいこと、獲得したことを誰かと共有したい、っていう想いが自分のなかにあったことを今回発見して、素直に褒められたい、って思ったんだけど、そういう話題を共有する相手もいないことからnoteに書き連ねて昇華しています。。

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